第10章:脱出、黄金の城へ
それは、圧倒的な「質量」を持つ死の匂いだった。
深夜の九度山、真田の屋敷の奥座敷。
普段は灯りもろくに点けられない薄暗い部屋の中心で、それは暴力的なまでの光を放っていた。
黄金である。
豊臣家の特使が極秘裏に運び込んだ、莫大な量の大判小判。そして白銀(丁銀)の束。
それらが何箱もの長持から溢れ出し、畳の上に乱雑に積み上げられていた。彩度を極端に落とした灰色の世界の中で、この黄金だけが毒々しいほどの黄色と輝きを放ち、人間の業の深さを際立たせるための強烈なコントラストとして映し出されるだろう。
「……これが、豊臣の命の値段か」
父・真田幸村は、無造作に一枚の大判を拾い上げ、火鉢の微かな明かりにかざした。
その瞳には、黄金への執着も、歓喜も一切ない。あるのは、盤上の駒の数を数える冷徹な戦術家としての計算だけだった。
「内記。この金銀を、村の者たちと、我々に追従できない老いた家臣たちに全て分け与えよ。徳川の詮議が入る前に、彼らをこの村から逃がせ」
「御館様……よろしいのでございますか。これは大坂入城のための……」
「大坂の蔵には、これの何万倍もの金が腐るほど眠っている。死に行く我々に、道中の路銀以上の金は不要だ」
父の采配は、鬼気迫るほどに芸術的で、そして無慈悲だった。
感情を一切交えず、ただ「いかにして最も効率よく大坂へ辿り着き、徳川の喉元に食らいつくか」という一点のみに最適化された職人技。
彼はこの数日の間に、浅野の監視網の隙間を縫って武具を調達し、紀ノ川の船を抑え、十勇士たちを各所に配置して脱出の経路を完璧に構築していた。
僕は、部屋の隅でその黄金の山を見つめながら、震える膝を必死に押さえていた。
いよいよだ。
僕が生まれ、育ち、そして一度も外の世界に出たことのないこの「九度山」という泥の鳥籠が、今夜、壊れる。
その先にあるのは、何十万人という人間が鉄と火薬で肉塊に変わる、史上最大の地獄だ。
「大助」
父の低く、地を這うような声が僕を呼んだ。
「はい」
「お前は私の傍らから離れるな。……今日からお前は、真田の嫡男として、地獄の釜の底をその目で見開いて歩け」
父の言葉は、僕への死の宣告に等しかった。
僕は青ざめた顔で深く頭を下げた。
その時、僕の背後の深い闇から、むせ返るような伽羅の香りが漂ってきた。
「ご安心を、大助様」
音もなく現れたのは、才蔵だった。
彼女は今夜、僕の部屋で見せるような柔らかな女の姿ではなかった。
濡れたような漆黒の忍び装束。その上に、白糸で細かな刺繍が施された陣羽織を羽織り、顔の下半分から右の火傷を完全に覆い隠すように、純白の陶器で作られた「狐の面」を被っている。
面から覗く左目は、人間としての感情を完全に死滅させた、絶対零度の暗殺者のそれだった。
「私の命に代えても、大助様のお体には火の粉一つ、血の一滴すら触れさせはいたしません」
才蔵はそう言い切ると、腰に帯びた二振りの小太刀の柄に手をかけた。
「……御館様。浅野の監視網、表に二十、裏山に十五。……刻限です」
父が、静かに立ち上がった。
そして、傍らに置かれていた十字槍(十文字槍)を手に取った。柄には朱塗りが施され、穂先は冷たい月光を吸って青白く光っている。
「真田の六文銭、再び冥府の川を渡る時が来た。……才蔵、道を作れ」
「御意」
才蔵の体が、ブレた。
彼女が懐から取り出したのは、特殊な調合が施された灰色の粉薬の束だった。それを屋敷の四方の火鉢と、庭に仕掛けられていた篝火に次々と放り込んでいく。
ボフッ!!
鈍い爆発音と共に、強烈な化学反応が起きた。
発煙筒などという生易しいものではない。それは、九度山の湿気と夜風を完璧に計算し尽くした、人工的な「濃霧」だった。
粘度の高い、乳白色の霧が、まるで生き物のように地面を這い、一瞬にして真田の屋敷全体を、そして浅野の監視網を飲み込んでいった。
視界が数寸先までしか利かない、絶対的な白の世界。
「な、なんだこの煙は!?」
「真田の屋敷からだ! 構えろ! 槍を衾にしろ!」
霧の向こうから、慌てふためく徳川方の足軽や、伊賀の密偵たちの声が聞こえる。
しかし、彼らの声は、次々と「湿った破裂音」によって断ち切られていった。
ズチャッ……。ゴキッ……。
霧の中を、純白の狐面が舞っていた。
才蔵だ。彼女は視覚に頼らず、敵の心音と呼吸音だけを感知し、無音で殺戮を繰り広げていた。
小太刀の刃が、足軽たちの竹や革で編まれた粗末な胴具足を易々とすり抜け、頸動脈や大腿動脈を正確に切断していく。彼女の動きはもはや武術というより、血と肉を素材にした残虐な舞踊だった。
霧の中で血飛沫が舞うたびに、乳白色の空間に赤い染みが滲んでは消えていく。極限まで煮詰めたような、美しくも吐き気を催す死の芸術。
「出立する!」
父の号令と共に、僕たちは霧のトンネルの中へと駆け出した。
僕の横には、常に才蔵が影のように張り付いている。彼女の狐面にはすでに黒い血が飛び散っていたが、僕を見るその左目だけは、狂おしいほどの熱と愛着に濡れていた。
◆
九度山を抜け、大坂へと続く山道。
そこは、正規軍と忍び、そしてはぐれ者たちが入り乱れる、血と泥の回廊と化していた。
「ヒャハハハハッ!! 徳川の豚どもがぁ!! 串刺しにして干し肉にしてやるぜぇ!!」
山道の先陣を切るのは、由利鎌之助と三好兄弟だった。
鎌之助の身の丈ほどもある鎖鎌が唸りを上げ、密集しようとする浅野の足軽たちを薙ぎ払う。分銅が足軽の陣笠ごと頭蓋骨を粉砕し、脳漿が夜の闇に撒き散らされる。
清海入道の六角金砕棒が振るわれるたびに、人間の胴体が「くの字」に折れ曲がり、内臓が口から吐き出された。
しかし、追手もただの烏合の衆ではない。
浅野軍の正規部隊である鉄砲組が、山の斜面に陣取っていたのだ。
「放てェ!!」
暗闇を切り裂く、数十のオレンジ色の閃光。
鼓膜を破る轟音と共に、鉛玉の雨が僕たちを襲った。
「大助様!!」
才蔵が僕の体を突き飛ばし、自らの体を盾にするように覆い被さった。
ドスッ! という嫌な音がして、僕の数歩前を走っていた真田の若い家臣の顔面が、半分吹き飛んだ。
血と肉片が、スローモーションのように僕の顔に降り注ぐ。
生温かい。鉄の匂い。
つい昨日まで、僕に「大助様、畑の大根が立派に育ちましたぞ」と笑いかけていた男が、ただの赤い肉の塊になって地面に転がっている。
「あ、あぁぁ……ッ!」
恐怖で声が裏返る。これが、戦争だ。これが、父が求めた世界だ。
腰が抜けそうになる僕の腕を、才蔵の冷たく強い手が力強く引き上げた。
「大助様、立ちなさい! 止まれば死にます!」
狐面の奥の声は冷酷だったが、僕を掴む手からは、僕を絶対に死なせないという執念の熱が伝わってくる。
「十蔵! 伏兵の頭を吹き飛ばせ!」
父・幸村の指示が飛ぶ。
「任せな。俺の可愛い南蛮筒が、徳川の脳みそを喰いたがってる」
筧十蔵が、長大な火縄銃を構え、一切の躊躇いもなく斜面へ向けて引き金を引いた。
彼の放つ銃弾は、通常の鉛玉ではない。彼が独自に調合した、着弾と同時に炸裂する特殊な散弾だった。
ドガァァン! という爆発音と共に、斜面にいた鉄砲組数人が火ダルマとなって転げ落ちてくる。
その隙を突き、海野六郎と根津甚八が斜面を駆け上がり、残った敵の喉元を冷徹に掻き切っていった。
十勇士たちの狂気じみた戦闘力と、父・幸村の神がかった采配。
彼らは血塗れの山道を、まるで整備された街道を進むかのように、確実に、そして残酷に突破していった。
僕はただ、才蔵の手を握りしめ、転がる死体を踏み越えながら、無様に息を切らして走り続けることしかできなかった。
◆
夜が明け、僕たちは幾つかの小さな村落を通過した。
そこで僕の網膜に焼き付いたのは、戦闘の恐怖よりもさらに重く、陰鬱な「戦国の現実」だった。
大坂へと続く街道沿いの村々は、すでに正規軍や野盗(野武士)たちによって無惨に蹂躙されていた。
茅葺き屋根の家は焼かれ、黒焦げの柱だけが墓標のように立ち並んでいる。
道端には、腹を空かせ、泥水をすすって死に絶えた農民の死体が転がり、それに群がる野犬やカラスの群れがいた。
焼け残った納屋の陰から、僕たちを怯えた目で見る村人たち。
彼らの手には、錆びた鎌や、先端を尖らせただけの竹槍が握られている。彼らは、徳川だろうが豊臣だろうが関係ない。ただ自分たちの僅かな食糧と女を守るためだけに、その無力な武器を震える手で構えているのだ。
「……ひどい」
僕は、道の端で、死んだ母親の冷たくなった乳房を啜りながら泣いている赤ん坊を見て、思わず足を止めた。
胃液が逆流する。
これが、武士の誉れか。これが、天下分け目の戦いというものの正体か。
父上たちが大義名分を掲げて盤上で駒を動かすたびに、この地べたを這う弱い人間たちが、ゴミのように踏み潰されていくのだ。
「見ないでください」
才蔵の冷たい手が、僕の目をそっと覆い隠した。
「この世界は、最初から狂っているのです。彼らには彼らの地獄があり、私たちには私たちの地獄がある。……大助様は、ご自身の命のことだけをお考えになればよろしいのです」
才蔵の言葉は冷酷だった。
だが、僕の目を覆う彼女の手のひらは、僕の震えを鎮めるように優しく、そして微かに震えていた。彼女もまた、かつて関ヶ原で、この農民たちと同じように泥の底を這いずり回り、業火に焼かれた経験を持つ人間なのだ。
彼女の残酷さは、この狂った世界で僕を生かすための、血の滲むような防壁だった。
僕は、彼女の冷たい手に頬を擦り寄せ、無言で頷いた。
もう、逃げ場はない。僕たちは、最も巨大な地獄の釜の底へと、自分たちから向かっているのだから。
◆
逃避行の三日目の夜。
僕たちは、街道から外れた山中にある、打ち捨てられた荒れ寺に身を隠した。
周囲には、海野六郎や佐助が厳重な罠と警戒網を張り巡らせており、ようやく一息つける空間だった。
本堂の薄暗い隅。
仏像の首が落ち、腐った畳が散乱するその場所で、僕は泥と血と汗に塗れた体を丸めて震えていた。
極度の疲労と、死の恐怖、そして何より、今日一日で目撃した無数の死体と暴力の記憶が、僕の脳髄をパニック寸前にまで追い込んでいた。
「大助様」
甘く、とろけるような声と共に、伽羅の香りが僕の鼻腔を包み込んだ。
才蔵だった。
彼女は、外界で見せていたあの恐るべき白狐の面も、装束の陣羽織も脱ぎ捨てていた。
濡れたような黒い薄絹一枚だけを纏い、僕の傍らに跪く。
彼女の顔の右半分、あの凄惨な火傷の痕が、寺の隙間から差し込む青白い月光に照らされて生々しく浮かび上がっている。
しかし、彼女がその薄絹の襟元を大きくはだけさせた時。
そこに現れたのは、首の火傷の境界線から下……一切の傷も、戦いの痕跡すら存在しない、神の傑作のような「白磁の肉体」だった。
豊満な双丘が、重力に従って美しい曲線を描き、その純白の肌が、薄暗い寺の中で自ら発光しているかのように艶めかしい光を放っている。
日中、何十人という人間の首を掻き切り、血の雨を降らせていた死神の体とは到底思えない。それは、むせ返るような「雌」の官能と、息が詰まるほどの母性を極限まで煮詰めた、完璧な天国だった。
「ひどい泥と血です……。さあ、私が綺麗にして差し上げます」
才蔵は、持参した水筒の水を自らの手拭いに含ませると、僕の顔や首筋にこびりついた他人の血と泥を、極めて優しく、赤子を慈しむように拭い始めた。
彼女の氷のように冷たい指先が僕の肌を這うたびに、僕の中で張り詰めていた狂気の糸が、少しずつ解けていくのが分かった。
「才蔵……っ、怖かった。人が、人があんなに簡単に肉の塊になって……村の赤ん坊が……っ」
僕は耐えきれず、彼女のその白磁の胸に向かって崩れ落ちた。
才蔵は僕の頭を強く、しかし優しく抱きしめ、自らの豊かな乳房の間に僕の顔を完全に埋めさせた。
「ん……っ!」
むせ返るような女の匂いと、伽羅の香り。
右の胸元の火傷のザラザラとした熱と、左の乳房の信じられないほど滑らかな感触。
僕は、酸素を求めるように彼女の胸に顔を擦り付け、その熱を貪った。
「ええ、ええ。怖い世界です。醜く、残酷で、血の匂いしかしない狂った世界です」
才蔵は僕の背中に腕を回し、自らの焼け爛れた右頬を、僕の頭頂部にすり寄せた。
「でも、大助様には私がいます。この白磁の体は、あなたの恐怖をすべて吸い取り、慰めるための泥の器。そして、この醜く焼けた顔は、あなたに近づく全ての外敵を喰い殺すための鬼の仮面……。何も見なくていい。何も考えなくていい。今はただ、私の胎内で、私の熱だけを感じていてくださいませ……」
彼女の声は、咽び泣くように甘く、そして狂信的な愛に満ちていた。
僕は、彼女の純白の胸の谷間に口付けを落とし、その肌に歯を立てた。
外界の地獄から逃れるように。
彼女の完璧な肉体という甘い牢獄の中に、永遠に閉じ込められてしまいたいと願いながら。
才蔵もまた、僕の愛撫に応えるように、抑えきれない女の嬌声を暗い本堂に響かせた。
最後の一線だけは頑なに守りながらも、彼女は自らの持つ「雌」としてのすべてを、僕という怯える少年の恐怖を鎮めるためだけに、惜しげもなく捧げ尽くしてくれた。
荒れ寺の夜は、外の血生臭い風を遮断し、僕たち二人だけの、異常なまでに濃密な共犯関係の闇へと沈んでいった。
僕の青春は、父の影と戦争の恐怖の中で、この顔のない女の母性とその完璧な肉体によってのみ、その形を保っていたのだ。
◆
そして、脱出から七日目。
幾多の死線を越え、泥と血に塗れた僕たちの目の前に、ついに「それ」が姿を現した。
「……あれが、大坂城か」
山を抜け、開けた平野の高台に出た時。
僕の視界を、圧倒的な質量の「暴力的な黄金」が埋め尽くした。
夕暮れの太陽を背に受け、天を突くようにそびえ立つ巨大な要塞。
幾重にも張り巡らされた巨大な堀。水を満たしたその堀は、まるで黒い鏡のように夕日を反射している。
そして、その中心に君臨する五層の天守閣。
屋根には黄金の鯱が輝き、破風には金箔が惜しげもなく貼り付けられている。
周囲の民家や、荒れ果てた野野風景とは完全に次元の違う、神の造形物のような圧倒的な威容。
神の視点で上空から俯瞰するのであれば、周囲の彩度を完全に奪い去り、この城の放つ「黄金と漆黒」だけを異常なコントラストで浮かび上がらせるだろう。
それは、豊臣秀吉という一人の狂った天才が作り上げた、権力と欲望の究極の結晶体だった。
と同時に、僕にはそれが、何十万人という人間の命を飲み込むために口を開けた、巨大で美しき「墓標」にしか見えなかった。
「フッ……。相変わらず、悪趣味なほどに派手な城だ」
父・幸村は、馬上からその黄金の城を見下ろし、初めて微かに口角を上げた。
彼の目には、ついに自らの命を燃やし尽くす「最高の死に場所」を見つけた、武将としての暗い歓喜が燃え上がっていた。
「行くぞ。我ら真田の六文銭、あの黄金の城に、永遠に消えぬ血の刻印を打ち立ててやる」
父の号令と共に、真田の勇士たちが歓声を上げ、家臣たちが静かに槍を握り直す。
彼らは、死に向かって行進を始めたのだ。
僕は、震える足で馬を進めながら、隣を歩く影を見た。
才蔵は、再び純白の狐面を被り、完璧な暗殺者としての冷気を纏って僕の傍らに張り付いていた。
しかし、その装束の下には、昨夜僕の恐怖を鎮めてくれた、あの熱く滑らかな白磁の肉体が隠されていることを、世界で僕だけが知っている。
大坂冬の陣。
世界で最も残酷で、最も美しい殺戮の祭典が、今まさに幕を開けようとしていた。
僕はこの黄金の檻の中で、父の影に抗いながら、顔のない伴女と共に、ただ「生き延びる」ための地獄の逃避行を始めることになるのだ。
(第一部・九度山の霧と火傷の女 完)




