第55話 癒やしの猫吸い
都心の高台に建つ洋館。その広大な書斎は、深夜の静寂と、冷たいブルーライトの光に包まれていた。
井上健太郎は、マホガニーのデスクに置かれた複数のモニターを前に、深く息を吐き出した。
画面に映し出されているのは、東都重工の民事再生手続きに関するニュースと、それに群がるように動く「九条グループ」の関連企業のチャートだ。
「……カンニングペーパーなしのテストか。思っていた以上に、骨が折れるな」
井上は眉間を揉みほぐした。
未来の知識という絶対的な武器を失い、未知の領域へと足を踏み入れた新しい戦争。
覚悟は決めている。「ただの財閥のボンボンに負ける気はない」と豪語した通り、彼の闘争心はかつてないほど燃え上がっていた。だが、仲間の命と数百億の資金を背負い、一寸先が闇の盤面で完璧な一手を探し続ける作業は、確実に彼の精神を削り取っていた。
「……ミャウ」
「ニャッ!」
足元から、愛らしい二つの声が響いた。
視線を落とすと、シルバータビーの『ハイ』と、漆黒の『ロー』が、井上のスラックスに爪を立ててよじ登ろうとしていた。
「おいおい、仕事中だぞ」
井上が苦笑しながら手を差し伸べると、二匹は競い合うように膝の上へと飛び乗ってきた。
ハイは甘えるように井上の胸元に顔を擦り付け、ローは「俺の方が偉いんだぞ」とばかりにハイの頭の上に顎を乗せようとして小競り合いを始める。
井上は二匹を両腕で抱え込んだ。
そして、その柔らかく温かい腹の毛に、ゆっくりと顔を埋めた。
「……はぁぁ……」
深く、深呼吸をする。
お日様と、ミルクと、香ばしいビスケットが混ざったような、猫特有の匂い。
いわゆる『猫吸い』だ。
冷え切った肺の奥底に、無垢な生命の温もりが流れ込んでくる。
ゴロゴロゴロ……という二つの小さなエンジンの振動が、井上の顔面に直接伝わり、張り詰めた神経をマッサージするように解きほぐしていく。
「お前たちはいいな。……未来のことなんて、明日のご飯のことくらいしか考えていないだろう」
井上が顔を上げて呟くと、ハイが「その通りニャ」とでも言うように鼻先を舐めてきた。
この手の中にある確かな温もりは、過去のものでも未来のものでもない。紛れもなく「今」ここに在るものだ。
「よし。……少し頭を休めるか」
井上は二匹を抱えたまま立ち上がり、キッチンへと向かった。
★★★★★★★★★★★
深夜のキッチンで、井上は包丁を握った。
気分転換の夜食だ。重いものは胃が受け付けない。
冷蔵庫から取り出したのは、朝のうちに仕込んでおいた真鯛のサクだ。
ただの刺身ではない。上質な昆布で挟み、半日かけて水分を抜き、旨味を凝縮させた『昆布締め』である。
井上は真鯛を極薄に削ぎ切りにし、大理石のような白い皿に美しく円状に並べていく。
透き通るような白身の縁に、ほんのりと桜色が乗っている。
そこに、岩塩をパラリと振り、イタリア産の最高級エキストラバージン・オリーブオイルを回しかける。
そして、ここからが井上流のアクセントだ。
おろし金を取り出し、琥珀色の塊を削りかける。
『カラスミ』だ。
ボラの卵巣を塩漬けにして乾燥させた、海のチーズとも呼ばれる珍味。
最後にスダチをギュッと搾り、皮の青い部分も少しだけ削って散らす。
「完成だ。『真鯛の昆布締めカルパッチョ、カラスミ風味』」
井上は皿をダイニングテーブルに運んだ。
合わせるワインは、フランス・ブルゴーニュ地方の『シャブリ・グラン・クリュ』。
キンキンに冷えた白ワインをグラスに注ぐと、青リンゴや白い花、そして火打石のようなミネラルの香りが立ち昇る。
「……あら、美味しそうな匂い。夜中のテロね」
リビングのドアが開き、斎藤冴子と木村心が姿を現した。
二人とも、徹夜での作業が続いているのか、少し疲れた顔をしている。
「座れ。……頭を使うには、上質なタンパク質と糖分が必要だ」
井上は二人にもグラスとフォークを用意した。
冴子はワインを一口飲み、小さくため息をついた。
「……生き返るわ。極上のシャブリね」
「いただきます!」
心がカルパッチョを口に運ぶ。
昆布の旨味を吸い込んだ真鯛は、ねっとりとした弾力があり、噛むほどに甘みが溢れ出す。そこにカラスミの強烈な塩気とコクが加わり、スダチの酸味が全体を爽やかに引き締める。
オリーブオイルがそれらを優しく包み込み、完璧な調和を生み出している。
「うまっ! なにこれ、和食なの? イタリアンなの?」
「国境はない。……美味いものが正義だ」
井上も真鯛を頬張り、シャブリを流し込んだ。
キリッとした酸味と豊かなミネラルが、カラスミの濃厚な後味を鮮やかに洗い流す。
「で、調査の進捗はどうだ?」
井上は本題に入った。
冴子はワイングラスを揺らしながら、表情をジャーナリストのそれに変えた。
「九条グループの身辺調査、かなり手こずってるわ。……あそこは西園寺家と違って、表向きの帳簿が綺麗すぎるのよ。東都重工のスポンサーに名乗りを上げた件も、法的には一切の瑕疵がない」
「私は裏からアプローチしてるけど……」
心がカルパッチョを咀嚼しながら、タブレットを操作した。
「九条の隠し口座の資金洗浄ルート、何重にもダミーが噛ませてあって、特定に時間がかかりそう。……でも、一つだけ面白いことが分かったよ」
「なんだ?」
「九条蓮が東都重工のスポンサーに名乗りを上げた直後、特定の政治家や官僚の口座に、怪しい仮想通貨の流れがあった。……たぶん、あの若造、ただの企業買収じゃなくて、国のインフラ事業そのものを裏から牛耳る気だよ」
井上は目を細めた。
九条蓮。
東都重工の倒産という歴史のバグを瞬時に嗅ぎつけ、政治家まで裏で操るその手腕。
紛れもなく、かつての西園寺家など比較にならない本物の怪物だ。
「……相手にとって不足はない」
井上はワインを飲み干した。
見えない未来を手探りで進むプレッシャーよりも、強敵と知恵比べをする闘争心の方が、今の彼を突き動かしていた。
★★★★★★★★★★★
数日後。
秋晴れの週末。
井上健太郎は、都内にある静かな美術館の併設カフェで、一人の女性と向かい合っていた。
清水南。
今日の彼女は、いつものピンストライプの戦闘服ではなく、深いネイビーブルーのシルクのワンピースに、淡いグレーのノーカラーコートを羽織っていた。
髪もダウンスタイルで、柔らかく波打っている。
仕事中の「氷の弁護士」としての威圧感は鳴りを潜め、大人の女性としての洗練されたエレガンスが際立っていた。
「……まさか、貴方からデートに誘われるとは思いませんでしたよ」
南はアールグレイのティーカップを優雅に持ち上げ、微かに口角を上げた。
「デートと言っても、色気のある話ではないからな。……九条グループの買収戦略について、法的な見解を聞きたくてね」
「分かっています。……貴方はそういう人ですから」
南は少しだけ呆れたように息を吐いたが、その表情はどこか楽しげだった。
「九条蓮のやり方は、極めて狡猾です。……東都重工の民事再生手続きにおいて、彼らはスポンサーとして名乗りを上げ、優良な事業だけを切り取って譲渡させるスキームを組んでいる。負債と不要な人員は、旧会社に残して切り捨てる。法的には合法です」
「法的に止める手立てはないと?」
「いえ。……一つだけ、小さな『穴』があります」
南はバッグからタブレットを取り出し、いくつかの資料を表示した。
「東都重工が過去に結んでいた、海外との技術提携契約です。この契約には、経営権が移動した際の一方的な契約解除を禁止する条項が含まれています。……九条側はこれを見落としているか、あるいは金で揉み消せると高を括っているのでしょう」
「そこを突くわけか」
「はい。私が海外の提携先企業に接触し、彼らの代理人として異議申し立てを行います。そうすれば、買収手続きを数ヶ月は遅らせることができるはずです。……その間に、冴子さんや心さんが致命的なスキャンダルを掘り当てれば、勝機はあります」
完璧な法廷戦術だ。
井上は感嘆の息を漏らした。
未来の知識がなくても、このチームの能力は世界トップクラスだ。
「……頼りになるな、南先生」
「当然です。私は高い顧問料を頂いていますから」
南はタブレットをしまい、ティーカップを置いた。
そして、真っ直ぐに井上の目を見つめた。
「……でも、少し安心しました」
「何がだ?」
「以前の貴方は、全てを見通しているような、どこか人間離れした不気味さがありました。……まるで、答えを知っているゲームを退屈そうにプレイしているような」
南の鋭い指摘に、井上は苦笑した。
事実、その通りだったのだから。
「ですが、今の貴方は違います。……先が見えない闇の中で、それでも自分の足で立って、抗おうとしている。傷つくことを恐れずに」
南はテーブルの上で、そっと井上の手に自分の手を重ねた。
ひんやりとした、だが確かな熱を持つ女性の手。
「私には、今もがいている貴方の方が、ずっと人間らしくて……魅力的に見えますよ」
氷の弁護士が見せた、不器用な慰め。あるいは、デレ。
井上は少しだけ驚いたように目を見開き、そして、優しく彼女の手を握り返した。
「……そう言ってもらえると、救われるよ」
「勘違いしないでください。私は貴方が負けて、私が無職になるのが困るだけですから」
南はサッと手を引き抜き、少しだけ頬を赤らめて顔を背けた。
その反応が可笑しくて、井上は声を上げて笑った。
西園寺家への復讐を終え、未知の敵と対峙する不安の中にあっても、彼らは確実に「生きている」。
「さあ、戻りましょうか。……私たちの城へ」
井上が立ち上がると、南も小さく頷いて後に続いた。
未来は見えない。
だが、その見えない未来を共に切り開くための剣は、かつてないほど鋭く研ぎ澄まされている。
九条蓮との全面戦争は、静かに、しかし確実にその火蓋を切ろうとしていた。




