第59話 女優の矜持
都心の閑静な高台に建つ、豪奢な洋館。
その南側に面した広大なアイランドキッチンに、無機質な電子音が響き渡った。
ピー、ピー、ピー。
家庭用電子レンジの、温め完了を知らせるアラーム音だ。
林優香は、手慣れた動作でレンジの扉を開け、熱々のプラスチック容器を取り出した。透明なフィルムの内側に細かい水滴がびっしりと張り付き、中の熱気を物語っている。
「……ふふ、やっぱりこれですよね」
優香はダイニングテーブルに腰を下ろし、満足げに息をついた。
彼女の目の前に置かれているのは、ローソンの『幕の内弁当』だ。
フィルムをペリッと剥がすと、コンビニ弁当特有の、どこか安心するような香りがふわりと立ち昇る。
こんがりと焼き色のついた鮭、出汁の染み込んだ里芋と人参の煮物、甘めの味付けが想像できる定番の卵焼き、そして小ぶりだがサクサク感の残るエビフライ。彩りよく、隙間なく詰められたおかずたちが、うっすらと湯気を立てていた。
その横には、あらかじめお湯を沸かしておいた大きめのマグカップが置かれている。
優香は、アマノフーズのフリーズドライのブロックを袋から取り出し、マグカップの底に落とした。電気ケトルから熱湯を注ぎ入れると、四角いブロックが「しゅわしゅわ……」と微かな音を立てて、一瞬にしてほどけていく。
瞬く間に、豚肉の脂の甘い匂いと、ごぼうやネギの野性味、そして合わせ味噌の豊かな香りが、広大なキッチン一帯に広がった。箸で軽くかき混ぜると、フリーズドライだったとは思えないほど、肉や野菜の具材がたっぷりと姿を現す。
「……相変わらず、美味そうだな」
カウンターの向こう側で、井上健太郎がブラックコーヒーの入ったマグカップを片手に、少しだけ呆れたような、だがどこか温かみのある視線を向けていた。
彼の足元では、豚汁の匂いに釣られた漆黒の仔猫『ロー』が、「ニャア」と鼻を鳴らして前足を伸ばし、キッチンカウンターによじ登ろうとしている。その横で、シルバータビーの『ハイ』が「はしたないニャ」とでも言いたげに、ローの頭をペチンと軽く叩いていた。
「美味しいですよ。アマノフーズの豚汁は、お湯を注ぐだけでこの本格的な味が出せるんですから。具材の食感も残っていて、企業努力の賜物です」
優香はマグカップを両手で包み込み、熱々の汁をズズッと一口啜った。
「あぁ……五臓六腑に沁み渡ります」
「俺が何か作ってやってもよかったんだぞ。……昨日の夜から、牛スジと香味野菜を赤ワインでじっくり煮込んである。今ならホロホロに崩れるくらい柔らかくなっているはずだ。バゲットを添えれば、立派なブランチになる」
「お気持ちはすごく嬉しいですが、今日はどうしてもこれが食べたかったんです」
優香は割り箸をパチンと割り、幕の内弁当の焼き鮭を小さくほぐして、白米の上に乗せた。
連日のドラマ撮影、雑誌のインタビュー、大手メーカーのCMオーディション。
用意される食事は、有名料亭の高級ロケ弁や、オーガニック野菜にこだわったケータリング、あるいは話題のレストランのデリバリーばかりだ。一口食べれば確かに美味しい。だが、どこか気が張る味でもあった。
だからこそ、ふとした瞬間に、こうしてコンビニの幕の内弁当やフリーズドライの豚汁が無性に食べたくなる。
奨学金と深夜のアルバイト代で食いつなぎ、何者でもなかった自分。
この安っぽくて、しかし確実に腹を満たしてくれる温かい味は、自分がどこから来たのかを思い出させてくれる「錨」のようなものだった。
「……それに、井上さんの作るお料理は、美味しすぎて気が抜けちゃうんです。今はまだ、私たち、戦いの最中ですから」
優香がエビフライの尻尾を齧り、サクッという音を立てた、その時だった。
「その通りよ。のんびりランチを楽しんでいる場合じゃないかもしれないわね」
カツ、カツ、カツ。
大理石の床を叩く硬質なヒールの音を響かせて、斎藤冴子がリビングに入ってきた。
いつもの戦闘的なダークネイビーのパンツスーツ姿だが、今日の彼女の表情には、明確な焦燥と、研ぎ澄まされた鋭い警戒心が浮かんでいた。手には薄型のタブレット端末が握りしめられている。
「冴子さん。どうかしたんですか?」
優香が箸を止めると、冴子は無言で自分のタブレットをテーブルの中央、幕の内弁当の横に滑らせた。
「心ちゃんが、ネットの海を回遊していて引っ掛けてきたデータよ。……明日の朝、とある中堅のネットメディアが配信予定のゴシップ記事のゲラ」
井上がコーヒーカップを置き、タブレットを覗き込む。優香も身を乗り出した。
そこに躍っていた見出しは、吐き気を催すほど悪意に満ちたものだった。
『清純派女優・林優香の黒い過去! 没落した帝都御曹司を食い物にした毒婦の素顔』
『悲劇のヒロインは捏造? 権力に取り入る枕営業の全貌』
記事の構成は、巧妙かつ執拗だった。
かつて優香が所属していた悪徳事務所の社長・権藤の「匿名の証言」という形で、優香が自ら進んで西園寺猛に近づき、パトロンとしての見返りを要求していたと断定している。
さらに、猛が主催していた会員制の乱痴気騒ぎに出入りしていた当時の優香の写真まで添付されていた。画質は粗いが、露出の多いドレスを着せられ、猛の隣に座らされているのが優香本人であることは、誰の目にも明らかだ。
「……九条の息がかかったメディアか」
井上が低く、温度のない声で呟いた。
「ええ。資金源を辿ると、複数のダミー会社を経由して九条グループのフロント企業に行き着くわ」
冴子が腕を組み、忌々しそうに真っ赤なルージュを引いた唇を噛んだ。
「昨日、心ちゃんがサイバー攻撃を叩き潰したばかりだって言うのに。奴ら、息つく暇も与えないつもりね」
「優香ちゃんを叩くことで、私たちの陣営全体――『新生・帝都HD』のクリーンなイメージに泥を塗るのが狙いね。……えげつないわ」
いつの間にかリビングに現れていた森舞永が、タブレットの画面を覗き込んで眉をひそめた。彼女は不機嫌そうに、美しいブロンドの髪をかき上げる。
優香は、記事のゲラを見つめたまま、微動だにしなかった。
血の気が引き、割り箸を握る指先が白くなっている。
視線の先にあるのは、パーティー会場で怯えながら猛の隣に座らされている、過去の自分の写真。
(……また、あの時に戻るの?)
心臓が早鐘のように打ち始める。喉の奥がカラカラに渇き、息が浅くなる。
権藤に脅され、逆らえば違約金を請求され、実家の家族にまで危害を加えると脅迫されていた日々。
逃げ場のない密室で、無理やり猛の相手をさせられ、尊厳をすり減らしていた、暗くて冷たい夜の記憶。タバコと安酒の混じった臭い。猛の粘着質な視線。
記事は、その「支配された被害者」としての側面を完全に切り捨て、彼女を「自ら体を売って権力を手にした狡猾な女」として描き出していた。
これが世に出れば、築き上げつつある女優としてのキャリアは一瞬で崩壊する。スポンサーは離れ、現在寄せられている世間の同情は、一転して凄惨なバッシングへと変わるだろう。ネットの匿名の悪意が、津波のように彼女を飲み込む光景が容易に想像できた。
「……南」
井上が、静かに声をかけた。
「法的な手続きで、この記事の配信を差し止めることはできるか」
部屋の隅のソファで、分厚い契約書の束に目を通していた清水南が顔を上げた。彼女の冷徹な知性を象徴するような、銀縁の眼鏡が光る。
「名誉毀損およびプライバシー侵害で、裁判所に仮処分申請を出すことは可能です。……ただ、相手もプロのメディアです。出版の自由と公益性を盾に、法廷闘争を長引かせる腹でしょう。それに、一度でもネットの海に放たれたデータを完全に消し去ることは、実質的に不可能です」
「なら、私がもう一回、権藤の裏口座のデータを洗って脅し返してやろうか?」
スピーカー越しに、2階のサーバールームにいる木村心の声が響いた。いつもは飄々としている彼女の声にも、今は静かな怒りが滲んでいる。
「あいつが優香ちゃんを無理やり猛にあてがった証拠、いくらでも発掘できるよ。……それをメディアにバラ撒いて、権藤を社会的に完全に抹殺する」
チームのメンバーたちが、次々と反撃のカードを提示していく。
彼らは優香を守ろうとしてくれている。それが痛いほど分かった。
「……優香」
井上の低く落ち着いた声が、リビングの空気を引き締めた。
彼は優香の隣に立ち、その顔を真っ直ぐに見下ろした。
同情でも、哀れみでもない。共に地獄を歩き、泥を啜ってきた「共犯者」に向ける、対等な視線。
「お前のスキャンダルだ。……どうしたい?」
もみ消すことはできる。
全てを南と心に任せ、自分は安全な場所で息を潜めていれば、嵐はいずれ過ぎ去るかもしれない。
だが、それでは九条蓮の思惑通りだ。
彼女は一生、「弱みを握られた女優」として、見えない恐怖に怯え続けることになる。権藤に支配されていた、あの頃と何も変わらない。
優香は、ゆっくりと息を吐き出した。
冷えかけていた豚汁の残りを一息に飲み干し、マグカップをテーブルに置く。温かい出汁が食道を通って胃に落ちる感覚が、彼女の芯に力を取り戻させた。
そして、顔を上げた。
その瞳には、恐怖の濁りはなく、静かで暗い炎が燃えていた。
「もみ消さないでください」
優香の言葉に、冴子がピクリと眉を動かした。
「隠せば、私はまた過去から逃げて生きることになります。……彼らが嘘と誇張で私を汚そうというのなら、私は真っ向から受けて立ちます」
優香は、タブレットに映る過去の自分の写真を、指先で静かになぞった。
「私は、井上さんたちと一緒に西園寺家を潰した共犯者です。……こんな三流の脚本で潰されるような、安い女優じゃありません」
その言葉の響きには、確かな覚悟と、泥水を啜ってでも生き抜いてみせるという凄みがあった。
「……上等じゃない」
冴子が、獰猛な笑みを浮かべた。
「その顔、最高にフォトジェニックよ。……相手が火をつけてくるなら、こっちも燃やし返してやるわ。九条の雇った三文ライターなんかに、あんたの物語は書かせない。最高のカウンターを仕掛けるわよ」
冴子はタブレットを手元に引き寄せ、凄まじい速度でテキストを打ち込み始めた。
井上は、力強く立ち上がった優香の背中を見て、わずかに口角を上げた。
「南、心。……冴子のシナリオに必要な弾を用意しろ。九条蓮に、我々の戦い方を教えてやる」




