第20話「涙に笑顔を。」
「むー。なんなのさぁ……?」
真霜は不機嫌な顔をして梓のベッドを横の椅子に座っていた。
「……一体どうしたってのよ?」
呆れ顔をして梓は尋ねる。
「だーってさぁ……。」
真霜は尚も頬を膨らませ、椅子を前後に揺らしている。
「はぁ……、とりあえず話してみなさいな。」
「……昨日学校行ってきたんだけどさ、周りのみんな誰も私と口きいてくれないの。先生もなんかやりにくそうにしてさ……。」
真霜は軽度の精神疾患を抱えたとされていたが、体調も上向きの為、外に出ることを許されていた。しかし新学期が始まってひと月で入院し、その後ふた月は入院していたせいか、クラスでの居場所が無いのだという。
「なーにさ。ヨっちゃんも、ソノちゃんも私の事避けちゃって。私別にあの子達には何もしてないのに。」
「あー、私も分かるわ、それ……。」
梓は苦い学生時代を回想する。
「気にするな、というのはあなたの年齢じゃ無理よね。まぁとにかく明るく話しかけてみなさいな。あなたが不気味じゃない事が分かれば少しは変わるかも、しれないわねぇ……。」
「むむぅうぅ~~~。」
更に頬を膨らませ不満をあらわにする真霜。とりあえず笑顔をつくっている梓だったが、この時既に彼女は予期していた。
これから真霜に起るであろうことを。
「もうヤダ……。行きたくない、どうせすぐ夏休みだもん意味ないもんねーだ……。」
数日後、真霜は灰雲を飲み込んだような暗い顔をし、拗ねた様子で梓の布団に突っ込んでいた。
「真霜、あなたの涙で濡らすのは自分の枕に留めておきなさい。」
と言いつつも梓は自分の膝にいる真霜の頭を撫でる。
「で?何があったの?」
「明るくしてたら"調子に乗ってる"って言われて虐められたぁ……。」
突っ伏したまま話す真霜。
「やっぱりそうなったかぁ……。みんなおかしいよぉ。」
「いい?真霜。この世の中で被害者はいつだって少数派よ。そして大半の人は被害者の気持ちなんて理解できないし、何より理解しようという意志が無いわ。」
少しばかり寂しげな表情を浮かべる梓。
「……どうして?」
そこで初めて、真霜は梓の膝の上から梓を見上げた。
「決まってるじゃない、自分には関係ないと思っているからよ。自分がいざ苦しい思いをした時に"どうして自分だけ不幸なの?"って怒って泣きわめく。汚れ仕事をさせられれば、"どうして私がこんな事を"って文句を垂れる。所詮この世の中、見えない誰かが顔も知らない人の尻拭いをして成り立っているわ。そしてそれが自分の番になるまでそんな人に感謝するどころか、見向きもしない。だって自分には関係ないと思っているんだもの。互いが互いを理解していない証拠ね。」
ため息をついて梓は言った。
「アズサさん、私はどうすればいいのかなぁ……?」
縋る様な目で真霜は梓を見る。
「正直に言ってしまえば、"自分で考えなさい"が一番手っ取り早いのだけれど、さすがにあなたの歳では難しいわね。せめてものアドバイスは"ブレずにいること"ね。」
「ブレずにいるって?」
真霜は理解できずに首を横に傾ける。
「そうね、簡単に意見を変えたりしない、信念を持つ、と言ったところかしら?」
「信念?信念……。あっ!」
ぱっと明るい顔を見せた真霜に、梓はつい嬉しくなって頷いていた。
真霜はこうして梓の哲学を理解する努力をし、頭に置いて生活をしていた。時々梓に自分の考えを話すようになっていった。
「んーと、だから、自信を持っても、油断しちゃいけないと思う!」
「なるほど、いい解釈じゃないかしら?二つの違いをしっかり考えた点がいいと思うわよ。」
「えへへ……。」
梓に認められるのが嬉しくて、真霜はニコニコしてしまう。
梓は夫から何度か電話を貰っていた。最近では、椥叉は泣くことが殆ど無くなったらしく、真霜と同様学校に頻繁に行けるようになっていった。彼女たちはしっかりと前を向いている。それは梓を喜ばせた。
「良かったわ。」
と梓が呟く。
「ん?どうしたの、梓さん?」
真霜はいつになく穏やかな表情をして微笑んでいた梓を覗き込む。
「ねぇ、真霜。」
梓は真霜ではなく、ベッドで体にかかっている布団を見つめながら優しい声を掛けた。
「んー?なぁに?」
「希望を見失わないようにね。
例え雲が空を覆って暗くなってきても、雨が滝みたいに降って濡れそぼっても、風が嵐になって大事なものを奪い去っても、雷が落ちてきてあなたを酷く傷つけたとしても、絶対に諦めちゃダメよ。いつだって光はあなたを照らしているわ。朝が来ない夜が無いように、晴れが来ない空も無いのよ。」
梓は膝の上に頭を乗っけてきた真霜を撫でる。
「分かった?」
「…………。」
真霜はしばらく黙って梓を見上げていたが、
「うん!絶対諦めない!途中で投げ出したりしない!」
と笑って言った。
「約束よ?」
「うん!約束!」
梓の細い小指と真霜の小さな小指が絡み合う。
「いい子ね、精一杯やりなさいね。」
「?……う、うん!」
真霜は頷くと病室から出て行く。
「アズサさん!またね!」
「じゃあね、真霜。」
梓は真霜が病室から出て行ったのを見届けると、よろめいた。
「書かなきゃ……。」
しばらくの間、一人になった梓は紙に鉛筆を走らせていたが、やがてそれも止まった。
「……。」
梓は紙を引き出しにしまい立ち上がろうとしたとき、再びよろめき、床に手をついた。
「……っ!」
力が入らない身体をなんとか起こし、立ち上がる。買い置きの紙パックの紅茶を手に取って、フラフラと病室から出た。目指す場所への道のりが、梓には三か月前の十倍にも感じられた。
「今日が晴れで、良かったわ。」
やってきたのは中庭の大木の下のベンチ。大きいな木の葉は風に揺れ、擦れ合う音が聞こえる。陽が葉の間から差し込み、ゆっくりと座った梓の長い茶髪に光を落とす。
「そういえば、真霜と会ったのもここだったわね。」
つい数ヶ月前の出来事を遠い過去を回想するように、中庭を見渡す。ここまで歩いてきた梓の身体は疲れ果て、心臓は焦る様に脈打っていた。
「もう、いいのに……。」
と梓は呟いた。
「やれることは、やったわよね?」
力の入らない手で紙パックにストローを差し、鳴らす。
最近、梓は同じ夢を見ていた。とても小さな子供二人と手を繋いで歩いている夢を。歩いている途中で、梓は突然足が止まり、子供たちと手が離れてしまう。足元を見てみれば、黒い泥のような物が梓の足にまとわりついている。その黒い塊は、徐々に梓の身体を、しかし着実に蝕んでくる。片方の子供は止まってしまった梓を振り返り、座り込んでしまう。しかし、もう片方の子供が彼女の手を取って先へ進んでいく。いつしか梓の声さえも彼女たちには届かなくなり、視界が真っ暗に染まったところでいつも目が覚める。白いベッドの上で目を覚ます梓はいつも息が荒く、心臓が痛いほどに脈打っていた。
梓自身が言ったように、やれることはやったという思いがあった。大切な二人が前を向き、自分の足で進み始めた。梓は自分を過大評価しているつもりはなかったが、自分という存在が真霜と椥叉にとって、少なからぬ影響を与えているという自覚はあった。真霜が母を亡くし空っぽになっていた時に自分と出会い、自分なりの勇気を出して努力をし、前へ進もうとしている。椥叉も泣き虫で、母がいなければ何もできない様な子であったが、互いの思いをちゃんと伝え、今では強くあろうとしている。そんな二人を見ることが出来たからこそ、梓はやれることはやったと思えたのだ。
しかし、不安が無い訳ではない。
「この後、ね……。」
この後。梓が大きな影響を与えたが故の不安。
「アレで事足りるといいけれど……。」
虎は死して皮を留め人は死して名を残す、と言ったのは誰であったか。梓は自身の名を残すことには興味がない。誰が考えたかなど覚えていなくても、知らなくてもいい。だが、自らの生きた"証"をあの二人には覚えておいて欲しかった、知っていて欲しかった。
三十年という世間からみれば余りにも短い生の中でも、梓は誇りを持って生き抜いてきた。何度泣いただろう?何度唇を噛んだだろう?自分は長く生きることが出来ない、ならば今死んでもどうせ変わりはしないと、そんな苦悩を何度抱えては振り払っただろう?そんな梓が出した答え。"生の意味を問い続けてきた"梓が出した答え。
それこそが、『拾玖』だった。
自分の出した答えには微塵の疑いもない。
「でも、そんな物を押し付けられたら、たまったものじゃないわね……。」
自分の人生が全て詰まったものを覚えておいてほしいという願いは、名前を残したいという欲よりよっぽど傲慢ではないかと、梓は力なく笑う。
「私だったら嫌ね。そんなものを背負うのは。」
しかし自分がいなくなった後に、それを手放すかどうかは彼女たちで決める事だ。きっと自分の不安は、それを彼女たちが決める時にこそ、どうなるか分かるのだろう。だから自分の願いはそこまででいい。ほんの少しの間だけ。辛い思いをしてきた彼女たちは、その先にある光が普通の人よりも輝いて見える事だろう。だから、自分という存在が結果として、彼女たちを照らす光を遮ってはならない。長い雨を降らせてはならない。彼女たちの人生は他でもない彼女たちの物なのだから。
「私は、あの子達と、一緒に歩いていけない……。」
当然のことが、ぽつりと、梓の口をついて出た。そんな、分かり切っている当たり前のことを口に出した途端、梓の視界が滲んできた。あの夢の様に、自分だけはここで立ち止まり、飲み込まれ、彼女たちは前へと歩いていく。
「やっぱり、少し、淋しいわよ……。」
梓の、二人の背中を見つめていた瞳から涙が溢れだす。叶わぬ想いが、実現してしまうであろう夢が、梓に涙を流させる。しかし、梓は悲しいと同時にこれ以上ない嬉しさがあった。以前の梓であれば、自らの人生に後悔はないと強がって見せることだろう。椥叉という心残りがあるにせよ、彼女をないがしろにしてしまったという感情が彼女の先を思う事ではなく、ただの罪悪感として残っただけだったろう。しかし、今こうしてだんだんと、呼吸がゆっくりになっていく梓は、かつての彼女とはまるで違っていた。
一緒に”行けない”という悲しさは、一緒に"生きたい"と思える人が梓に出来たという証だから。梓はいつだって人とは違うが故に煙たがられ、厭世的になっては、自分は”普通”の人より不幸なのだと、”普通”を憎み、”普通”を羨んだ。
「何が不幸よ。私はもう、独りじゃなかった。よっぽど幸せね……。」
穏やかな昼下がりの陽の光に包まれながら、梓の意識は遠のいていく。
「ありがとう。」
紙パックの紅茶が地面に落ちた。梓の頬には涙の跡があったが、彼女が最期に見せたのは笑顔だった
梓の温もりは彼女の哲学の中でのみ永遠となった。
……




