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整形灰かぶり王子の二度目の遺言 〜義実家に殺されたので、10年前に戻って顔を変え、別人として御社を買収することにしました〜  作者: 伊達ジン
第4章:二度目の遺言

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第58話 カウンター・ハック

 都心の閑静な高台に建つ、広大な敷地を持つ豪奢な洋館。その南側に面した広大なリビングには、高く取られた大きなガラス窓から、秋特有の澄み切った柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。

 暖かな光のプールができている特等席のペルシャ絨毯の上で、二つの小さな毛玉が寄り添い合っている。


 シルバータビーの先住猫『ハイ』と、漆黒の野良出身『ロー』だ。

 ローは仰向けに転がり、短い前足でハイの太い尻尾にじゃれついている。ケリケリと後ろ足でリズミカルに蹴りを入れているが、甘噛み程度で決して爪は立てていない。彼なりの愛情表現と狩りの練習を兼ねた遊びなのだろう。

 ハイはそんな弟分のやんちゃを鬱陶しがることもなく、慈愛に満ちたブルーの瞳で見下ろしている。そして、ローの真っ黒な頭から首筋にかけて、ザリザリと丁寧に毛づくろいをしてやっている。

 時折、ローがくすぐったそうに身をよじり、「ニャッ」と短い、甘えたような声を漏らした。それに応えるように、ハイも「ミャウ」と穏やかに喉をゴロゴロと鳴らす。


 世界から完全に切り離されたかのような、絶対的な平和と静寂。

 だが、その温かなリビングから長い廊下を抜け、分厚い防音ドアを一枚隔てた先の2階——木村心の私室兼サーバールームでは、それとは対極にある氷のような死闘が繰り広げられていた。


「……嘘でしょ。なんで、そこが分かるの」


 ゲーミングチェアの背もたれに深く体を預けている心の指先が、キーボードの上で小刻みに震えていた。

 壁一面にラックマウントされた何台ものサーバー群から発せられる暴力的な熱を冷却するため、業務用の冷房が極限まで効いた室内。吐く息が白くなりそうなほどの低い温度設定にもかかわらず、彼女の額からはじわりと嫌な脂汗が滲み出ている。

 暗い部屋の中、彼女を囲むように配置された三台の大型曲面モニター上を、システムログを示す緑色の文字列が滝のようなスピードで流れ落ちていく。だが、その大半は今、外部からの異常な侵入を知らせる真っ赤な警告色アラートに塗り潰されようとしていた。


 相手の侵入速度は、常軌を逸していた。

 心が即座に構築したダミーのディレクトリも、複雑な迷路状に再構築した偽装プロトコルも、相手は一切の迷いなく最短距離で突破してくる。まるで最初から正解のルートを知っているかのように、一切の無駄な足跡を残さない。


『Warning: Level 4 Security Breached.』


 無機質な電子音が、冷え切った部屋に響き渡る。

 井上健太郎の機密データが眠る最深部のローカルサーバーまで、残る防壁はあと二つ。

 そこに何が保存されているのか、心自身も全てを詳細に把握しているわけではない。だが、新生・帝都ホールディングスの根幹に関わる致命的なデータや、絶対に表沙汰にできない『井上健太郎の急所』が眠っていることだけは確かだ。抜かれれば、全てが終わる。


「弾けろ……!」


 心の手がメカニカルキーボードの上で残像を残すほどの速度で舞う。カタカタという硬質な打鍵音が、冷却ファンの駆動音を切り裂いて部屋に激しく響く。彼女の頭の中にある数百に及ぶ防御用スクリプトを、瞬時の判断で即興で組み合わせては次々と前線へと投入していく。強制的に接続を遮断するための大量のパケット群を送り込み、相手の処理能力をオーバーフローさせてパンクさせようと試みる。

 だが、まるで分厚いコンクリートの壁を巨大な削岩用のドリルが粉砕していくように、心の構築した多重の論理防壁は数秒と持たずに無惨に突破されていく。相手は心の放った攻撃パケットを巨大なファイアウォールで軽々と弾き返し、逆にこちらのシステム深部への制御権を直接奪いに来た。

 ふと、マウスのカーソルが心の手から離れ、勝手に画面上を滑り始める。


「な……っ」


 相手に、こちらのPCを直接遠隔操作されかけている。

 心は慌てて物理的なコマンドでキーボードの優先権を強引に奪い返したが、その数秒のタイムロスが命取りになった。


『Warning: Level 5 Security Breached.』


 あと一つ。

 次を破られれば、中枢の扉が完全に開く。


(無理だ。勝てない)


 心の脳裏に、絶望的な予測がよぎった。

 彼女は天才だ。これまでどんな堅牢なシステムも遊び半分で突破してきた自負がある。だが、画面の向こうにいる「何か」は、人間の思考速度を超えている。直感や迷い、あるいは罠に対する警戒といった人間らしい「揺らぎ」が一切なく、ただ純粋な論理と圧倒的な演算能力だけで押し潰してくるのだ。


 心が折れかけた、その時だった。


『……心。状況は』


 耳に装着したインカムから、低い声が響いた。

 井上だ。彼は今、舞永の運転する車で、敵の本陣である九条蓮のサロンへと向かっているはずだった。


「おっさん……っ、無理! 抜かれる!」


 心の声は、悲鳴に近かった。普段の憎まれ口を叩く余裕など、一ミリも残されていない。焦燥で喉がカラカラに乾き、息を吸い込むことすら苦しい。


「相手は一人だけど、異常だよ! 私の手持ちのカードじゃ、これ以上防げない……!」


 すがるような問いかけだった。具体的な指示を仰いでいるのではない。誰かに、この圧倒的な暴力から助けてほしかった。

 インカム越しに聞こえたのは、車の微かな走行音と、静かな吐息だけだった。


『……そうか』

「え……?」


 井上の声には、焦燥も、絶望も、微塵も含まれていなかった。

 ただ、凪いだ海のように静かだった。彼がパニックに陥ることも、心を怒鳴りつけることもないことは知っていたが、今の絶望的な状況でその落ち着きは異様にすら思えた。


『俺が今、お前に屋敷の心臓部を任せているのは、お前自身の腕を信じているからだ』


 コンソールを休むことなく走る無数のコードの赤い光が、心の見開かれたアイスブルーの瞳に反射する。


『俺の命運はお前にベットした。……好きにやれ、心』


 ブツッ、と通話が切れた。

 狭く冷え切ったサーバールームに、再び冷却ファンの低く単調な駆動音だけが残される。


「……馬鹿なおっさん。負けたら全財産パーなのに」


 心は小さく悪態をつくように呟き、そして、肺の底に溜まっていた澱んだ空気を全て追い出すように大きく息を吐き出した。

 キーボードの上を彷徨っていた指先の震えは、完全に止まっていた。

 自分が負ければ、あの温かい日常が終わる。リビングで無防備に眠る二匹の猫も、井上の居場所も、全てが九条という暗闇に飲み込まれる。ここで情報を抜かれることは、今の彼らにとって即座に死を意味する。


 心はヘッドフォンを深く被り直し、手元のコンソールでEDMのトラックを再生した。

 BPM140を超える暴力的なキック音が、脳の奥底を直接揺さぶる。視覚と聴覚以外のすべての感覚をシャットアウトし、極限の集中状態ゾーンへと精神を引きずり込む。


「……観察しろ。動きを見ろ」


 心は、流れるログの文字列を改めて凝視した。

 速い。正確だ。

 だが、速すぎる。


 人間のハッカーなら、未知のサーバーの最深部に侵入する際、必ず「罠かもしれない」という警戒が生まれる。一瞬の躊躇、迂回、確認作業。それは生存本能であり、どれだけ優秀なハッカーでも拭い去れない人間特有のノイズだ。

 だが、この相手にはそれがない。

 まるで、こちらの防壁の構造をあらかじめ知っているかのように、あるいは「罠を恐れる機能」そのものが欠落しているかのように、ひたすら最短距離を、最高速度で突き進んでくる。


「……なるほどね」


 心の口角が、微かに上がった。

 相手が人間でないなら、説明がつく。特化型の自律ハッキングAI。九条蓮が用意した、一切の感情を持たない猟犬。


「最適解しか選べないってことだ」


 心は両手を再びキーボードに乗せ、先ほどまでの防戦一方だった時とは全く違う、攻撃的で凄まじい速度のタイピングを開始した。

 新たな防壁を構築し直すのではない。

 彼女は、今ある最後の防壁を、自らの手で『解体』し始めたのだ。何重にもロックをかけていた認証プロトコルを自ら解除し、暗号化キーを無効化していく。

 相手が最後の扉を強引にこじ開けようとした、まさにその瞬間。

 心は、井上の暗号化ローカルサーバーへと続くメインパスを、自らパカリと開け放った。


『Warning: Level 6 Security Down.』


 一切の障害物がなくなった、まっすぐな一本道。

 相手のシステムは、当然のごとくその「最も効率的で開かれたルート」へと全リソースを注ぎ込み、一斉に飛び込んできた。罠を疑うこともなく、ただ目標データへの最短距離を選んだ。


 データが吸い上げられようとする、そのコンマ数秒の隙。

 巨大な掃除機のような圧倒的な「引力」が発生する。

 相手がこちらのサーバーと完全に「同期」した、その瞬間。


「……食いついた」


 心は、開け放った扉の裏側に仕込んでいた『逆流用プロトコル』を起動した。

 それは、相手の吸い上げる力そのものを利用した毒針だ。相手が井上のサーバーからデータを引っ張り出そうとするその流れに相乗りする形で、心自身が作成した凶悪なマルウェアを、相手の回線へと叩き込んだのだ。


 無防備な背中を見せた相手のシステムに、心の牙が深く突き刺さる。

 相手のIPアドレスが、次々とモニターに暴き出されていく。ダミーのプロキシサーバーを三つ、四つと猛スピードで剥がしていく。相手のAIが異変に気づき、接続を強制切断しようとするが、こちらのマルウェアがすでに中枢に根を張っていた。


 心はバックドアを経由して、相手のホストルーターの制御権を強引に奪い取った。

 相手が論理的な世界の王者なら、物理的な世界から破壊する。ハードウェアそのものに対する致命的なコマンドを容赦なく送信する。

 冷却ファンを強制停止させ、CPUに限界値を遥かに超える過電圧をかける指示。


「燃えろ」


 エンターキーを、叩き壊すほどの強さで叩き込んだ。


 数秒のラグの後。画面上に表示されていた相手からの反応の波形が、プツリと途絶え、完全に沈黙した。

 部屋に満ちていた異常な緊張感が、潮が引くようにスッと消え去る。後には、接続のタイムアウトとエラーを知らせる空虚なテキストだけが残された。


「……」


 心は背もたれに深く寄りかかり、天井を見上げた。

 全身の力が抜け、首に下ろしたヘッドフォンが重く感じる。

 物理的なマザーボードの焼損。相手のシステムは、文字通り再起不能になったはずだ。


「……あー、疲れた。最悪」


 前髪をかき上げ、心はサブモニターに表示された一つの住所をコピーした。

 逆探知で特定した、相手の物理的な接続拠点。港区六本木三丁目、裏通りに面した雑居ビルの一室。名義は九条グループのダミー会社だ。

 その正確な座標と住所を、井上のスマートフォンへと送信する。


『港区六本木三丁目八番十五号、第十二東洋ビル四階。IP抜いた。そっちのシステムは物理的に焼いたから、あとはよろしく』


 簡潔なメッセージを送った直後。

 背後の重厚な防音ドアが、カチャリと音を立てて少しだけ開いた。


「……ミャウ」


 隙間から、シルバータビーの丸い顔が覗いていた。ハイだ。

 そのすぐ下から、黒いローもひょっこりと顔を出す。


「お前ら……終わるの待ってたの?」


 心が疲れた顔で笑いかけると、二匹はトテトテとサーバールームに入ってきて、心の足元にすり寄った。

 ローが「ニャッ」と短く鳴いてスニーカーの紐にじゃれつき、ハイがふくらはぎに自分の顔をこすりつけてくる。


「……ん、ありがと」


 心はしゃがみ込み、二匹の背中を両手で同時に撫でた。

 ハイの滑らかな毛並みと、ローの少し硬い毛並みの感触が手のひらに伝わる。

 心はゆっくりと立ち上がり、ヘッドフォンをデスクに置くと、赤く染まっていたサブモニターの電源を落とした。

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