第09章:時代の足音、鐘の銘と異形たちの日常
九度山の朝は、常に湿った灰の色から始まる。
深いすり鉢状の盆地に溜まった夜の冷気が、朝日を吸って白く重い朝靄へと変わる頃。村のあちこちから、煮炊きのための細い煙が立ち昇り始める。
それは、徹底して地に這いつくばった泥臭い日常の匂いだった。
大根を煮る味噌の匂い、湿った薪が爆ぜる音、そして、真田の家臣たちが朝露に濡れた畑へと踏み出していく、わらじと土が擦れる重い足音。
かつて信州上田で何万という軍勢を退けた真田家の精鋭たちは、今やこの紀州の山村で、文字通り泥水を啜るようにして命を繋いでいた。
高梨内記をはじめとする数少ない古参の家臣たちの顔には、深い皺と諦念が刻まれている。彼らは刀を鍬に持ち替え、荒れ地を開墾し、母上が考案した真田紐を織るための木綿を栽培していた。
彼らの手は、かつて槍を握って敵の血を浴びた手だ。それが今は、土に塗れ、霜焼けでひび割れ、指先から血を滲ませながら、黙々と大根を引き抜いている。
その光景は静かで、残酷なまでに美しかった。彼らの背中には、歴史から見捨てられた者たちの、静謐な絶望と絶対的な忠誠がへばりついている。
だが、その細々とした平和な日常の裏側で、父・幸村という特異点に引き寄せられた「異形」たちが、この泥臭い村の風景に、不気味な血の匂いと狂気を少しずつ滲ませ始めていた。
◆
僕は屋敷を出て、朝靄の中を小川の方へと歩いていた。
視界の端々で、この平和な村には絶対に存在してはならないバケモノたちが、それぞれの「日常」を過ごしているのが見える。
納屋の裏手。ツンとした硫黄と硝煙の匂いが漂う暗がりで、二人の男が黙々と土を捏ねていた。
筧十蔵と望月六郎だ。
長大な南蛮筒(火縄銃)を我が子のように抱き抱える筧十蔵は、極度の火器信奉者だ。彼は僕が通りかかっても見向きもせず、油布で銃身を磨きながら、「湿気で火薬が泣いている……徳川の頭蓋を撃ち抜く前に、鉛玉が腐っちまう」と、虚空に向けてブツブツと呪詛を吐いている。
その横で、望月六郎は泥と獣の糞、そして黒色火薬を混ぜ合わせて焙烙火矢(ほうろくひや:手投げ弾)を無数に作っていた。彼の指先は火薬の調合で真っ黒に染まり、その笑顔は、純粋な破壊を夢見る職人のように無邪気で、おぞましかった。
母屋の縁側を回ると、今度は息の詰まるような静寂があった。
碁盤を挟んで向かい合う二つの影。
真田家の頭脳とも言える参謀・海野六郎は、鉄扇を片手に、感情を完全に死滅させたような冷たい目で盤面を見つめている。彼の計算の中では、人間の命などただの数字の羅列に過ぎない。
そして、彼と対局している男の横顔を見て、僕は思わず足を引きずりそうになった。
穴山小助。
赤い甲冑を着込み、顎髭を蓄えたその姿は、父・幸村に瓜二つだった。影武者として父の代わりに死ぬことだけを存在理由とする男。彼には「自分」という自我がなく、ただ父の模造品として呼吸している。その空っぽの瞳は、僕自身の抱える虚無とどこか似ていて、直視するのが恐ろしかった。
「ヒャハハハハッ!! 豊作だ、豊作だぜぇ!!」
畑の方から、空気を切り裂く鋭い風切り音と、金属が擦れ合う狂ったような音が響いた。
由利鎌之助だ。
全身に古傷を刻んだ血に飢えた狂戦士。彼は、己の背丈ほどもある巨大な鎖鎌をブンブンと振り回し、雑草ごと畑の作物を薙ぎ払っていた。遠心力で弾き飛ばされた分銅が、隠れていた野兎の頭を吹き飛ばし、血飛沫が朝靄の中に赤い花を咲かせる。
「鎌之助! 畑を荒らすなと何度言えば分かる!」
川の中から、ずぶ濡れの男が這い上がってきて怒鳴った。水軍の将・根津甚八だ。彼は紀ノ川の冷たい水流に潜り、徳川の刺客を水底に引きずり込むための罠を張っていたらしい。彼の手には、引きちぎられた見知らぬ男の丁髷が握られていた。
そして。
「……またか」
小川の淀みに辿り着いた僕の後ろから、薪と、仕留めたばかりの巨大な猪を肩に担いだ二人の巨漢が現れた。
三好清海入道と、その弟の三好伊左入道だ。
兄弟揃って熊のような体躯を持つ彼らは、川に浮かぶ三匹の野犬の死骸(腹を裂かれ、内臓がはみ出した徳川の密偵による嫌がらせ)を無感動に見下ろした。
伊左入道が、巨大な薙刀の柄で犬の死骸を川岸へ引っ張り上げる。
「浅野の犬どもの嫌がらせだ。今月で四度目だぜ。俺たちの心をへし折ろうって腹積もりだろうよ」と清海。
「兄者、この犬の肉、猪と一緒に鍋に放り込んで食っちまうか? 徳川の味付けだ、さぞかし血生臭くて美味かろうぜ」と伊左が下品に笑う。
その頭上の松の枝から、猿飛佐助が逆さにぶら下がり、首の折れた伝書鳩を放り投げて笑う。
狂っている。
真田十勇士。最強のバケモノたち。
彼らはこの陰湿な嫌がらせの日常に、恐怖どころか「戦争の予感」を感じ取って興奮しているのだ。
彼らには、守るべき平和など最初からない。ただ、父という炎に身を投じ、華々しく燃え尽きる日を待つだけの、死に場所を求める亡霊たち。
その圧倒的な「死への渇望」に囲まれ、僕は自分の足元がぐらぐらと揺れるのを感じていた。
死にたくない。こんなバケモノたちと一緒に、あるいは誰かの駒として無惨に肉塊に変わるのだけは、絶対に嫌だ。
僕は、逃げるようにその場を立ち去った。
冷たい秋風が、僕の襟元を撫でていく。僕は無意識のうちに、村のさらに奥、深い森に閉ざされた一角へと足を踏み入れていた。
◆
苔生した古い石段を登った先に、その小さな石塔はあった。
祖父、真田昌幸の墓。
天下の家康を二度も震え上がらせた「表裏比興の者」。戦国の世を最も狡猾に、最も鮮やかに泳ぎ切ったはずの祖父は、この九度山の地で、恩赦を待ちわびながら無念の内に病死した。
墓石には、ただ静かに苔が張り付き、彼がかつて放った巨大な威光など微塵も感じさせない。
僕は、その冷たい石碑にそっと手を触れた。
「……お祖父様」
僕の記憶の中にある祖父は、天下が恐れた希代の謀将としての顔ではない。
僕がまだほんの幼い子供だった頃。病床に伏せっていた祖父は、庭で一人遊んでいた僕を縁側から手招きした。
『大助。……こっちへ来い』
骨と皮だけになった、しかし恐ろしいほど眼光の鋭い老人が、僕の頭にその筋張った手を乗せた。
ゴツゴツとした、驚くほど温かい手だった。
『源次郎(幸村)はお前を厳しく育てるだろう。だがな……真田の血などという呪いに、お前が押し潰されることはない。生きろ。泥を舐めてでも、無様に這いつくばってでも、お前の命はお前のものだ……。わしのように、閉じ込められて死ぬな』
それは、天下の謀将が最期にこぼした、たった一人の孫に対する、不器用で痛切な「哀憐」だった。
父・幸村が僕に背負わせる「武士としての完成(死)」とは対極にある、ただ生きてほしいという純粋な願い。
僕は、冷たい墓石に額を押し当てた。
「お祖父様……世界が、また狂い始めました。父上は、死に場所を探しています。十勇士のバケモノたちも、血を求めて笑っている。僕は……僕だけが、空っぽのまま、この波に飲み込まれようとしています」
石碑は何も答えない。
ただ、森の奥から吹き抜ける風が、僕の孤独を冷ややかに撫でていくだけだった。
◆
その日の夕刻。
ついに、時代の足音が、物理的な「音」となって九度山の屋敷に叩きつけられた。
大坂から、一人の密使が馬を飛ばして駆け込んできたのだ。
屋敷の空気が、一瞬にして凍りついた。
家臣たちが慌ただしく動き回り、奥の座敷では父・幸村が、手紙を握りしめたまま、長く、重い沈黙を保っていた。
方広寺鐘銘事件(ほうこうじ しょうめい じけん)。
豊臣家が再建した方広寺の大仏殿。その梵鐘に刻まれた銘文が、徳川家康の逆鱗に触れたという。
『国家安康』
『君臣豊楽』
家康の名を切り裂いて呪い、豊臣の繁栄を願う言葉だと、徳川が難癖をつけてきたのだ。
それは、誰の目にも明らかな「言いがかり」だった。
だが、その言いがかりこそが、家康が豊臣を完全に地上から消し去るために用意した、最終戦争の「火蓋」であった。
「……決裂だ」
座敷の奥から、父の地を這うような声が響いた。
その瞬間、屋敷中の空気が、まるで真空状態から一気に解放されたように、強烈な血の匂いへと反転した。
庭先では、由利鎌之助が狂ったように鎖鎌を振り回して叫び、筧十蔵が火縄銃を空へ向けて撃ち放つ。古参の家臣たちの目には、絶望と、そして最後の奉公に向かう凄絶な覚悟の火が灯った。
平和だった九度山の最後の楽園が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
明日をも知れぬ泥臭い日常は終わり、確実な「死の祝祭」へ向かって、すべてが加速し始めたのだ。
僕は、その狂乱の渦から逃げるように、自分の部屋へと走り込んだ。
障子をピシャリと閉め、薄暗い部屋の隅にうずくまる。
震えが止まらなかった。
戦争が始まる。僕も大坂へ連れて行かれる。あの、人間が肉塊に変わる地獄へ。父と共に、豊臣と共に、灰になるために。
「大助様」
唐突に、闇の中からその声が響いた。
部屋の隅、最も濃い影の中から、音もなく「彼女」が姿を現した。
才蔵だった。
彼女は、外界の騒乱など一切存在しないかのように、絶対的な静謐を保っていた。
純白の狐面も、晒しも着けていない。
左半分の完璧な美貌と、右半分の凄惨な火傷の痕。
そして、濡れたような黒装束の襟元から覗く、あの圧倒的に美しく、柔らかな「白磁の肌」。
彼女は十勇士という狂人たちの集団には決して交わらず、ただ僕の影としてのみ、この世界に存在していた。
彼女は、震える僕の前に跪くと、その冷たい両手で僕の顔を優しく包み込んだ。
「外が、騒がしいですね。……つまらない獣たちが、また無意味な血の匂いに発情している。でも、大助様には関係のないことです」
彼女の声は、鼓膜に直接蜜を注ぎ込まれるように甘かった。
「才蔵……、戦が……戦が始まるんだ! 父上は僕を連れて行く! 僕は死ぬんだ、大坂で……ッ!」
パニックを起こして叫ぶ僕を、才蔵は力強く、自らの胸に抱き寄せた。
「ん……っ」
僕の顔が、彼女の豊かな双丘の間に埋没する。
右の胸元の火傷の熱と、左の乳房の冷たく滑らかな感触。むせ返るような伽羅の香りが、僕の鼻腔を完全に支配し、外界の恐怖を暴力的に遮断していく。
「死なせません」
才蔵は、僕の後頭部を撫でながら、耳元で静かに、しかし絶対的な狂信を込めて囁いた。
「時代がどれほど狂おうと、鐘の音がどれほど不吉に響こうと。私のこの傷のない完璧な体は、すべてあなたをお守りするためにあるのです。……獣どもが束になろうと、徳川の何万という兵が押し寄せようと、私がすべて、血の海に沈めてみせましょう」
彼女の左の手が、僕の背中を撫で下ろし、もう一方の右手が、僕の首筋に熱い吐息と共に絡みつく。
彼女は自らの黒装束の帯を解き、その上半身の白磁の肉体を、僕の視界に完全に晒した。
月光に照らされた彼女の裸体は、息を呑むほどにエロティックで、そして神聖だった。
右顔の地獄の傷跡と、首から下の完璧な天国。
彼女は、その両方を僕に押し付けながら、甘く官能的な声で鳴いた。
「さあ……大助様。外の狂気など忘れて、私の熱に溺れてくださいませ。あなたが私に触れ、私を欲してくださる限り、この才蔵という化け物は、あなたの絶対の『盾』であり続けます」
彼女の冷たく、血の匂いのする唇が、僕の震える唇を塞いだ。
深い、深い接吻。
僕は彼女の白磁の背中に腕を回し、その滑らかな肌に爪を立てた。
彼女の冷たい指が、手のひらが優しく、ゆっくりと僕の下腹部へ滑り込んでくる。
もはや、この女の狂気に満ちた胎内だけが、僕にとって唯一の現実であり、唯一の救いだった。
屋敷の外では、死に向かう男たちの狂乱の宴が始まっている。
京都の方広寺で鳴り響いたあの鐘の音は、時代を終わらせる破滅の音だ。
だが、この四畳半の閉ざされた空間の中で、才蔵の豊かな乳房に顔を埋め、彼女の火傷の熱を全身で感じている僕には、もうどうでもよかった。
世界が燃え落ちようとも。
僕には、この顔のない完璧な伴女がいる。
彼女の放つむせ返るような牝の匂いと、息が詰まるほどの過保護な母性。
僕は、彼女の体温という底なしの泥沼へと、自分から喜んで沈んでいった。
戦国という時代の足音すら届かない、僕たちだけの、暗く、甘い深淵へと。




