第57話 天才のプライド
都心の洋館。広大なガレージの冷たいコンクリートに、アストンマーティンDB11の重低音が響き渡っていた。
V12エンジンが発する低く唸るようなアイドリング音と、微かに漂うハイオクガソリンの匂いが、これから始まる戦闘への渇望を代弁しているようにも聞こえる。
井上健太郎は運転席のドアを開けたまま、片腕をルーフに乗せ、エントランスから歩いてくる人影を待っていた。
カツ、カツ、と硬質なピンヒールの音が石畳を叩く。
現れた森舞永は、体に吸い付くような深いスリットの入ったボルドーのイブニングドレスに、漆黒のレザージャケットを羽織っていた。美しくウェーブさせたブロンドの髪が、秋の冷たい風に揺れる。
「お待たせ、ボス。デートの準備は完璧よ」
舞永は妖艶に微笑み、流れるような動作で助手席へと滑り込んだ。長い脚を組み替えるその何気ない仕草だけでも、周囲の空気を支配するような特有の色気と覇気が立ち昇る。
ドレスの奥には、もちろん彼女の「商売道具」が隠されているはずだ。
井上は無言でドアを閉め、自身も運転席に乗り込んだ。
「行き先は分かっているな」
「ええ。九条グループが実質的にオーナーを務める、銀座の会員制プライベートサロン。……相手がお行儀の悪い真似をしてくるなら、こちらは正面のドアから堂々と入ってあげる。そういうことでしょ?」
舞永が楽しげにシートベルトを引き出しながら言う。
井上は短く頷き、シフトをDに入れた。
車が滑り出す。
ガレージの隅では、見送りに来たのか、シルバータビーのハイと黒猫のローが、並んで尻尾を揺らしていた。
★★★★★★★★★★★
井上の車が敷地を出てからわずか数分後。
洋館の2階、木村心の私室兼サーバールームは、すでに戦場と化していた。
「……ニャ?」
足元のラグマットで丸くなっていたローが、突然鳴り響いたけたたましいビープ音に驚き、耳を伏せて身を縮めた。
心は飲みかけのコーラのペットボトルを無造作にデスクに置き、ノイズキャンセリング・ヘッドフォンを乱暴に耳に被せた。
机上に並んだ三枚の巨大な曲面モニターが、一斉に赤紫色の警告アラートを吐き出している。
「……DDoS攻撃。トラフィックは……毎秒数百ギガバイト? 馬鹿じゃないの、どこの国家機関だよ」
心は舌打ちをし、キーボードに手を伸ばした。
表層のファイアウォールが、圧倒的な物量のジャンクデータによって物理的に殴りつけられている。新生・帝都ホールディングスの基幹システムへのアクセスを麻痺させるための、力任せの飽和攻撃だ。
だが、心の目は赤く点滅するトラフィックの波形ではなく、その裏で静かに蠢いている「見えない糸」のほうに釘付けになっていた。
「……目眩ましか」
馬鹿みたいな物量攻撃は、あくまで陽動。
本命は、その混乱の裏に隠れて、システムの脆弱性を針の穴を通すような精度で突いてこようとする、見えざる侵入者だ。
「ポート22から……いや、偽装してる。HTTPリクエストの中に悪意のあるパケットが紛れ込んで……」
カタタタタタタタッ!!
心の十指が、一切のブレのない正確さでキーボードを制圧していく。
叩き出されるコマンドの羅列が、黒いターミナル画面を下へ下へと高速でスクロールさせていく。
彼女が構築した防衛プログラムが、侵入者のパケットを次々と弾き落としていく。
しかし、相手は諦めない。弾かれた瞬間に攻撃アルゴリズムを変異させ、別の入り口から侵入を試みてくる。
一人ではない。最低でも数人のチームが、連携を取りながら波状攻撃を仕掛けてきている。
「九条直属のサイバー部隊ってわけね。……ふざけんな、私の城を土足で荒らそうなんて」
心は青白いモニターの光に照らされた顔に、獰猛な笑みを浮かべた。
相手が多人数だろうが関係ない。デジタル空間において、彼女はこれまで誰にも後れを取ったことがなかった。西園寺家の堅牢なサーバーですら、彼女にとってはただの裏庭のようなものだった。
「ブロック。……IP偽装も逆探知してルートを切り離す。よし、第一波は弾いた」
順調に防衛線を維持している、かに見えた。
その時だった。
『Error: Firewall Layer 2 Breached.』
モニターの中央に、無機質な白文字が浮かび上がった。
「……は?」
心の動きが一瞬、完全に停止した。
★★★★★★★★★★★
銀座、中央通りから一本裏に入った静かな路地。
黒塗りの高級車が並ぶ中、井上のアストンマーティンが微かなスキール音を立てて滑り込んだ。
重厚な大理石のファサードを持つそのビルには、看板らしきものは一切ない。ただ、入り口に立つ彫像のように微動だにしない二人の黒服だけが、ここが選ばれた人間しか入れない領域であることを示していた。
井上が車を降り、舞永をエスコートして入り口へと向かう。
「申し訳ありません。本日は貸し切りとなっておりまして……」
黒服の一人が、無機質な声で立ち塞がった。体格からして、ただのドアマンではない。鍛え上げられた胸板、視線の配り方、わずかに開いた足幅。格闘技の訓練を受けたプロの警備だ。
「会員の紹介状はございますか?」
男の視線が、井上を値踏みするように鋭く光る。
井上は足を止めず、表情一つ変えずに答えた。
「紹介状はない。ここのオーナーに用がある」
「……お引き取りください。これ以上進まれるなら、実力で排除します」
黒服がスーツのボタンを外し、懐に手を入れる。
その瞬間だった。
舞永がヒールを鳴らし、井上の前にスッと出た。
彼女は魅惑的な笑みを浮かべたまま、男のネクタイを優しく直すような動作を見せた。
だが、その手は布地を掴んではいない。男の喉仏のすぐ下、頸動脈が通る急所を、親指と人差し指で的確に、万力のように押さえ込んでいた。
「……ッ!?」
男の目が見開かれ、声にならない呻きが漏れる。脳への血流が一瞬で制限され、膝から力が抜けそうになるのを、舞永が掴んだまま支えている状態だ。
「あら、ごめんなさい。……少し、道を空けてもらえるかしら?」
舞永は耳元で甘く囁きながら、もう片方の手で男の懐から通信機を抜き取り、大理石の床に落としてピンヒールで踏み砕いた。
もう一人の黒服が慌てて飛びかかろうとするが、井上がその視線を冷たく射抜いた。
「騒ぎを起こしたいなら構わない。……だが、九条蓮の顔に泥を塗ることになるぞ」
その低く冷徹な声の重みに、二番目の男は足を止めた。相手が何者かも分からないままここで乱闘騒ぎを起こせば、主人の名前に傷がつく。その計算が男の動きを縛った。
「行こうか」
井上が促すと、舞永は「つまんないの」と拘束を解き、崩れ落ちる男を一瞥もせずに再び井上の腕に手を絡ませた。
二人は、誰の制止も受けることなく、重厚なガラス扉の奥へと足を踏み入れた。
★★★★★★★★★★★
「……くそっ、速い……!」
2階のサーバールームで、心の額から汗が滴り落ちた。
モニターの光が、彼女の焦燥しきった顔を照らし出している。
第二層の防壁が、何の前触れもなく突破されたのだ。アラートすら鳴らなかった。まるで、最初からそこに壁など存在しなかったかのように、相手は静かに内部へと滑り込んできた。
「嘘でしょ……今のコード、何?」
ログを遡るが、侵入経路が分からない。
いや、相手が自分の足跡をリアルタイムで消去しながら進んでいるのだ。
先ほどまでのチームによる連携攻撃とは全く違う。
たった一人。
群れとは次元の違う、圧倒的な技術と速度を持った「個」が、心のシステムを内側から食い破り始めている。
「……舐めるなっ!」
心は即座に隔離プロトコルを起動し、侵入者のいる領域を丸ごと切り離そうとした。
だが。
『Access Denied.』
「……拒否? 私が、管理者権限を?」
タイピングする指先が震えた。
相手は隔離されるより早く、システムの認証プロセスを偽装し、システム内で心と同等の権限を奪い取ろうとしている。
相手の狙いが、徐々に明確になってきた。
新生・帝都HDの顧客リストではない。資金の流れを示す財務データでもない。
彼らが真っ直ぐに向かっているのは、このネットワークの最深部。
『井上健太郎』個人の、暗号化されたローカルサーバーだ。
そこに何があるのか、心自身も全ては把握していない。だが、絶対に表に出てはならない『井上健太郎の急所』が眠っているのは確実だった。
「……行かせるかよ」
心は奥歯を噛み締め、手動でコードを打ち込み始めた。防壁がダメなら、罠を張り、相手を迷路に誘い込んで時間を稼ぐしかない。ダミーのディレクトリを大量に生成し、本命のルートをカモフラージュする。
画面の中で、目に見えない相手との、息もつけない電子の殺し合いが続く。
第四層。最後の防壁の手前まで、侵入者はすでに到達していた。
心が仕掛けた論理爆弾も、ハニーポットも、相手は数秒のラグすら見せずに完璧に見破り、回避していく。
人間業とは思えない。こちらの思考を先読みしているかのような不気味さだ。
(……誰? 一体、誰がキーボードを叩いてるの!?)
九条蓮の資金力なら、世界中からトップクラスのハッカーを雇い入れることは可能だろう。だが、この執拗で、無駄のないコードの書き方は、心の知る「優秀な技術者」の枠を容易く超えていた。
『Core Directory: Decrypting... 12%』
井上の個人サーバーの暗号解除が始まってしまった。
「……させないって、言ってんのよ!」
心はメインキーボードの横にある赤い物理スイッチに手を伸ばした。
ネットワークの物理的遮断。
それを引けば、外部からのアクセスは完全に途絶える。データは守られる。
だがそれは、サイバー空間において背中を見せて逃げること、すなわちハッカーとしての完全なる敗北を意味していた。
スイッチに触れる直前。
モニターに表示されていた黒いターミナル画面が、突然、フッと消えた。
代わりに映し出されたのは、真っ白な背景。
そして、そこにたった一行だけ、相手からのメッセージが表示された。
『Are you alone, little girl?(一人ぼっちかい、お嬢ちゃん?)』
心は息を呑んだ。
背筋に、氷を当てられたような悪寒が走る。
相手は、こちらの防壁を突破するだけでなく、システムのカメラを通じて、あるいはタイピングの癖から、こちらの「正体」すら完全に把握している。
「……上等じゃん」
心は赤いスイッチから手を離した。
震えていた指先を強く握り込み、ゆっくりと開く。
そして、再びキーボードの上に両手を置いた。
カタッ。
最初のキーを叩く音が、静まり返った部屋に響いた。




