第51話 王の朝食
西園寺家という巨大な悪を討ち滅ぼし、帝都グループを『新生・帝都ホールディングス』として生まれ変わらせてから、数年の月日が流れた。
東京の都心、閑静な高台にそびえ立つ豪奢な洋館。
それが、現在の井上健太郎と、彼が選び抜いた7人の「共犯者」たちが共に暮らす城だった。
復讐に燃え、血と嘘にまみれたかつての殺伐とした空気は、今はこの屋敷にはない。
朝6時。
高く取られた天窓から、初夏の爽やかな陽光が、広大なアイランドキッチンに降り注いでいる。
井上健太郎は、白のオックスフォードシャツの袖を捲り上げ、静かな集中力でまな板に向かっていた。
今朝のメニューは、各々の好みに合わせた完全なオーダーメイドだ。
オーブンからは、こんがりと焼けたチーズとベシャメルソースの濃厚な香りが漂っている。森舞永や斎藤冴子といった「朝からガッツリ派」のために用意した、極上のクロックマダム。カリッと焼いたカンパーニュに極厚のハムとグリュイエールチーズを挟み、完璧な半熟の目玉焼きを乗せた一品だ。
そしてミキサーには、アサイーと各種ベリー、自家製ヨーグルトをブレンドした特製スムージーが冷えている。
だが、井上が今、最も神経を尖らせて調理しているのは、それらではなかった。
「朝はさっぱりしたものがいい」という清水南や林優香のための、ベトナムの伝統料理『ゴイクン』――生春巻きだ。
井上は、ぬるま湯を張ったボウルに、極薄のライスペーパーをサッとくぐらせ、濡れ布巾を敷いたまな板の上に広げた。
ライスペーパーはまだ少し硬いが、具材を巻いている間に水分を吸って完璧な柔らかさになる。この時間差の計算が命だ。
まず、サニーレタスと千切りにしたキュウリ、大葉を敷く。
その上に、ベトナムの極細米麺と、八角や生姜を加えた特製スープでしっとりと茹で上げた豚バラ肉のスライスを重ねる。
そして、ミントとパクチーをたっぷりと乗せ、下から一度、きつく巻き上げる。
「……ここからが、見栄えの勝負だ」
井上は、半分にスライスした茹で海老を、赤い模様が下になるように3つ並べて置いた。さらに、ニラの青い葉を、海老を挟むように長く配置する。
そして、左右を折り込み、最後まで一気に巻き上げる。
完成した生春巻きは、まるで宝石のように美しかった。
半透明になったライスペーパーの向こう側に、海老の鮮やかな赤と、ニラやハーブの瑞々しい緑がくっきりと透けて見えている。
これを10本、等間隔のサイズで寸分違わず作り上げる。プロのベトナム料理人顔負けの芸術的な仕上がりだ。
つけダレは2種類用意した。
一つは『ヌクチャム』。上質なナンプラーに、ライムの絞り汁、パームシュガー、すりおろしたニンニクと生の赤唐辛子を合わせた、甘酸っぱくも刺激的な万能ダレ。
もう一つは、海鮮醤にピーナッツバターと砕いたローストピーナッツを混ぜ込んだ、濃厚でコクのあるタレだ。
これに合わせる飲み物は、キンキンに冷えた強炭酸水。
フランス産の『ペリエ』をクリスタルグラスに注ぎ、大きくカットしたライムと、フレッシュなミントの葉を浮かべる。
シュワシュワと立ち昇る気泡が、目にも涼しげだ。
「よし。……完璧な朝食だ」
井上がエプロンを外したのとほぼ同時に、ダイニングルームの重厚な扉が開いた。
「おはようございます、旦那様」
最初に現れたのは、完璧なタイトスーツに身を包んだ池田茉莉だった。
彼女は今や、新生・帝都HDの社長となった井上の筆頭秘書として、絶大な権限を握っている。
その背後から、次々と女性たちがリビングに現れる。
「あー、いい匂い! おっさん、今日の朝ごはんは何!?」
ショートパンツにオーバーサイズのTシャツというラフな姿で飛び込んできたのは、木村心だ。17歳だった彼女も今や20代に差し掛かり、少しだけ大人びたが、相変わらずの中身だ。彼女は新会社のCTOとして、サイバーセキュリティの全てを統括している。
「私は生春巻きを頂くわ。……午後から雑誌の表紙撮影があるから、お腹がいっぱいになりすぎるのは避けたいの」
林優香が、優雅なルームウェア姿で現れる。
彼女はあの復讐劇での「悲劇のヒロイン」の知名度を利用し、今や日本を代表するトップ女優への階段を駆け上がっていた。
「豚肉と海老が入ってるから、タンパク質もしっかり摂れるわよ、優香ちゃん」
白衣姿の山崎桃子が、けだるげに欠伸をしながら優香の肩を叩く。彼女は新会社の医療・製薬部門の顧問として、合法的な新薬開発を指揮している。
「私も生春巻きと炭酸水を頂きます。……今日の株主総会は少し荒れそうだから、胃を重くせずに頭をすっきりさせておきたいので」
清水南が眼鏡の位置を直し、斎藤冴子を見た。
「冴子さんは?」
「私はガッツリいくわ。クロックマダムね。私のメディア戦略を法務でしっかりバックアップしてちょうだい」
冴子が不敵に笑う。
そして最後に、ジョギングから戻った森舞永が、汗を拭きながらテーブルについた。
7人の「共犯者」たち。
彼女たちは今、それぞれの分野でトップクラスの実力を発揮し、井上の創り上げた新しい帝国を支える最強の幹部となっていた。
「……ミャウ!」
「ニャッ!」
足元では、立派な成猫になったシルバータビーのハイと、黒猫のローが、自分たちのご飯を催促して鳴いている。
井上はそれぞれの専用ボウルに高級キャットフードを入れ、全員の顔を見渡した。
「いただきます」
優香が、生春巻きを箸でつまみ、ヌクチャムに浸して口に運んだ。
シャキッ!
ライスペーパーのモチモチとした食感と、新鮮な野菜の歯ごたえ。
そこに、豚肉の旨味と海老の甘みが広がり、ミントとパクチーの鮮烈な香りが鼻腔を抜ける。
甘酸っぱく辛いタレが、全ての具材を一つにまとめている。
「んんっ……美味しい! さっぱりしてるのに、すごく奥深い味」
南も、ピーナッツソースをつけて生春巻きを上品に咀嚼した。
「濃厚なピーナッツのコクが、淡白な野菜に信じられないほどの満足感を与えていますね。……絶品です」
そして、二人はグラスの炭酸水を口に含んだ。
シュワッ!
強烈な炭酸の泡が、口の中に残ったピーナッツやナンプラーの香りを綺麗に洗い流す。
ライムの酸味とミントの清涼感が、細胞の隅々まで行き渡るような爽快感をもたらす。
「ふぅ……朝からこんな贅沢ができるなんて、私たちは幸せ者ね」
冴子がクロックマダムの黄身を崩しながら笑った。
食卓には、絶え間ない笑い声と、和やかな会話が溢れていた。
井上はコーヒーを啜りながら、この光景を守り抜いた自分自身の決断に、静かな誇りを感じていた。
朝食後。
出社までのわずかな時間、井上は自室の書斎で、一人タブレット端末と睨み合っていた。
画面に映し出されているのは、日経平均株価の推移と、ニューヨーク市場の動向。
そして、個別の銘柄のチャートだ。
「……おかしいな」
井上は眉間を指で揉んだ。
井上健太郎、すなわち灰谷守は、今から10年後の未来からタイムリープしてきた人間だ。
彼はその「未来の記憶」を頼りに、どの株が上がり、どの企業が倒産するかを正確に予知し、莫大な資産を築き上げた。
その「絶対的な予知能力」こそが、彼が玉座に座り続けられる最大の武器だった。
だが。
ここ数ヶ月、その「予知」に微細なズレが生じ始めていた。
例えば、井上の記憶では、今週中に倒産発表があるはずだった中堅の半導体メーカーが、なぜか昨日の夕方、海外ファンドからの巨額の資金調達を発表し、株価がストップ高になった。
逆に、安定して成長を続けるはずだったエネルギー関連企業が、記憶にはないスキャンダルに見舞われ、株価を落としている。
一つ一つのズレは、まだ小さい。
井上の資産や帝都HDの経営を揺るがすほどのものではない。
「……バタフライエフェクト、か」
井上は低く呟いた。
蝶の羽ばたきが、遠く離れた場所で竜巻を起こす。
井上は、西園寺家という日本経済の一角を担う巨大財閥を、本来の歴史よりもずっと早い段階で解体し、再編してしまった。
その影響が、経済の歯車を少しずつ狂わせ、井上が知る「元の未来」とは違う方向へ、世界を動かし始めているのだ。
「俺の持っている『未来の記憶』の賞味期限が、切れかかっているということか」
井上はタブレットの電源を落とした。
もし、未来の知識が通用しなくなった時。
自分は、ただの「少し頭の回る30代の経営者」になってしまう。
そして、嫌な予感はそれだけではなかった。
茉莉の諜報網や、冴子の情報ネットワークから、最近頻繁に上がってくる一つの名前があった。
旧帝都グループが手放した利権を、異常なスピードで買い漁り、政財界の裏側で不気味なほどの力を持ち始めている新たな財閥。
『九条グループ』。
そして、その若き総帥・九条蓮。
井上の「1周目の記憶」には、そんな男がこれほど早く台頭してくる歴史は存在しなかった。
歴史が、未知の領域へと足を踏み入れている。
「……旦那様。お車のご用意ができました」
書斎のドアがノックされ、茉莉の声が聞こえた。
「ああ、今行く」
井上は立ち上がり、窓の外を見た。
青く澄み渡っていた空の向こうに、微かに黒い雲が湧き立ち始めている。
復讐の過去は終わった。
だが、守るべきものができた今、彼は「見えない未来」という、かつてない強大な敵と対峙しなければならない。
「……かかってこい。俺の城は、そう簡単には崩させない」
井上はジャケットを翻し、力強く書斎を後にした。
新たな戦いの幕開けが、すぐそこまで迫っていた。




