第26話「真霜とナヅハ。」
再び目を開いた時、真霜はあの記憶の海の底にいた。
前よりも辺りは明るく見え、記憶の欠片は以前見たときより淡い光を強く放ち、きらきらと柔らかく光っていた。
目の前に浮いている欠片に触れてみれば、色鮮やかに記憶が蘇ってくる。
椥叉との出会い、梓との生活、母親の事故、クラスの友人との会話。
自分の人生を再び体験している様な思いだった。
「真霜。」
欠片に触れていた真霜は、背中の方から飛んできた声に振り返ると、いつもと変わらないナヅハが、そこに静かに立っていた。
真霜は何故かナヅハに自ら近づくことが出来ず、2メートルほどの間隔を開けたまま立ち尽くしていた。
「ナヅハ……。」
「こんにちは、真霜。」
にっこりと笑顔を見せてナヅハは言った。
「……その作り笑いは止めてよ。」
真霜はついナヅハの顔から目を背ける。
「あら、よく分かったわね?」
笑みから一転、いつもの感情の読めない無表情になった。
「何年の付き合いだと思ってんのさ……?」
「そうね、七年くらいだったかしら?」
ナヅハは両肩をすくめる。
「それで?こんなところまで来て何の用かしら?」
一度背を向けて手を広げて惚けるようなナヅハの様子が、癪に障ったのだろう。
真霜は眉を寄せて、
「どうして椥叉を叩いたの?」
とだけ聞いた。
半身だけ振り返り、真霜の突き刺すような視線を感じたナヅハは腕を組む。
「あなた、全て思い出してしまっているのでしょう?ならなんとなく察しはついているんじゃないの?」
「確かにそうだね。でもそんな憶測をここで並べようとは思わない。本人たちから聞かないと意味無いでしょ?椥叉は答えてくれないし、あとはあなたを問い質すしかない。違う?」
真霜が皮肉を込めて言ってみせると、ナヅハは小さくため息をついた。
「あの子が、あなたに梓の事を思い出させたからよ。」
ナヅハは再び体の正面を真霜に向け、続ける。
「あの夜、梓の遺した手紙を読んだあなたは、あの人の死を理解はしても、受け入れる事は到底出来なかった。いえ、下手に理解してしまったからこそ、なのかもしれないわね。」
ナヅハの紡ぎ出す言葉を真霜は黙ったまま聞いている。
「だから私が生まれた。あなたは、自分が思い描いていた梓の容姿、性格、口調までを模倣させた私を作り上げた。勿論作った本人であるあなたは無意識だったけれどね。」
ナヅハは真霜から外した視線を、海の中を漂う記憶の欠片に移す。
「そしてそれは運よく成功したわ……。当時の記憶をこの心の海の底に閉じ込め、私という存在があなたの意識の中に、自然と溶け込むことが出来た。」
「うん、そうだね……。」
真霜は、ナヅハの移りゆく視線を追うことなくナヅハの瞳を真っ直ぐに見据えている。
「おかげであなたは、自我の崩壊という最悪の結末だけは回避することが出来た。一番大切だった梓の死を忘れる事で、あなたは自分の”死”を回避したのよ。」
そのナヅハの言い方に真霜は思わず顔をしかめた。
「だから、その事を思い出させた椥叉を叩いたの?」
「ええ、そう。あなたの中での私という存在は、言ってしまえば梓の死からの究極の現実逃避。いくらあなたが高度に人格化した私の様なものを作り上げても、結局はあなたが演じているに過ぎず、私はあなたの劣化版でしかないわ。結局のところ、あなたは未だに一人のままなのよ。」
真霜は無意識にその言葉を頭の中で繰り返していた。
『結局、あなたは一人。』
余りにも心の奥に響いてくる言葉だった。
それに呼応するかのように海の底が暗くなる。
そんな真霜の様子に気付いていたナヅハだったが、口から出てくる言葉を止めようとはしない。
「勿論椥叉はそんな事だとは知らなかったでしょうけれど、それでもあなたにアレを見せてしまった事は許せなかったのよ……。」
「それが、椥叉が持っていた梓さんの手紙だった……?」
真霜の問いに対するナヅハの一瞬の沈黙こそが、その答えに他ならなかった。
少し暗がりのせいで真霜には見えていなかったが、ナヅハは白くなる程に拳を強く握りしめている。
「あなたに本当の意味で梓の死を突きつけたのが、あの手紙だったわ。それをきっかけに私を作り、梓との記憶を無かったことにしようとしたけれど、これはあなたが思っているより遥かに脆いものなのよ。」
「脆いって……?」
「いくら記憶を閉じ込めたとしても、梓が死んだという事実、現実は変わらない。それに強く印象付けられたものは、ここに留めておくことができなかったわ。だからそれこそきっかけがあれば記憶が蘇ってしまうものだった……。」
ナヅハは辺りの記憶の欠片に触れていた。
真霜にはいくつかの心当たりがあった。
何故かずっと『拾玖』を書き続けていたり、椥叉の見舞いに行った時に病院の中について何故か詳しかったり、梨の皿を見て懐かしさを覚えたり。
椥叉の膝の上で眠り、目を覚ました時に見上げた彼女の顔に見覚えがあったり。
あの歌に聞き覚えがあったり、全く関係ない親子が手を繋いでいる姿を見て涙が出てきたり。
今まで深くは考えてはいなかったが、閉じ込めていた記憶の片鱗がにじみ出ていたという訳だ。
「……思い出した様ね。確かに不完全だったけれど、あなたは長い時間をかけ、私を擁していても、人並みに生活できるようになってきていたわ。それをわざわざ崩す必要は無かった……。」
ナヅハは記憶の欠片から手を離し、俯く。
「あの子は図らずもそれを壊してしまった。そして案の定あなたは記憶の交絡で意識を失ってここに閉じ込められてしまった……。」
その時の事を思い出したのだろう、ナヅハは顔を苦痛に歪める。
「で、でも私はもう大丈夫だよ?こうやって戻ったし、その時もここで梓さんが助けてくれ……」
真霜は何とか笑顔を作って言おうとしたが、ナヅハは首を振って遮った。
「言ったでしょう?いくら高度に人格化しても、それはあなたでしかないの。あなた自身が自分を励ますために無意識に作り出した梓の幻影であって、それは本当の梓では無いわ。梓は死んでいるのよ?」
ナヅハの言っていることが信じられず、真霜は何も言えない。
「それに、何が大丈夫よ……。あなたは何も分かってない……。」
「……え?」
わなわなと震えているナヅハは唇を噛んでいる。
「七年かけて何とか安定させてきた記憶のバランスが崩れたのよ?もう巻き戻すことは出来ない……。」
辺りを依然漂う欠片たちは鈍い光を放ちながら、ゆらゆらと揺れている。
「それが、何なの……?」
「分からないの!?」
真霜を睨みつけ、ナヅハは詰め寄る。
「あなたが自分を壊さないために、色々なものを犠牲にして作り上げたものが全て水の泡になったのよ!?どうなるか予想もつかない、記憶の交絡がこの先不規則に起こるかもしれない!無理やりにこじあけた記憶というのは何を引き起こすか分からない!どこが大丈夫なのよ!?あなたも!椥叉も!今どれだけ危険な状況にいるか分かっていないのよ!!」
掴みかかる様な勢いでナヅハは叫んだ。
彼女の表情に浮かんでいるものが、怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか、真霜には判断できなかったが、ひとつだけその時なって初めて気づいたことがあった。
「もしもあなたが!ここから自我の崩壊を起こしたらどうするつもりなのよ!?そしたら、私と過ごしてきた七年間は、どうすればいいのよ……!?」
ナヅハは真霜の目の前で崩れ落ちてしまった。
ナヅハの、叫びつつも消え入りそうな声が、真霜の心を揺らす。
真霜は今まで自分が、彼女の言うように何も分かっていなかったことを思い知らされた。
自分の情けなさに、音が聞こえるかと思うほどに歯ぎしりをし、ここまで彼女ひとりに全て背負わせてしまったことを悔いた。
目の前で崩れているナヅハは、今までの自信にあふれた彼女とは違って、余りにも小さく見えた気がした。
「このままじゃ、私はあなたに何も出来ないまま……!」
ナヅハが叫びそうになったその時だった。
「……ぁ……。」
真霜は崩れ落ちたナヅハを力一杯に抱きしめていた。
「まし、も……?」
「ごめんね、ナヅハ……。ナヅハはずっと私を助けてくれてたんだよね?守ろうとしてくれてたんだよね?だからひとりで抱えて苦しんで……。私はそんなナヅハを見たくないよ!私のせいでナヅハにそんな苦しい思いをさせたくない……!ごめんなさい!」
真霜の視界に映りこむ欠片の光が、大きくぼやけ始める。
涙が彼女の瞳の中を満たしてゆく。
ナヅハは、真霜の顔こそ見えなかったが、彼女の声を聞けば真霜がどんな顔をしているのかなんとなく分かった。
「くだらない冗談言い合って笑ってくれたり、私の相談に乗ってくれたり、耳が痛くなるような小言言ったり、そんなナヅハが大好きなの……。もうこれ以上苦しんでほしくないの……、都合のいい事を言っているのは分かってるけど……でも……!」
「……バカ、ね。小言は余計よ。それに言ったでしょう……?私はあなただって。私は自分の為にやってるだけよ、あなたは謝る必要も、泣くことも無いのよ?自意識、過剰よ。全く……。」
そう言ってはいるが、そのナヅハの声も震えていた。
「ねぇ、真霜……?このままじゃどうなるか分からないって、言ったわよね?」
「……うん。」
「でもね、この状況を解決する方法が、ひとつ、たったひとつだけ残ってるわ。」
とうとうその言葉が彼女から出てしまい、真霜は嗚咽を漏らす。
本人から直接その方法を聞きたくなかった。
真霜にはそれが何なのか分かっていたからだ。
「待って、待ってよ。何か別の方法があるよ……!?」
真霜は必死になってナヅハを抱き寄せるが、ナヅハはゆっくりと首を横に振る。
「私は、あなたがここから戻ってくるまで”琴ノ葉真霜”でいるつもりだったわ。そしてもしあなたが梓の死を再び受け入れることが出来なかった時は、何をしてでも連れ帰るつもりでもいた。でも、その必要は無かったみたいね。」
ナヅハは真霜の頭を優しく撫でる。
「私こそ、あなたの中のバランスを崩していた元凶。私があなたの中から消えれば、全てが動き出すわ。梓はもうこの世にいない。そして今話して分かったわ、あなたはもう大丈夫。梓の死を認め、受け入れることが出来たのなら私の役目も終わったわ。ごめんなさいね、これだけは最後までやりたくは無かったの……。」
小さく泣き声を漏らしている真霜を、ナヅハはそっと抱き返す。
その姿はまるで母と娘の様だった。
「あなたは自分の力で帰ってきたわ。私が想像出来ないくらいに辛かったわよね……?悲しくて、苦しかったわよね……?」
真霜は嗚咽をしながらも小さく頷く。
「そうよね?でもあなたは自分のその足で立ち上がって、負けるものかとあきらめずに戦い抜いた。梓が教えたようにしっかり出来たわね。強くなったわ。本当に……よく頑張ったわね、真霜。」
そうナヅハに言われた瞬間に真霜の感情は決壊し、涙が一気に溢れてきた。
「違う……違うよ。ナヅハが、椥叉が、梓さんがいたからだよ……。私は何も変わってない。私は何も成長してないよ……。」
真霜は目を閉じたままに言う。
「ほらほら、泣かないの。自分の成長は、自分では分からないものよ。私がこうまで言っているのだから自信を持ちなさいな。泣き顔じゃなくて、笑顔を見せてちょうだい。」
きっと彼女は笑っているのだろう、こんなにも優しいナヅハの声を真霜は初めて聞いた。
「ずるい、あんまりだよ……。こんな時になってそんな事言うなんてさ……。」
「ふふ……。ごめんね。私はこういう女なのよ。」
その時真霜は、はっとした。
「……ねぇ、ナヅハ?もしかして、椥叉の手術の日を教えたらこうなるって分かってたんじゃないの……?椥叉はナヅハのいる理由を知ってたんだよね?なら椥叉が私にその事を私に言うのも分かってたんだよね?なら、どうして……。」
そういう真霜にナヅハは小さく笑う。
「だって、彼女はあなたの大切な友達でしょう……?それに私自身、最終的にはこうなることを望んでいたのかもしれないわね。」
「そんな……。」
段々と、ナヅハが淡い光に包まれていく。
穏やかで温かいその光は、辺りを漂う記憶の欠片が放つ光と同じだった。
「ごめんね、真霜。私”も”、あなた達を直接見届けることは出来なさそうね……。」
「謝らないでよ……。梓さんもナヅハも謝ってばっかりじゃん……。」
真霜の怒ったような口調にナヅハは苦笑した。
「そうね、確かにそれじゃダメよね……。」
彼女の身体の一部が徐々に光の粒へと変わり、海の中に散り、上の方へと昇っていく。
「待って、待ってよ、ナヅハぁ……!」
ナヅハは真霜を抱く手を解き、彼女の少しだけ大きくなった両手を自分の消えゆく両手で包み、自分の額を真霜の額にくっつけた。
「真霜、あなたなら大丈夫よ。私がいなくてももう笑える。希望を見失わずにいられる。立ち止まっても、振り返っても、その場で座り込んでもいいわ。けれど、最後は必ず自分の足で立ち上がって、自分の道を歩いていきなさい。自分の人生を生きていきなさい。
……今まで、ありがとう。」
真霜の手を包んでいた温もりは、蝋燭の火が小さくなるように冷えてゆく。
「さようなら、真霜。」
彼女はひときわ強く真霜の手を握りしめ、そう言った。
ナヅハの全てが光の粒となり、心の海へ溶け、心の空へと還っていった。
「ナヅハ、ナヅハ!……ありがとう、私の方こそ今まで、ありがとう……!」
消え入るような涙の混じる声の真霜。
その言葉は、七年間自分を支え、愛してくれた彼女に、真霜が最期に贈ることが出来る精いっぱいの言葉だった。
真霜は下唇を強く噛み、目を強く閉じ、押し寄せてくる悲しみを堪えようとするが、涙はとめどなく溢れ、涙が伝った瞳と頬は焼けるように熱かった。
もう押しとどめる事は出来ない。
とうとう口を開き、心の海の中で再び一人になった少女は、大声で大切だった人の名前を呼びながら、泣き叫んだのだった。




