第50話 新たな名前
東京の空を、薄紅色の花びらが舞っている。
あの日、灰谷守が絶望の中で命を落とし、そして井上健太郎として生まれ変わってから、数年の月日が流れていた。
都心の閑静な高台にそびえ立つ、広大な敷地を持つ豪奢な洋館。
それが、現在の井上の「城」だった。
かつての西園寺家のようなどす黒い因習や冷たい権威主義の匂いは、ここにはない。あるのは、温かな生活の息吹と、賑やかな足音だけだ。
朝の光が差し込む広い廊下を、井上はコーヒーマグを片手に歩いていた。
ふと、ランドリールームの開いたドアから、シャカシャカと猫砂を掻く音が聞こえてきた。
「……ハイか?」
井上が覗き込むと、そこには奇妙な光景があった。
ドーム型になった最新式の高級猫用トイレ。それは本来、シルバータビーの『ハイ』の専用トイレであり、隣には漆黒の『ロー』専用の黒いトイレが並んで置かれている。
しかし今、ハイのトイレの中にスッポリと収まり、神妙な顔をして踏ん張っているのは、漆黒の毛並みを持つローの方だった。
「……お前、自分のトイレがあるだろう」
井上が声をかけると、ローは「ビクッ!」と肩を震わせ、振り返った。
金色の大きな瞳が、「しまった、見つかったニャ」とばかりに見開かれている。
成長して黒豹のように精悍になったローだが、中身はまだ路地裏で拾われた時のやんちゃな子供のままだ。
ローは慌ててシャカシャカと豪快に砂をかけ、証拠隠滅を図ろうとしたが、勢い余って砂をトイレの外にまで撒き散らしてしまった。
そして、気まずそうにトイレから飛び出すと、「ニャ、ニャンにもしてないよ!」とばかりに、井上の足元にスリスリと擦り寄り、誤魔化すように喉を鳴らした。
その様子を、トイレのすぐ横のキャットタワーから、ハイが恨めしそうに見下ろしていた。
「ミャァァ……(それ、僕のトイレなのに……)」
ハイの困り果てたような情けない声に、井上は声を出して笑った。
「ははは。お前たち、本当に飽きないな」
井上はローの頭を軽く小突き、ハイをタワーから抱き下ろしてやった。
復讐の鬼として血で血を洗う戦いを繰り広げていたあの頃には、こんなふうに腹の底から笑える日が来るとは、想像もしていなかった。
だが、今は違う。
ここには、守るべき日常があった。
「おはようございます、旦那様」
ダイニングルームに入ると、鈴を転がすような声が出迎えた。
池田茉莉だ。
屋敷にいる時はクラシカルなメイド服を好んで着る彼女だが、出社前の今は、洗練されたタイトなビジネススーツに身を包み、髪をエレガントにまとめた『筆頭秘書』としての顔を持っていた。
彼女は銀のトレイから、淹れたてのハーブティーと、井上の好物である浅煎りのコーヒーをテーブルに並べた。
「ハイ様とロー様、また朝から陣取り合戦ですか?」
「ああ。ローの奴、どうもハイの匂いがついている場所の方が安心するらしい」
「ふふ、兄弟のようなものですからね」
茉莉が微笑んだ時、他の部屋からも次々と賑やかな声が近づいてきた。
「あー、もう! 心ちゃん、また私の化粧水勝手に使ったでしょ!」
「使ってないよ! 冴子さんの肌年齢に合うやつなんて、私には重すぎるもん!」
「なんですってぇ!?」
言い合いをしながら入ってきたのは、ジャーナリストから一転、新会社の広報役員としてメディアを牛耳る斎藤冴子と、天才ハッカーにしてセキュリティ部門のトップである木村心だ。
心は相変わらずオーバーサイズのパーカーを着ているが、その背は数年前よりも少し伸びていた。
「朝からうるさいわよ、二人とも。……血圧上がるわ」
あくびをしながら現れたのは、白衣の代わりにゆったりとしたシルクのルームウェアを着た山崎桃子。
彼女は新会社の医療・製薬部門の顧問として、合法的な新薬開発の陣頭指揮を执っている。
「おはようございます、皆様。……今日の朝ごはんは何ですか?」
ふわりとした笑顔で現れたのは、今や日本を代表するトップ女優となった林優香だ。
彼女の透明感のある美しさは、スクリーンだけでなく、この家のリビングをも明るく照らしていた。
「今日は井上社長が腕を振るってくださるそうですわよ」
最後に、完璧なピンストライプのスーツを着こなした清水南が、タブレット端末から目を上げずに言った。
法務役員として新会社の屋台骨を支える彼女は、朝からすでに海外との契約書チェックを終えたところらしい。
「よし、全員揃ったな」
井上はエプロンを締め、アイランドキッチンに立った。
今日のメニューは、全員のリクエストを取り入れた特製の『エッグベネディクト』だ。
イングリッシュマフィンの上に、香ばしく焼いたベーコン、完璧なポーチドエッグ、そして酸味の効いた濃厚なオランデーズソースをたっぷりとかける。
ナイフを入れると、とろりとした黄金色の黄身が溢れ出し、ソースと絡み合う。
「うわぁ、美味しそう!」
「いただきまーす!」
7人の女性たちが、楽しそうに食卓を囲む。
かつて、復讐という名の毒杯を共に煽った共犯者たち。
彼女たちは今、それぞれの才能を遺憾なく発揮し、井上の創り上げた新しい帝国を支える最強の幹部となっていた。
「……ねえ、ボス」
遅れてリビングに入ってきた森舞永が、ベーコンを一枚つまみ食いしながら言った。
警備部長として、この洋館と会社の全セキュリティを統括する彼女は、今日もライダースジャケットがよく似合っている。
「今日のスケジュール、午後から空いてるでしょ? 少しドライブ行かない?」
「仕事はどうした」
「部下に任せてあるわ。……たまには息抜きも必要よ」
舞永の誘いに、他の女性たちから一斉にブーイングが飛ぶ。
「抜け駆けはずるい」「午後は私との対談取材が入っているはず」と騒ぎになる。
井上はコーヒーを啜りながら、その光景を静かに見つめた。
愛と騒騒しさに満ちた、温かい朝。
この光景こそが、彼が数年前、文字通り骨身を削って手に入れた「最大の戦利品」だった。
朝食後。
井上は茉莉を伴い、舞永の運転するマイバッハで大手町のオフィス街へと向かった。
かつて帝都グループの本社ビルと呼ばれていたその巨大な摩天楼は、今や『新生・帝都ホールディングス』という新しい看板を掲げ、井上健太郎の城となっていた。
社長室のデスクに座り、眼下に広がる東京の街を見下ろす。
「……茉莉。例の件の報告は?」
「はい、旦那様」
茉莉は手元のタブレットを開き、抑揚のない事務的な声で報告を始めた。
「まず、西園寺貴子について。……彼女が入院している閉鎖病棟からの報告によれば、認知症の症状はさらに進行しているとのことです。現在は自分がどこにいるかも理解できず、一日中、鉄格子に向かって『私は帝都の女帝よ! 早くお茶を持ってきなさい!』と怒鳴り続けているそうです」
茉莉の冷たい報告に、井上の心は微動だにしなかった。
薬によって自ら脳を壊していった女帝の、哀れな末路。彼女は一生、自分の作り上げた妄想の城の中で、孤独な女王を演じ続けるのだ。
「西園寺猛については、度重なる薬物の後遺症とフラッシュバックにより、重度の精神疾患と診断されています。……夜な夜な、壁に向かって『俺は殺してない! 事故なんだ!』と叫びながら、頭を打ち付けていると」
「……そうか」
猛の心の中に巣食う、10年前の建設事故の亡霊。
彼が犯した本当の罪が、彼の精神を永遠に食い破り続けている。
「最後に、西園寺麗華ですが」
茉莉はタブレットの画面をスワイプした。
「自己破産手続き完了後、彼女は全ての資産を失い、親族からも絶縁されました。現在は都外の寂れた歓楽街で、偽名を使って深夜の清掃作業などに従事しているようです。……常に何かに怯え、少しでも背の高い男性を見ると悲鳴を上げて逃げ出すとのこと」
かつて、灰谷守を「汚れた雑巾」と呼び、泥水を啜らせた女。
彼女は今、自らが最も見下していた泥沼の底で、その泥水を啜って生きている。
井上健太郎という「見えない悪魔」の幻影に、一生怯えながら。
「報告は以上です。……これにて、かつての『西園寺家』は、完全にこの世から抹消されました」
茉莉はタブレットを閉じ、深く一礼した。
「……ご苦労だった」
井上は窓ガラスに手をつき、遠くの空を見つめた。
あの日、雪の降る崖の下で死んでいった「灰谷守」。
彼の無念は、これで本当に、全て晴らされたのだろうか。
『お疲れ様、俺たち』
ガラスに映る自分の顔が、そう言ったような気がした。
かつての卑屈な男の面影は、もうどこにもない。
そこにいるのは、数々の修羅場をくぐり抜け、自分の手で新しい運命を切り開いた、強く、冷徹で、そして優しい男の顔だった。
「……さよならだ、灰谷」
井上は呟き、そして、もう二度と振り返らないと決めた。
過去への復讐は、終わった。
これからは、未来への恩返しを始める時だ。
「旦那様。……次の役員会議まで、あと10分です。南様が、契約書の承認をお待ちです」
「分かっている。……行こうか」
井上はジャケットのボタンを留め、力強く歩き出した。
その背後を、筆頭秘書である茉莉が、影のように、しかし確かな信頼を持って付き従う。
ドアを開けると、そこには彼を待つ仲間たちがいた。
心、優香、冴子、南、舞永、桃子。
そして、帰りを待つ二匹の小さな命。
灰谷守という男は、10年前に死んだ。
だが、井上健太郎という男の人生は、この光り輝く未来へ向かって、まだ始まったばかりだ。




