第60話 完璧な脚本
都心の高台にそびえ立つ洋館。深夜のアイランドキッチン。
井上健太郎は、天井のダウンライトを落とし、手元の間接照明だけが頼りの薄暗い空間で、分厚いイチョウのまな板に向かっていた。
タマネギと鮮やかな赤パプリカに、鋭く研ぎ澄まされたダマスカス鋼のペティナイフの刃を入れる。トントン、トントンという小気味良い、しかし機械のように極めて正確なリズムだけが、秋の夜の静寂に吸い込まれるように響いている。まな板の端には、すでに微塵切りにされたニンニクが山となり、食欲をそそる強い香りを放っていた。
「……井上さん、こんな時間に?」
背後から、遠慮がちな声がした。振り返ると、ウールのカーディガンをすっぽりと羽織った林優香が、キッチンの入り口で立ち尽くしていた。
その白い顔には、明日に迫った戦いへの緊張と、どうしようもない僅かな恐怖が張り付いている。無理もない。明日、彼女は自らの凄惨な過去を世間に晒し、自らのキャリアと尊厳、その全てを賭けた大勝負に出るのだ。簡単に眠りにつけるはずがなかった。
「明日の夜の、下ごしらえだ。パエリアの要であるサフランの高貴な香りと、魚介から出る濃厚な旨味を引き出すには、前日からゆっくりと時間をかけてベースのスープを仕込む必要がある」
井上は包丁を置き、流水で丁寧に手を洗ってから、戸棚の奥から小さなガラスの保存容器を取り出した。中には、ゴツゴツとした不揃いな褐色の塊が、幾つも転がっている。
彼は木製の小さなトングでその塊を一つ摘み出し、優香の目の前にスッと差し出した。
「食べろ」
「……これは?」
「波照間島産の純黒糖だ。サトウキビの絞り汁を一切の不純物を混ぜずに、そのまま大鍋で煮詰めた、純粋な糖の塊。……噛むなよ。舌の上に乗せて、ゆっくりと体温で溶かせ」
優香は戸惑いながらも両手でそれを受け取り、小さく口を開いて含んだ。
途端に、濃厚で複雑な甘みが口いっぱいに広がる。精製された白砂糖のような直線的な甘さではない。大地の土の匂い、沖縄の潮風を思わせる微かな塩気、そしてサトウキビ特有の野性的なえぐみが、幾重にも層になって押し寄せてくる。
力強い、自然のエネルギーそのもののような味が、恐怖でこわばり、冷え切っていた優香の脳の奥底にじんわりと染み渡っていく。
「……美味しい。なんだか、体の底からホッとします。少し、呼吸が楽になりました」
「糖分は、人間の脳にとって唯一のエネルギー源だ。明日は、これまでの人生で一番頭を使い、一番心を消耗することになる。……敵のペースに巻き込まれるな。主導権を握るのは、常にこちらだ。お前はただ、自分の言葉で真実を話せばいい」
井上の短く切実な、決して飾り立てない言葉に、優香は口の中の黒糖の深い余韻を感じながら、力強く頷いた。
★★★★★★★★★★★
翌日の午後。洋館の南側に面した、普段は猫たちが日向ぼっこをしているサンルームは、機材が持ち込まれて即席の撮影スタジオと化していた。
レフ板の白い布が太陽光を反射し、スツールに座る優香を柔らかく照らし出している。
「照明、もう少し落として。彼女の肌の白さが飛んで、映像が安っぽくなっちゃう。……そう、顔の右半分に薄く陰影をつけて。悲壮感はいらないわ。この映像に必要なのは、被害者の涙じゃなくて『静かな決意』よ」
斎藤冴子が、腕を組みながらプロのカメラマンと照明スタッフに鋭い指示を飛ばしている。今日の彼女は、黒のタートルネックにスリムなスラックスという、一切の装飾を削ぎ落とした、戦場に立つジャーナリストとしてのスタイルだ。
「ゲラが出るのは明日の朝。向こうの記事が世に出る前に、こっちのドキュメンタリーをネットにぶつけるわよ」
冴子は手元のタブレットで時刻を確認しながら、冷たく笑った。
「他人の悪意あるペンで勝手に書かれる前に、自分の口で真実を語る。それが最大の防御であり、最強のカウンターになるわ」
その横で、清水南が分厚いファイルの束から顔を上げた。彼女の冷徹な知性を象徴するような銀縁眼鏡が、照明の光を反射して冷ややかに光る。
「法務チェックは完了しました。……優香さん、権藤の個人名や事務所の特定に繋がる固有名詞は、映像内で一切出さないでください。『以前所属していた環境』という抽象的な表現に留めること。具体的な強要未遂の事実も、日時と場所を伏せ、あくまで貴女の『心境の吐露』として語ってください」
「名誉毀損で逆に訴えられるのを避けるため、ですか?」
優香が尋ねると、南は小さく頷いた。
「ええ。相手がこの記事を見て訴訟を起こせば、かえって自ら『自分がその悪徳社長だ』と世間に名乗り出ることになります。彼らは法的に身動きが取れなくなる。……これなら法的に1ミリも突っ込まれる余地はありません。完璧な合法の防壁です」
南のロジカルで冷徹な保証に、優香は一つ深呼吸をした。
今日の彼女は、女優としての煌びやかなメイクは最低限に抑えられている。衣装もシンプルな白いブラウス。誰かに作られた人形ではなく、等身大の一人の人間としての姿。
井上はカメラの死角となる壁際に寄りかかり、腕を組んでその様子を静かに見守っていた。
「……アクション」
冴子の静かな合図で、カメラの赤いランプが点灯する。
優香は、まっすぐにレンズを見据え、ゆっくりと、しかし確かな声で口を開いた。
彼女は隠さなかった。自分が多額の借金を抱え、追い詰められていたこと。悪徳事務所の巧妙な罠によって搾取され、権力者への接待の道具として利用されそうになったことの恐怖と、逃げ場のない絶望。
だが、その言葉に、同情を引こうとする涙はない。被害者ぶって世間に媚びるような甘えもなかった。
「私は、愚かでした。自分の身を守る力も、知識もなく、ただ周りの力に流されていました」
優香の澄んだ声が、静寂に包まれた部屋に響く。スタッフたちも、息をするのを忘れたように彼女の顔を見つめている。
「でも、ある人たちに助けられ、気づいたんです。誰かの用意した檻の中で、ビクビクと怯えながら生きるくらいなら、自分の足で泥を蹴って歩こうと。……過去の傷を無かったことにして隠して生きるのではなく、その傷を抱えたまま、私は自分の意思で、カメラの前に立ちたい」
原稿はない。彼女自身の内側から溢れ出た、血の通った言葉だった。
井上は微かに目を細めた。
路地裏で出会った頃の、怯えた野良猫のような優香はもういない。そこには、自らの凄惨な過去すらも最大の武器に変える覚悟を決めた、一人の強靭な表現者がいた。
★★★★★★★★★★★
その夜の20時。
冴子が提携する大手Webメディアのトップページに、一つのドキュメンタリー映像がプレミア公開された。
タイトルは『告白:女優・林優香が語る、奪われた過去と、演じる意味』。
2階の冷房が効きすぎたサーバールームでは、木村心が3台のモニターを睨みつけながら、複数のキーボードを同時に叩き、ネット上のトラフィックを意図的に誘導し、アルゴリズムの波を作っていた。黒い画面に緑色の文字列が滝のように流れていく。
「……トレンド入り、確定。波に乗ったよ」
心はインカム越しに、1階のリビングにいるメンバーに報告した。
「コメントのセンチメント分析、9割がポジティブ。同情だけじゃない、『カッコいい』『応援する』っていう声が圧倒的だね。バズリの連鎖が止まんないよ」
「当然よ」
リビングのソファで、赤ワインの入ったグラスを傾けていた冴子が、自信満々に笑った。
「世間はね、ただ可哀想なだけの被害者より、地獄の底から自分の力で這い上がろうとする反逆者の方が、圧倒的に好きなのよ」
冴子の言う通りだった。
翌朝、権藤のタレコミを掲載する予定だった週刊誌の編集部は、大混乱に陥っていた。
自分たちが特ダネとして出すはずだった「次期社長を狙う悪女の暴露記事」が、すでに本人の口から「悲惨な過去を乗り越えた勇気ある告白」として美しく昇華され、世間の絶大な支持を集めてしまっているのだ。
今さら予定通りに記事を出せば、「勇気ある若者をいじめる悪徳メディア」として、ネット上の猛バッシングを一身に受けるのは火を見るより明らかだった。
結果として、記事は完全にお蔵入りとなった。権藤は週刊誌側から多額の違約金を請求され、当てにしていた九条蓮からの支援も完全に打ち切られ、裏社会のどん底へと姿を消した。
★★★★★★★★★★★
「……というわけで、我らが天才女優の完全勝利に」
その日の夜。洋館の広大なダイニングルームで、井上がクリスタルグラスを高く掲げた。
「乾杯」
「「「乾杯!」」」
7人の仲間たちの明るい声が重なり、足元ではおこぼれを期待する2匹の猫がじゃれ合っている。
テーブルの中央には、特大のパエリアパンが堂々と鎮座していた。
「すごい……! スペインの太陽を丸ごと閉じ込めたみたいですね」
優香が目を輝かせて歓声を上げた。
鮮やかなサフランイエローに染まった米の上には、殻付きの有頭エビ、漆黒のムール貝、殻が開いたアサリ、そして輪切りにされたイカが、計算し尽くされたように隙間なく並べられ、フレッシュなレモンの櫛切りとイタリアンパセリの緑が美しい彩りを添えている。
強烈なニンニクの香りと、幾重にも重なった魚介の濃厚な香りが、湯気と共に部屋中に満ちて食欲を激しく刺激した。
「パエリアは、米料理じゃない」
井上は木製のヘラを使い、鍋の底に張り付いた『おこげ』ごと豪快に掬い上げ、優香の皿にたっぷりと盛り付けた。
「エビの頭と殻から時間をかけて煮出した濃厚なスープと、アサリやムール貝から出る旨味。それを一滴残らず生米に吸わせる『スープ料理』だ。だから、米の中心に少しだけ芯が残る、アルデンテの状態が一番美味い。パプリカの甘みも、いいアクセントになっているはずだ」
優香はフォークで一口すくい、ふーふーと息を吹きかけてから口に運んだ。
「……んんっ!」
大きな瞳が、さらに丸く見開かれる。
米の一粒一粒に、海の暴力的なまでの旨味が極限まで凝縮されている。サフランの高貴な香りと、トマトの爽やかな酸味、そして上質なオリーブオイルのコクが、口の中で完璧なハーモニーを奏でていた。
「すっごく美味しいです……! 鮮やかで、見ているだけで元気が湧いてきそうです」
「そいつで流し込め」
井上が次にグラスに注いだのは、鮮やかなルビー色の液体だった。
『サングリア』。
重めのテンプラニーリョ種の赤ワインに、オレンジ、レモン、リンゴの皮をじっくりと漬け込み、シナモンスティックと少量のブランデーで香りを整えた、スペインの国民的カクテルだ。氷がカラン、と涼やかな音を立てる。
「甘くて、フルーティー……。全然お酒って感じがしないです」
優香がごくごくと美味しそうに飲み干すのを見て、南が眼鏡の奥で呆れたように小さく息を吐いた。
「優香さん、口当たりは非常に良いですが、アルコール度数は高いですよ。……まぁ、今夜くらいは良いでしょうけど」
「細かいこと気にしないの。ほら、南も飲みなさいよ!」
舞永が自分のグラスを南に強引に押し付けようとし、その横でメイド服姿の茉莉が「行儀が悪うございますよ」と静かに窘める。
すっかり頬を紅潮させ、心から笑い合う優香。
井上は自分のグラスのサングリアを、静かに口に含んだ。
果実の熟した甘みの奥に、赤ワインの渋みとシナモンのスパイシーな刺激が長く残る。
守るべき仲間たちがいて、共に温かい食卓を囲むことができる。
前の人生では絶対に手に入らなかった、この温かい時間。
「ミャウ!」
「ニャッ!」
足元で、ハイとローが「俺たちにも美味いものをよこせ」と、催促の大合唱を始めている。
井上は薄く笑い、特製の猫用ツナペーストを用意するため、キッチンへと振り返った。




