第21話「いのちの筆跡Ⅱ。」
真霜はベッドに座っていた。
「…………。」
梓の事を聞かされた時、真霜は表情を変えることなく、
「……そう、なんだ。」
と小さく呟いただけだった。
何も感じなかった。
そうであるが当然かのように真霜は思えた気がしていた。
梓の荷物を引き取りに、同じ顔が何度も出入りするのを、真霜は画面を隔てた出来事の様に眺めていた。
真霜はあの日、父親の家に一度戻っており、梓の死を知ったのは翌日学校から病院に来た時だった。
敷島からその話を聞く前に既に真霜はなんとなく悟っていた。
カーテンを開ける前に、何か空気が違うと。
暖かった雰囲気が消え去り、冷たい空気が病室に出入りしていたのを敏感に感じ取っていた。
今もカーテンを開け、ベッドに膝を抱えて座りながら、誰の物でもなくなった空っぽのベッドを見ている。
先ほど残っていた梓の紙パックの紅茶を勝手に取り、ストローを大きく鳴らした。
「おいしくない……、おかしいなぁ。こないだ飲んだ時はもっと味があったのに……。アズサさん、なんでこんなの好きなんだろう……?」
真霜の口から出てくる言葉は全く意図しないもので、勝手に流れ出ていた。
そして、冷え切った冬の石のように感情が全く無かった。
「なんで、いなくなっちゃったんだろう?」
理由を聞かされていない真霜はそう言った。
『またね!アズサさん!』
『じゃあね、真霜。』
今思えば、あの時既に梓は悟っていたのだろう、真霜が言った"また"が自分にもう来ないであろうことを。
梓は何故言わなかったのだろう?
何の覚悟も無しに、真霜が梓の死を受け入れる事が出来ると思ったのだろうか?
「どう、して……?」
梓がいなくなった今、考えても仕方ないことだと分かっているが、頭の中で渦巻く。
「壱、常に落ち着いて考えなさい。弐、慎重に行動しなさい。参、後悔するくらいなら……」
紙など見なくても真霜は口から出てくるほど『拾玖』が頭に、いや心に刻まれていた。
「ねぇアズサさん、私、まだ全部教えて貰ってないよ……。手助けしてくれるって言ったよね……?ねぇアズサさん、私はまだ……。」
しばらくして敷島が夕食の盆を運んできた。
「ま、真霜ちゃん……。」
思わず敷島は盆を取り落としそうになった。
なぜなら敷島が昼食を運んできてから約六時間、真霜の座っている場所、体勢、表情が何一つ変わっていなかったからである。
ただ梓のいないベッドを見つめ、時折何かを呟くばかり。
時間が止まっていたのかと錯覚するほどに何も変化が無かった。
「真霜ちゃん……。夕食は、食べてね?」
敷島は最早何も言う事すらかなわず、盆を置いて病室から出ていった。
誰にも見られぬよう、敷島は特別処置室へ入りドアを閉めた。
アズサが亡くなってから3日、当然敷島も彼女の死を受け入れられてはない。
唯一敷島に救いがあったとすれば、梓が中庭で眠っているのを最初に見つけたのが彼女だった事だろう。
梓の表情は、敷島が今まで見た中で最も穏やかであった。
病室で見せる笑顔とも、意地の悪いものでも、胸の鈍痛に苦しむものでも、何かを憂慮しているものでもなく、まるで何かから解かれたような、重荷を下ろしたような。
そんな表情で梓は眠っていた。
「約束、守ってないじゃないですか……。」
敷島は力の入らない手を壁につく。
「漫画の事、話してくれるって言ったじゃないですか……。」
そう口に出した時、敷島ははっとした。
『ええ、そうしなさい。私が……。』
あの時梓が一体何を言おうとしたのか、彼女が亡くなってから敷島は初めて分かった。。
『私が、生きている内にね。』
そう言われていれば敷島はきっと読んだだろう、後悔が無いようにと。
きっと梓は気を遣った。
冗談のような口調でも決して言ってはいけないと梓は思ったために、言葉を変えたのだ。
「そんなの、優しさじゃありませんよ……なんでもっと、強く言ってくれなかったんですか!?」
梓はその言動からは想像できないほどに、臆病だ。
梓自身が言ったように、彼女にとって敷島という女性は"本当に信用できる数少ない人の一人"であり、困らせてはいけないと思った人間の一人だったということだ。
「バカですよ、ホント……。」
敷島はひとり、誰にも見られずに声を殺して泣いた。
その頃、真霜はやはり夕食を取らず、まだ少しだけ荷物が残っている向かいのベッドを見ていた。
「そういえば、あの男の人……。」
梓の荷物を引き取りに来た時、梓の夫は座っている真霜に話しかけてきたのだ。
『真霜ちゃんって言ったかな?』
その言葉に真霜は彼を見ることなく、小さく頷いた。
何かを言おうとしては止め、やめようとしては口を開こうとするのを繰り返し、出た言葉が、
『真霜ちゃん、ありがとう。』
であった。
梓の夫は座っている少女に深々と頭を下げたのだった。
「なんで私にありがとう、なの……?」
照明をつけていない暗い病室に、月明かりが差した。
とその時、向かいベッドの下で何かが光った。
「?」
不思議に思って真霜はベッドから降り、その月明かりを反射しているものに手を伸ばした。
手を開いて見ると、それは小さな鍵で、ベッドに備え付けてある棚の、一番上の引き出しを開けるものだ。
この二日間、この鍵が使われたところを真霜はまだ見ていなかった。
少しばかり気が引けながらも真霜は鍵を差し込み、引き出しを開けると、そこには一枚の二つ折の紙が入っていた。
読もうとするが、部屋に入ってくる月明かりだけでは読めない。
電気のスイッチの場所も知らない真霜は病室の外へ出たのだが、病院の廊下を照らす照明は、彼女に嫌悪感を覚えさせた。
必要以上に煌々とし、自分を隅から隅まで照らし出されている様に感じて、真霜は逃げるように屋上へ向かった。
扉を開けると、そこは月明かりに満ちていた。
照らされているというより、雨の様に降り注ぐような光だった。
真霜は壁に背を預けるようにして座る。
「…………。」
真霜はためらうことなく、手紙を開いた。
『椥叉、真霜へ。
椥叉、真霜、ごめんね。
もっとあなた達と生きていたかった。
もっとあなた達を抱きしめてあげたかった。
もっとあなた達に色んな事を教えてあげたかった。
髪を切ってあげたかった。
ご飯を作ってあげたかった。
誕生日をお祝いしてあげたかった。
好きな人の話をしたり、時にはケンカもしたりして。
あなた達が苦しんでいることを一緒に悩んで、解決してあげたかった。
もっとあなた達と笑っていたかった。
もっとあなた達と歩いていきたかった。
これからのあなた達の行く末を、育っていく姿を見れないのが悔しくて、悲しい。
私はあなた達に、ちゃんとしたことを何もしてあげられなかった。
ごめんね。
でも、いつも独りだと思っていた私の人生の最期に、あなた達がいてくれて本当に嬉しかった。
ありがとう。
もう私は一緒にいられないけれど、いつまでも遥か遠い空から見ているわ。
だからお願いよ、生きて。
二人とも、大好きよ。
梓 』
その手紙の文字は読むのが難しいほどに崩れていた。
もう力が入らなかったのだろう、今までの梓の字とは余りにも違っていた。
「アズサさん、変な字だ!あはは!」
読み終わった真霜は上を見上げて大きな声で笑った。
しかし、どうしてだろうか?
彼女の視界に佇んでいる月がぼやけてくる。
「読め、ないじゃん!変な、字だから……!読め、ない………。」
受け入れられる訳が無い。
梓の死を、
自分を救ってくれた人の死を、
もう二度と、彼女と話が出来ないことを、
もう二度と、彼女と一緒に大好物の梨を食べられないことを、
もう二度と、自分の小さな手を、あの温かい手が包んでくれないことを。
まだ幼い真霜が、受け入れられるはずがなかった。
「嘘だよ、ヤダよ……。アズザざん……ナヅザざん………。」
鼻水で声が濁り、涙が手紙に落ちる。
「いやだよ、イヤだよ、嫌だ!まだナヅザざんいるもんっ!!うああぁ……!」
手紙をかき抱いて、真霜はたった独りの暗闇の世界で、大きな声で泣き叫んだ。
翌朝、真霜は浅い眠りの中にいた。
「…………なさい。」
「んむ……?」
「起きなさい?」
やけに聞き慣れた声が真霜を"目覚め"へと引き上げた。
「おはよう真霜。よく眠れたかしら?」




