第27話「隣り合わせの二人。」
「……。」
気付くと真霜はぼやけた視界に白い天井を捉えていた。
少しばかり硬いベッドに横たわり、アルコールの匂いが染みついた布団が身体に掛けられてもいる。
「私は……?」
目覚めたばかりの真霜は何も思い出せず、ベッドの周りを囲っているカーテンをぼんやりと見つめた。
「……病院?」
ゆっくりと身体を起こしてみると、徐々に視界がはっきりとしてきた。
「そ、そっか……。あの後、倒れちゃったん、だ…。」
自分の手を見てようやく、先ほどまで自分が何をしていたかを思い出した。
昔よりほんの少しだけ大きくなったこの手を握っていてくれた彼女の温もりは、もうどこにもない。
「ねぇ、ナヅハ……?」
真霜は、窓から入ってきているであろう、そよ風の音にもかき消されそうな、小さな声で言った。
いくら待っても、返事は返ってこない。
もう二度と、彼女が自分の問いに答えてくれることは無い。
もう二度と、彼女が自分に問い掛けてくれることは無い。
もう二度と、冗談を呟いても彼女は笑ってはくれない。
もう二度と、自堕落な生活をしても彼女は怒ってもくれない。
もう二度と、悩みがあっても彼女に相談することも出来ない。
もう二度と、彼女が真霜の前に現れる事は無い。
真霜は再び、大切な人を失った。
まだそれが夢の様にぼんやりとしていたが、無意識にも涙腺は熱を持ち始める。
それに気づいた真霜は、必死にその熱を払う為に首を振った。
彼女が真霜に遺した最後の言葉。
「自分の人生を生きる、か……。」
ゆっくりと揺れる白いカーテンを見つめながら、呟く真霜。
「やっぱり私には、まだ分かんないや……。」
自嘲気味に笑ってみせた真霜はベッドを下り、気だるいその手でベッドカーテンをゆっくりと開いた。
すると、向かいのベッドに椥叉が文庫本を読みながら座っていた。
その姿を見ただけで、真霜は息が止まる様な思いがした。
そしてほぼ同時に椥叉も、カーテンを開けた真霜に気付き、驚いた表情をした。
「ま、真霜……!」
まるで信じられないと言いたげな顔をしている。
「な、椥叉……?」
それは真霜も同じだった。
『もう起きて平気なの?』
真霜と椥叉は同時に同じ言葉を、目の前にいる相手に向かって言った。
「あ、ははは……。被っちゃった。ふふふ……。」
思わず笑いを漏らしたのは椥叉だった。
「椥叉?手術は……」
真霜は笑っている椥叉に向かって恐る恐る聞いた。
「この私を見れば分かるでしょ?それに私は大丈夫だって、言ったじゃん?」
そう言って、椥叉は真霜に向かって腕を伸ばし、ピースサインを作った。
「……大成功、だってさ!」
その言葉を聞き真霜は立っていられずに、その場に崩れ落ちた。
肩を震わせ、笑い声の様な、泣き声の様なものを出していた。
「あ、あぁ……。はは……。良かった、良かった……!椥叉!」
病室の床に小さい涙の粒が滴る。
「もう、大袈裟だってば。」
椥叉はフラフラとしながらベッドから下りて真霜に近づく。
「私なんかの事はいいよ、それより真霜は大丈夫なの……?」
崩れた真霜に合わせるように、彼女は固く冷たい病室の床に両ひざを付け、真霜の顔を覗き込むようにした。
「え?ど、どうして?私は別に……。」
「だって、私の手術の日からもう三日も経ってるんだよ?このまま起きなかったどうしようって……。」
椥叉は今にも泣き出しそうになっていた。
「み、三日も……?」
余りにも驚いて真霜はつい顔を上げた。
「そうだよ……。手術が終わって目を覚ましたら敷島さんが教えてくれたの。真霜が私のベッドの所で倒れてたんだって。」
「そ、そんなに……。」
真霜は心の海にいた時間こそ短く感じていた為に、到底信じられない思いだった。
「それで、もう大丈夫なの……?」
椥叉は酷く不安そうに尋ねる。
「……うん、大丈夫。」
そう言って真霜はゆっくりと立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
「ナヅハは……。」
窓枠に手をかけ、夏の色が掛かり始めた晴天の空を見上げる。
「もうきっと、話すことは出来ないと思う。……けどね?」
真霜は、同じく立ち上がった椥叉を振り返り、微笑んだ。
「きっと、私たちを見てくれていると思う。」
窓の隙間から流れ込んで病室の外へと抜けていく涼しげな風は、置いてあった椥叉の文庫本のページをほんの少しだけ進めた。
「……そっか。」
椥叉もまた微笑んだ。
彼女が交わした言葉こそ少なかったが、幾千もの思いを伝えてくれた永遠になった人を思った。
それから二週間後
「これでよしっと……。」
椥叉はベッドの上に、持ってきた荷物を詰め込んだ鞄を置き、日増しに強くなってきた日差しに思わず目を細める。
「椥叉さん、準備出来ました~?」
呑気な声で病室に顔を出したのは敷島だった。
「ええ、今終わったところです。」
「そう、じゃ行きましょう。お友達も待ってるわよ。」
だが、椥叉はその言葉に首を傾げた。
何故なら、彼女は真霜に退院の日を教えていなかったからだ。
「……?」
疑問を抱えながらも椥叉は鞄を持ち、敷島によって開けられた建付けの悪い扉から出ようとしたその時だった。
『しっかり、ね。』
「……え?」
一度立ち止まって病室を振り返ったが、そこにはただ、空のベッドが四つばかりあるだけだった。
「どうかしたの?椥叉さん?」
今度は敷島が、立ち止まった椥叉に首を傾げるが、椥叉は首を振る。
「いいえ、何でも。」
病院のロビーへ降りると、少し遠くの受付の前の椅子に座っている真霜がいた。
興味も無いようなニュース番組をひたすらに映し出しているテレビ画面を見つめている。
その時椥叉は、やけにニコニコしている敷島を見てなんとなく悟った。
「今日の事を教えたの、敷島さんですね……?」
ややうなだれながら椥叉は言った。
「え?どうしてわかったの?あなたはお母さん譲りで観察力があるのねぇ~。」
「もう……。真霜にこれ以上気を遣わせたくなかったから、言わなかったんですよ?言ったら絶対来ちゃうじゃないですか……。」
椥叉は唇を尖らせて不満そうにしていたが、敷島は穏やかに言った。
「あの子の場合は寧ろ、気を遣わせない様にすると怒るのよ。きっと信用されてないって思いこんじゃうのね。手術の時もそうだったでしょう?それともあなたは、真霜ちゃんに来て欲しくなかった?」
そう言われると椥叉は言葉を詰まらせたが、やがて少しだけ顔を赤くして、口を開いた。
「そりゃ、来てほしいですよ。大切な友達ですもん……。」
「でしょう?なら素直になった方がいいのよ。きっともうあなた達はそういう気遣いが無い方が、仲良くいられると思うわ。心当たりがあると思うけど?」
「……ええ、そうですね。ありがとうございます。」
椥叉の姿に気付くと、真霜が勢いよく立ち上がりズンズンと寄ってきた。
「ちょっと椥叉!どうして退院の日を教えてくれなかったのさ!」
頬を膨らませて真霜は怒っていた。
椥叉が苦笑いをしながら敷島を見ると、彼女はウィンクをしてみせた。
どうやら彼女の予言は的確に当たってしまったらしい。
「あはは、ごめんごめん……。」
「さて、椥叉さん。駅までタクシーを呼んであるから、使うといいわ。」
敷島はこっそりポケットから五千円札を取り出し、椥叉に差し出した。
「敷島さん、それまずいんじゃないの~?」
真霜は悪戯っぽい笑みを浮かべながらも、視線はその五千円札にくぎ付けになっている。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。」
椥叉は敷島の手をそっと押し返す。
「でも、今日はいつもより暑いわよ?」
敷島は目を丸くする。
「そうだよ椥叉ぁ~、冷房の効いてるタクシーに乗ろうよ~。お釣りで駅の自販機のアイス食べたいなぁ……。」
「え、真霜ちゃんも乗るつもりだったの……?というかあなた小ズルいわね。」
「敷島さんは、私だけ歩け、と言うんですか!?酷くない!?しかも真顔!辛辣!」
そんな二人のやりとりを見て、くすりと笑う椥叉。
「大丈夫です。今日”だから”、自分の足で歩きたいんです。」
「そ。あなたがそう言うなら分かったわ。気を付けてね。」
玄関口の自動ドアが開くと、夏の訪れを予感させる匂いが吹き込んできた。
椥叉は真霜の手を取って、彼女を引っ張る様にして外へ出た。
「わ、ちょ……椥叉!どうしたのさ?」
「ふふ……何でもない!」
二人は一緒に、病院の外への一歩を踏み出す。
遥か遠くまで深い青に染まり始めた空は、並んで歩く二人を真っ直ぐに見下ろしていた。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
4月から考えてはいましたが、物語の80%は8月に書いたものです。
本日は8月29日。中編小説は初めてでしたが、書いてて楽しかったです。
最後までお付き合いしてくださって、本当にありがとうございました。




