第22話「此方の愁嘆、彼方の激昂。」
彼女の中には空がある。
彼女の中には海がある。
水平線からやってくる喜びや悲しみは、海の中へ飲み込まれ、いつか空へ舞い上がることを求める。
彼女はいつも、そんな流転を独りで眺めた。
真霜は暗く、深い海の中にいた。
彼女は目を閉じてうずくまっている。
辺りには小さな欠片が無数に漂っていた。
触れれば怪我をしそうな程鋭い棘のようでもあり、
はたまた触れれば癒しが湧き出る泉のようでもあり、
触れれば壊れてしまいそうな程に繊細なガラスのようでもある。
そんな欠片。
「私は、何をしていたんだっけ?」
欠片と共に深海を漂う真霜は、思考を巡らせようとするが何も考えられそうになかった。
「私はどこにいるの?私は何をしてるの?」
そう口に出した時、目の前の欠片が淡い光を放った。
それに気づいた真霜は無意識に手を伸ばし、その欠片に慎重に、大事そうに触れる。
『ねぇ、・・・さん!これ買おうよ!』
コンビニの商品棚の前で、スモックを着た少女は、少し長身で茶髪をたなびかせる女性の服を引っ張っる。
『あんたねぇ?そんなの食べたらまた夕飯いらないとか言うんじゃないでしょうね?』
少女が手に持っている茶菓子を見て、女性はため息をつく。
『でもこれ、紅茶と合うかも!一緒に食べようよ!』
満面の笑顔をする少女に根負けしたように首を振り、女性は苦笑いした。
『全くもう……。今日は許してあげるわ、いつも赦すとは思わないこと。いいわね?』
二人は夕暮れの中を歩いていた。
どこかの敷地だろうか?
大きく、清潔感のある白い建物へと向かっている二人。
手を繋いで、女性は透き通るような声で歌っている。
『色の塗られた~愛~♪銀紙に~包まれ~て~♪捨てら~れた私の~記憶♪
私は~どこにいる?♪私は~な~にをする?♪当たり前の……』
その歌が聞こえてくると、欠片は輝きを失っていった。
「あれは、私?……じゃあ、あの人は?」
真霜はだんだんと意識がはっきりとし、近くにある様々な欠片に触れていった。
そしていくつか後に触れたのは、"あの記憶"。
『椥叉、真霜へ。』
"真霜"は朝食を食べていた。
いつも通りの朝食、いつも通りの制服、いつも通りの時間に家を出て学校へ向かう。
「おはよー!真霜!」
「あぁ、愛華。うん、おはよう~。」
"真霜"はのんびりとした声で挨拶を返す。
何もかもがいつも通り。
彼女自身以外は。
学校に着き、扉を開けると椥叉がちょうど教室から出ようとしていた所だった。
「あ、椥叉、おはよー。」
"真霜"は朗らかな笑みを見せそう言ったが、彼女を目にした椥叉は酷く驚いた表情をして、
「え、あ、うん。おはよう……。」
と、戸惑いながらも返す。
そしてすれ違いざま、"真霜"が小さな声で言った。
「放課後、あの階段で待ってて。」
椥叉が返事をする前に自分の席へ向かう"真霜"。
肩に少しかかるくらいの癖っ毛を少し揺らして歩く彼女は、椥叉にはいつも通りの"真霜"に見えた。
帰りのホームルーム後、椥叉は先に屋上へ続く階段に行き、ひとりで先に座って待っていた。
しばらくすると"真霜"が姿を見せ、階段の上の方に座る椥叉を見上げ、
「待たせたわね。」
と言った。
いつもの真霜よりずっと低めの声、冷たく感じる足音に椥叉は確信する。
「……ナヅハだよね?」
「ええ、そうよ。よく分かったわね。」
切って貼り付けたような笑顔を一度見せてから、ナヅハは階段を上り椥叉の隣で足を組んで座った。
「教室では分からなかったよ、真霜そっくりだった。」
「まぁ、七年は見てるもの。真似くらい出来るわ。」
ナヅハはやけに落ち着き払った声で言った。
「やっぱり、真霜は……?」
「まだ、まだあのまま沈んで帰って来てないわよ。」
椥叉の言葉を遮る様に、ハッと息を吐き、高圧的な口調で言うナヅハ。
椥叉が梓の手紙を、真霜に見せたあの日。
真霜はその場で気を失ったが、すぐにナヅハが入れ替わった。
『椥叉っ!あんたっ……!!』
今までにないほどに怒気を含んだ声で、ナヅハは椥叉に詰め寄ろうとした時丁度看護婦が来た。
『椥叉さん、さっき言い忘れてたわ。15時には先生の所へ行ってね。』
姿を見せたのは敷島だった。
もう7年は経つが、敷島は余り変わりがなかった。
『……っ!』
ナヅハは内心焦った。
『お友達?あ、あら……?もしかして真霜、ちゃん……?』
敷島は酷く驚いた様子で真霜を見つめていた。
ナヅハは知らないふりを通すか、覚えていると話をするかを迷った。
『げ、元気そうね?』
『え、えっと、はい。おかげさまで……。』
少しの間敷島は真霜を見ていたが、何も言わずにそこから立ち去った。
『……はぁ……。』
ナヅハは震えながら、大きくため息をついた。
その時、まだ手に握られていた手紙に気づいたナヅハは、
『……こんな、こんなもの……!!』
と手紙を握りつぶし、破り捨てようとしたがその手を止めた。
『はぁ……。返す、わ。』
ナヅハは椥叉を見もせずに手紙を私、病室から去ろうとする。
『ナ、ナヅハ!私は、どうすれば……!』
『何もしないで頂戴。なにひとつ、ね。』
その時に向けられたナヅハの凍り付くような視線を、椥叉は忘れられなかった。
「あのまま……。」
ナヅハに入れ替わった真霜を横目でチラリと見た後に、ナヅハの言葉の一部を繰り返した。
それっきりしばらくの間、二人の言葉がふっと止んでしまう。
しかし、ナヅハの激情がだんだんと表情に滲み始めていることに、椥叉は全く気付いていなかった。
そしてナヅハが勢いよく立ち上がる。
椥叉は雷が落ちたときの様に驚き、思わず身を固くした。
「そうよ……。真霜はあのまま……。あの手紙で……!」
拳は白くなるほどに硬く握られ、唇を噛んでいるナヅハ。
「どうして……。」
「え……?」
椥叉は恐る恐るといった様子で、座ったままナヅハを見上げる。
「……どうして!!どうしてあの子にあの手紙を見せたのよ!?」
ナヅハは激しい剣幕で言った。
「だ、だって、あれは……!」
椥叉が狼狽しナヅハから目をそらしたとき、ナヅハが椥叉の頬を思いきり引っ叩いた。
「……ッ!」
遠くで運動部の掛け声が聞こえてくるくらいの静かな踊り場に、頬をはたいた音は幾重にも響いた。
そしてナヅハは、座っている椥叉の胸倉を掴み、自分の目線の高さまで力任せに持ち上げる。
「あなた、あの子にどういう事をしたか分かってるの!?あの子は母親を亡くして病院に入ったわ。そこで抜け殻だったあの子を救ったのが他でもない梓だった!本当の母と娘だった!二度目の母を亡くしたのを10歳の女の子が受け入れられると思う!?」
ナヅハに瞳を覗き込まれ、椥叉はまばたきすらままならないほどに怯えていた。
「だから私が生まれた。そしてその頃の記憶を全て、記憶領域の深い深い海に閉じ込めた。もしあの子が梓の死を完全に思い出したらどうなると思う……?」
歯ぎしりをして俯くナヅハ。
「昔、あの時に受け入れられなかった記憶。七年もの間、大切だった人の死を見ないふりして、逃げて続けてきたという事実。私の存在しているという意味。それを全て目の前に突き出されることになるのよ!?それがどれだけ辛いか、あなたに分かる!? あの子の精神を破壊するには十分なのよ……?」
胸倉の手を離された椥叉は、呆然として崩れ落ちる。
「そん、な……。」
「人は正体の分からない物に対して、強い恐怖を抱くわ。七年間避けてきた大切な人の死。今蓋を開けることが、あの子にとってどれだけ恐ろしい事か……。そして開ける事でどうなってしまうか、予測も出来ない。まさかあなたが、あの手紙を持っているなんてね……。私の考えも甘かったわ……。」
ナヅハはもはや首を振って力なく笑うばかりだった。
もうここから先はナヅハでさえも干渉することが出来ない。
どうしようもなかった。
「こないだ言ったけれど、とにかくもうこの子には何もしないで、関わらないように。いいわね?」
ナヅハは俯いたままの椥叉を振り返ることなく階段を降りて、その場を去った。
「私だって、こんな事やりたかないわよ……。」
帰り道でナヅハは舌打ちをして、独り呟く。
家のドアの前に着いたとき、遠くから聞こえる救急車のサイレンの音に振り返る。
「やかましいわね……。」
やけにイライラしていてナヅハは、鍵を回す手が震えているのに気づいた。
「ど、どうしたのかしら……。私らしくもない……。」
その日の夜、ナヅハは気絶するかのように眠りに落ちたのだった。




