第25話「俄かの焦慮、束の間の帰参。」
「起きなさい、真霜。」
遠くから聞こえてくるその声で真霜は目が覚めた。
「ん……、ん?」
今までと同じように返事を一瞬しかけたが、違和感に気づく。
ここ一週間は、この声は聞こえなかったはずだ。
「……ナヅハッ!?」
真霜のぼんやりしていた頭が吹き飛び、意識がいつも以上に覚醒した。
「そうよ、早く起きなさい。」
「は?」
余りにもいつも通りな、ナヅハの調子に真霜は混乱していた。
「とにかく早くしなさい。」
彼女の静かな言葉に何かを感じ、言う通りすぐに体を起こし、学校へ行く準備を整えた。
「ナヅハ、今までどうしてたの?」
真霜は彼女の顔を見ることなく聞いた。
「…………。」
ナヅハは黙ったままでいる。
「ナヅハもだんまりなの?全く椥叉もナヅハもどうして……。」
「私は、あなたが目覚めてからの記憶は見たわ。」
ナヅハは真霜を遮りながらも、何故か言いにくそうにしている。
真霜が目覚めてから、ということは先週の火曜日の夜中、正確には日を跨いだ水曜日からの真霜の行動を知っているということだ。
「だから何?それが一体あなたがいなかったことと何の――」
「椥叉の手術は、多分今日よ。」
ナヅハの言葉に、真霜の頭は真っ白になった。
「……え?な、なんで……?」
その言葉はナヅハに尋ねたというよりも、困惑が口をついて出たものだった。
「手術は火曜日と言われたみたいだけど……。その、色々あって彼女はあなたと会わせる顔が無いと思っているのよ。」
「ど、どういうこと!?ナヅハは知ってるんだよね!?私があの場所にいる時、こっちでは何があったのよ!?」
真霜は物凄い剣幕でナヅハを怒鳴った。
「……あなたの為だったのよ。」
ぼそりとナヅハが言ったことは真霜にはよくわからず、尚混乱してくる。
しかし、真霜は学校に持っていくはずの鞄を放り投げ、必要なものだけを持って家を飛び出し、駅に向かって走り始めた。
いつもの通学路に制服を着た同級生が歩いており、彼女たちは真霜の姿を驚いたように見ていたが、真霜は全く気に留めない。
「私の為って何よ!?ナヅハあんた、椥叉に何したのよ!?」
走って息を切らせながら、ナヅハに向かって怒鳴り続ける真霜。
「彼女は恐らく気づいているのよ……。私がどういう意図の存在なのか。」
全く要領を得ない回答をするナヅハに、真霜はこの上なくいら立つ。
「何言ってるか分かんないよ!!」
改札にICカードをかざして走り抜け、ギリギリで樽見河へ向かう電車に乗り込んだ。
既に乗っていたサラリーマンや学生は、息を切らしている真霜を見て驚いている。
その時初めて、真霜は周りの視線に気づいた。
誰とも目を合わせない様にし、窓の外を見て息を整える。
真霜は津波の様に押し寄せてくる焦燥感と、何が起こっているのか全く分からない不安感に飲み込まれそうになっていた。
しかも、その自分の知らないところで起こっているものに対して、得体の知れない不快感すら、感じていた。
何を聞いてもよく分からない事を言うナヅハに、真霜は問い続けるくらいならば急いでいった方が良いと考え、樽見河駅に着いてから病院まで、真霜とナヅハは一言も口を利かなかった。
「敷島さん!椥叉の病室ってどこですか!?」
受付にいた敷島は、息を切らし目を血走らせている真霜を見て目を丸くする。
「ま、真霜ちゃん……。どうしてここに……?」
「どこですか!?」
「……さ、324号室。」
「ごめんなさい、ありがとうございます!」
礼を言い終わらぬ内に真霜は、床を蹴って病室に向かっていった。
真霜の目に映り、流れゆく景色は懐かしい物ばかり。
清潔さを象徴するような白い壁。
アルコールと入院患者の生活が入り混じった匂い。
昔は空けるのに少し苦労した、建付けの悪そうなドア。
梓がいつも雑誌を読み漁り紅茶を買っていた院内のコンビニ。
渡り廊下から見下ろせる大木の下のベンチ。
その目に入る景色は、真霜の中の鮮明な記憶を喚起する。
息を切らせて椥叉の病室の前につき、ドアを開けた。
「はぁっ……はぁっ……!」
肩で息をしている真霜だが止まることなく奥のベッドに向かいカーテン越しに声を掛けた。
「椥叉っ!」
しかし返事は無い。
カーテンを開けると、椥叉は穏やかな寝息を立てて眠っていた。
「ね、寝てる……。」
まだ息の荒い真霜は脚の力が抜けてそこにペタンと座り込んでしまった。
「きっとまだ時間には余裕があるのね。」
ナヅハは平然としている。
「はぁ、なんで言ってくれないのさ……。」
不満そうな視線で真霜はナヅハを睨むそぶりをする。
「言ったところで止まらなかったでしょう?余計な口を挟まなかっただけ、ありがたいと思いなさい。」
「それで……、どうして今日だって思ったの?」
まだ立つことの出来ない真霜は、ナヅハに尋ねる。
「……さっきも言ったけど彼女はあなたに会いたくない。正確にはこれ以上負担を掛けたくないのよ。だからきっと全てが終わるまで関わりたくなかったんでしょうね。あの子はとても臆病だもの。予定を早く言えばすぐにばれるし、遅すぎても不審に思われる。だから一日だけ前にしたと思っただけよ、根拠は無いわ。」
ナヅハはなんとも寂しそうな目で椥叉を見つめていた。
「あなたは知らなかった。というか聞いたはずだけど覚えていない、という方が正しいでしょうけれど、梓も心臓が強くは無かった。それこそが彼女の亡くなった理由だったわ。そしてそれは娘にも遺伝してしまった。梓ほどではないけれどね。」
真霜は椥叉を見る。
彼女はこちらに気づくことなく、いまだぐっすりと眠っていた。
「でも最近、特にここ一ヶ月で調子が急激に悪化していた。それはあなたも覚えているわよね?」
そう言われて真霜は、椥叉が自分と出会ってから入院した回数が、徐々に増えていたことを思い出した。
「梓もそうだったわ。梓は椥叉がたった一回訪ねてきたあの日から体調を崩した。大した距離でもないのにあなたに紅茶を買ってくるようお願いしたり、ベッドに寝ている時間が長くなった。そして今回椥叉にも同じような出来事が起こってしまった。」
そこで真霜ははっとした。
椥叉が真霜の書いた『拾玖』を見て、靴も履かずに真霜のアパートから走って出て行った時の事を思い出した。
そして翌日、椥叉は入院し学校に来ていなかった。
「まさか、私のせいで……?」
「そういう訳じゃないわ、運が悪かったとしか言えないのよ。原因はあっても必然は無い。全ては偶然。結果論は何の意味もなさないわ。」
真霜の動揺をなだめようと静かにナヅハが言う。
しかし、それは真霜に届いておらず、床に座り込んだまま眠る椥叉の方を見つめている。
「ん……?」
その時、ベッドの布団が動き椥叉が体を起こしてきた。
「あれ?何でカーテンが……?」
椥叉の視線は空いているカーテンのレールを不思議そうに眺め、だんだんと下がっていき、最後には座り込んでいる真霜を捉えた。
「ま、真霜!どうして……!?」
椥叉は目を瞠る。
「私の、せい……。」
「しっかりなさい、あなたのせいではないと言っているでしょう。梓の時だって誰のせいでも無かったわ。今は椥叉と話をするべきでしょう?」
真霜は椥叉が目を覚ましてこちらを見ていることに気づき、やっと正気に戻った。
なんとか立ち上がり、椥叉に詰め寄る。
「ねぇ、椥叉。手術は今日なの?」
その問いにしばらく椥叉は俯いて、答えようとしなかったが、うなだれて観念したようにため息をついた。
「はぁ……、誰から聞いたの?」
「ナヅハだよ。ここ一週間いなかったんだけど、朝戻って来た。」
「え?ナヅハが……!?」
真霜の言葉に、椥叉は信じられないという表情で真霜を見つめた。
「やっぱり何かあったんでしょ?ナヅハも話してくれないし、何があったのよ!」
真霜は椥叉にこれほど強い口調をしたことは無かったが、なお椥叉は躊躇う。
「私が言うのは違うと思うから……。」
その時、真霜は椥叉の”顔”を見て、とあることに気付いた。
「ナヅハ、あんたまさか……。」
しかし、いつの間にかナヅハの気配は消えていた。
「真霜、私が悪いから。ナヅハが怒ったのも当然だと思う……。ゲホッ!ゲホッ!」
椥叉は急にせき込み、話せなくなってしまった。
真霜がナースコールを押し、看護婦がやってくる。
看護婦が持ってきた薬を飲むまで椥叉は激しくせき込み、真っ白なベッドに赤い斑点をいくつも作った。
「椥、叉……。」
額に脂汗を滲ませてベッドに横たわる彼女の姿が、かつての梓と重なった。
「私は、ゲホッ! 大丈夫だよ。ねぇ…真霜?」
苦し気な顔をしたまま椥叉は、真霜に声を掛けた。
「な、なに?」
真霜は焦って椥叉の顔に耳を寄せる。
「真霜は、私なんかより自分の事を考えて。あなたとナヅハの事を…。真霜は本当にそれでいいの?そのままで、いいの…?」
「……ナヅハ?それでいい?そのままって……?」
真霜は椥叉の言わんとすることが分からず、彼女の言葉を繰り返す。
しかし椥叉はそれ以上何も言うことはなく、手術の準備の為に連れて行かれてしまった。
ひとり取り残された真霜の頭の中で、椥叉の言葉が巡る。
「本当にそれでいいのかって、一体?」
椥叉のいたベッドに腰を下ろして、彼女の吐いた血の付いた布団を見ていると、あの海底の梓の言葉がふと蘇った。
『私が死んで、それから逃げて立ち止まって、目を閉じて、耳を塞いで座り込むだけかしら?』
梓は何を言っているのだろう?
「私が立ち止まってる?そんな事ない。だって梓さんがいなくなっても、ずっと拾玖は忘れてないし、ナヅハだって私とずっと……。」
そこで真霜の思考が一瞬停止し、直後血の気が一気に引いた。
「ナヅハ……。」
病院へ来るときにナヅハが言ったこと。
『彼女は恐らく気づいているのよ……。私がどういう意図の存在なのか。』
そこで椥叉の言葉と真霜の思考がやっと一致したのだろう、真霜は信じられない、信じたくないという表情で首を振る。
ナヅハがこのタイミングだけ戻ってきた事。
椥叉が言った事。
あの海の底の梓が言った事。
そして、ナヅハが存在しているという事。
停止していた分、急激に回復した思考はめまぐるしく巡っていく。
「嘘だよ……。そんなはずない……。そんなのダメだよ……。」
少し開いている窓から入り込んでくる風は、ベッドカーテンをほんの少しだけ揺らす。
他の患者もいないこの病室では、風の音と真霜の呼吸音だけが存在していた。
身体を全く動かさずに呼吸と、信じたくない考えを巡らせていた真霜は、椥叉が運ばれてから何時間も経ったような錯覚を覚えていた。
しかし、風が止んだのと同時に真霜は微かな声で呟いた。
「私は、逃げちゃいけない……。」
真霜は歯ぎしりをし、微かに涙が滲んでくる。
椥叉は今この瞬間、自分の運命と向き合っている。
ベッドを赤くする程血を吐いても、人生の中でどれほど長い時を病院で過ごそうとも、あの小さな身体一つだけで戦い続けている。
それは梓も同じだった。
あれほどに辛い状況でも投げ出さず笑顔を振りまき、最期の最後に手紙を残してまで、真霜と椥叉の事を思っていた。
親子揃って強いものだと、真霜は思う。
自分を理解し親友になってくれた椥叉、自分に沢山の物を授けてくれた梓。
そして今日までの七年間、絶えることなく傍にいて自分を最も愛してくれたナヅハ。
自分の為だけではない、彼女たちの為に。
今ここで前へと進まなければきっともう何も出来ない、真霜はそんな予感すらしていた。
彼女はゆっくりと深く、息を吸い込む。
「ナヅハ。」
彼女に静かに呼びかける。
しかし、今日だけは彼女が真霜の所へ来るのではない。
真霜が深層にいる彼女に会いに行くのだ。
まだ揺らぎのある不安を抱えながらも、真霜はゆっくりと目を閉じた。




