第56話 最初の刺客
都心の高台に建つ洋館。
高く取られた天窓から差し込む秋の朝日が、広大なアイランドキッチンを柔らかく照らし出していた。
ひんやりとした朝の空気を塗り替えるように、香ばしくも甘い匂いが部屋の隅々まで満ちていく。
井上健太郎は、グリルの前に立ち、無言で火加減を見極めていた。
網の上に乗っているのは、豊洲の馴染みの仲卸から仕入れた大ぶりのメカジキだ。
特製の西京味噌――京都産の白味噌に上質な純米酒、本みりん、そしてごく少量の和三盆を練り合わせた床――に、三日間じっくりと漬け込んだ厚切りの身。西京漬けは糖分が多いため、少しでも目を離せば一瞬で表面が真っ黒に焦げ付いてしまう。
井上は焼く直前、表面に残った味噌を、酒で湿らせたキッチンペーパーで丁寧に、一切の妥協なく拭き取っていた。
遠火の強火。
輻射熱を利用して、じっくりと芯まで熱を入れていく。
パチパチ、と落ちた脂が熱源で弾け、味噌の焦げる芳醇な香りが白い煙となって立ち昇り、換気扇へと吸い込まれていく。
隣のコンロでは、小鍋の中で秋刀魚の甘露煮がツヤツヤと妖艶な輝きを放っていた。
昨夜から大粒の南高梅、針生姜、ザラメ、そして濃口醤油でコトコトと煮込み続けたものだ。梅干しの持つクエン酸の効果で、中骨までホロホロに崩れるほど柔らかくなっている。秋刀魚自身の豊かな脂と煮汁が極限まで煮詰まり、全体が深い飴色に染まっていた。
さらに、手早くもう一品を仕上げる。
包丁が硬いまな板を叩く、トントントンという軽快なリズム。
ごま油を熱した鉄のフライパンに、薄切りのレンコンと種を抜いた鷹の爪を投入する。強火で一気に煽り、レンコン特有のシャキシャキとした食感を残したまま、みりんと醤油を回し入れて甘辛く味を調える。焦がし醤油の香りが、食欲という本能を直接刺激する。
「……ミャウッ!」
「フギャッ!」
背後のリビングから、賑やかな鳴き声が聞こえてきた。
シルバータビーのハイと、漆黒のローだ。
二匹の仔猫は、朝の鬼ごっこの真っ最中だった。黒い弾丸と銀色の旋風となって、広いフローリングの床を滑るように駆け回っている。ローがソファの裏から奇襲をかけ、ハイが驚いて跳び上がる。じゃれ合いながらも、時折本気になって猫パンチを応酬し合う姿は、見ているだけで心が和む。
「……おはよう。朝からガッツリ和食ね」
森舞永が、欠伸を噛み殺しながらダイニングに入ってきた。
ラフなジャージ姿の彼女の足元を、二匹の仔猫がすり抜けていく。
「座れ」
井上は火を止め、手際よく小鉢を並べた。
ふっくらと焼き上がったメカジキの西京焼き。照りの美しい秋刀魚の甘露煮。艶やかなレンコンのきんぴら。
そして、冷蔵庫から取り出したガラスの器には、昨夜の残りのラタトゥイユが盛られている。トマトと夏野菜の酸味が、一晩冷蔵庫で寝かせたことで角が取れ、全体がまろやかに馴染んでいる。冷たいままでも立派な、いや、冷やしたからこそ美味しい副菜だ。
純和風の献立の中に、さりげなく洋風の小鉢が混ざる。飾らないが、舌の欲求を完璧に満たす計算された食卓。
最後に、井上は木製の汁椀を二つ用意し、その中に四角いブロックをポンと入れた。
市販のフリーズドライの卵スープだ。
何から何まで手作りする男が、手抜きをしたわけではない。
井上は電気ケトルで沸かした湯を、温度計で正確に85度まで冷ました。沸騰したての熱湯では、フリーズドライの卵が硬く縮んでしまい、本来のふんわりとした食感が損なわれてしまうからだ。
適温に冷ました湯を、ブロックに直接当てないよう、椀の縁から静かに注ぎ入れる。
黄金色の卵が、まるで作りたての命を吹き込まれたかのように、ふわりと椀の中で花開いた。
「いただきます」
舞永は箸を取り、メカジキを適度な大きさに切って口に運んだ。
「……んっ。身がふわふわ。味噌の甘みが奥の奥まで染みてるわ」
「秋刀魚もいけるぞ。骨は気にしなくていい」
井上が言う通り、秋刀魚の甘露煮は口の中で溶けるように崩れた。濃厚な旨味と甘辛いタレの味が、炊きたての白飯を強烈に要求してくる。
ピリ辛のレンコンの歯ごたえと、冷たく酸味のあるラタトゥイユが、口の中をその都度鮮やかにリセットしてくれる。
フリーズドライの卵スープも、絶妙な湯温のおかげで、鶏ガラの出汁と卵の優しい風味が完璧に蘇っていた。
「おっさん、私の分は!?」
髪をボサボサにした木村心が、寝ぼけ眼で駆け込んでくる。
「カウンターにある。自分で運べ」
井上は温かいお茶を啜った。
穏やかな朝だった。血みどろの復讐劇を終えた彼らにとって、この他愛のない日常の風景こそが、何よりも守るべき宝物だった。
だが、その平穏は、廊下から響く硬質なヒールの音によって断ち切られた。
カツ、カツ、カツ。
一切の迷いがない、規則的で冷徹な足音。
ダイニングの扉が開き、池田茉莉が足早に入ってきた。
彼女の表情は、完璧な秘書の仮面を保っていたが、その眼差しは氷のように冷たく尖っていた。
「……お食事中、申し訳ございません。旦那様」
「どうした、茉莉」
「湾岸エリアの『次世代物流センター』建設プロジェクト。……今朝、現場が完全にストップいたしました」
井上の箸が止まった。
新生・帝都HDが社運を懸けて進めている、総工費一千億円規模の巨大インフラ事業だ。
先日倒産した東都重工の穴を埋めるべく、新たな中堅ゼネコン数社と急ピッチで契約を結び直し、ようやく軌道に乗せたばかりの最重要案件である。これが頓挫すれば、遅延損害金だけで数十億円が吹き飛ぶ計算になる。
「事故か?」
「いいえ」
茉莉は小脇に抱えていたタブレットを、井上の横に置いた。
「下請けに入っていた中堅ゼネコン三社が、今朝の始業時刻をもって一斉に作業員を引き揚げました。理由は『急激な資金繰りの悪化による、倒産の危機』とのことです。……さらに、本日搬入予定だった海外製の特殊免震ダンパーが、横浜税関で足止めを食らっております」
井上は画面の報告書に目を通した。
ただの偶然ではない。タイミングが良すぎる。複数の企業が同日に一斉に資金ショートを起こし、同時に税関で書類の不備や安全基準の再審査を理由に資材が差し押さえられるなど、確率論としてあり得ない。
「南を呼べ」
「すでにこちらへ向かっております。あと三分で到着すると――」
茉莉が答えるのとほぼ同時に、エントランスの方から清水南の声が聞こえ、彼女がダイニングに姿を現した。
息を乱すこともなく、いつものピンストライプのスーツを完璧に着こなしているが、その手には分厚いファイルが握られていた。
「状況は聞きました」
南は挨拶もそこそこに、テーブルの空いたスペースに資料を広げた。
「現場を放棄したゼネコン三社の財務状況を洗いました。彼らは、我々が西園寺猛の不正プロジェクトを白紙撤回した際、東都重工の連鎖倒産の煽りを受けて体力を削られていました。そこへ先週、特定の投資ファンドが巨額の融資を持ちかけていたようです。極めて高い金利で、自社株を担保に取るようなえげつない契約です。そのファンドの親会社を辿ると……九条グループに行き着きました」
南は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「税関の件も、国土交通省のある官僚の指示による『イレギュラーな追加検査』です。法的な手続きを踏んではいますが、明らかに異常な裁量権の行使であり、九条側の意図的な介入と見て間違いありません」
九条蓮。
井上は小さく息を吐き出した。あの冷酷な瞳が脳裏をよぎるが、井上の顔に感情の波が立つことはない。
「あからさまな兵糧攻めね。……ゼネコンの連中も、背に腹は代えられなかったってこと?」
舞永が不快そうに眉をひそめた。
「通信のメタデータならすぐに抜けるよ。ファンド側から現場ストップを条件に融資したって記録があれば、公取委を動かす材料になるはず」
心がタブレットを操作しながら素早く提案するが、井上は首を横に振った。
「証拠が出ても、彼らの資金繰りが解決するわけじゃない。根本的な資金の目詰まりを潰さないと現場は動かん」
井上は冷めた卵スープを飲み干し、お椀を静かに置いた。
「南先生。その融資を行った九条のダミーファンド、出資法違反や貸金業法に抵触する強引なスキームを組んでいないか?」
「……ええ。現場のストップを融資の実行条件にしているとすれば、優越的地位の濫用に問えます。ただ、公取委を動かし、法的な是正命令を勝ち取るには数ヶ月の時間がかかります。相手もそれは承知の上でしょう」
南が淡々と事実を述べる。
短期決戦でこちらを干上がらせる気か。
井上はテーブルに視線を落とした。
過去の知識を持たない、完全に未知の領域での戦い。かつてのように「いつ株価が戻るか」を知っていれば、耐え忍ぶこともできた。だが、今の井上には、この先どうなるかという保証は何もない。頼れるのは、己の知略と、ここにいる仲間たちの力だけだ。
「冴子には俺から連絡する。『九条グループの息がかかったファンドによる、悪質なインフラ事業妨害』という筋書きで、世論の火種を作らせる。……心、ゼネコンの社長とファンド側の通信記録を抜け。優越的地位の濫用の裏付けになる。時間を稼ぐための武器にはなるはずだ」
「了解」
「それで、税関の方はどうなさいますか?」
茉莉が静かに尋ねた。
いくら世論を味方につけても、物理的に特殊ダンパーが届かなければ、物流センターの基礎工事は再開できない。一日遅れるごとに、莫大な違約金と遅延損害金が発生していく。
「俺が直接、足を運ぶ」
井上は立ち上がった。
「追加検査の指示を出した官僚の名前と、今日のスケジュールを洗え」
「まさか、直談判ですか?」
南が訝しむように視線を上げる。相手は国家権力を笠に着た官僚だ。下手に動けば、逆に公務執行妨害や贈賄の疑いをかけられかねない。
「交渉だよ。……相手がルールを無視して圧力をかけてくるなら、こっちも正面のドアからお行儀よく入る必要はない」
舞永が空になった小鉢を乱雑に重ね合わせ、勢いよく立ち上がった。
その瞳には、すでに戦場へ赴く兵士の鋭い光が宿っている。
「車、出すわよ」
「頼む」
井上はジャケットを手に取り、ダイニングを後にした。
舞永が車のキーを指で回しながら、その背中を追う。




