第18話「伝えたいこと。」
「椥叉!」
梓は病院の中を駆け回っていた。
「梓!何をしているんだ!寝てなきゃ……!」
「大丈夫よ!それより椥叉はどこ!?」
髪をふり乱し、夫の肩に掴みかかる。
「あ、あそこに……。」
夫が指差した先に椥叉はいた。あの木陰のベンチに座っていた。
「ここで待っていて。」
梓は夫のそう言うと、椥叉のもとへ歩み寄っていった。母親が近づいてくるのに気づいた椥叉は顔を背ける。
「……。」
椥叉は黙ったままベンチに座っている。梓も黙ったまま椥叉の左隣に座った。走り回ってせいで荒くなっていた息をなんとか落ち着けていく。真霜が眠った後、梓は彼女を自分のベッドに寝かせて、椥叉を探していたのだった。
「ふぅ……はぁ……!」
梓は顔を歪めて胸を抑える。強い痛みを感じるが、真霜の"あの表情"がよみがえる。
「ねぇ、椥叉。お母さんのこと、嫌い?」
息を整えた梓は静かに、そして穏やかに聞いた。
「……うん。」
梓から顔を背けたまま椥叉は返事をした。
「そっかぁ、そうだよね。私は椥叉を置いてここに来ちゃったもんね。」
「……うん。」
しばし沈黙が流れ、風に揺れている木の葉の擦れる音ばかりが聞こえる。
「お母さん、ずっと病院にいて、私のところにいてくれないんだもん。だから嫌い……。」
椥叉は、ベンチから地面に届いていない足を揺らめかせる。
「そうだね、お母さんは身体が凄く弱いわ。だから椥叉が生まれる前も、後も病院にいることが多かったわね。私の人生の舞台の半分は病院ね。」
梓は眉をハの字にして笑って見せる。
「……淋しくないの?」
水面に一滴の雫が落ちるような小さな声で、椥叉は尋ねる。
「お母さんはなんで平気そうなの?病院なんて怖くて、冷たくて……。一人で淋しくないの?」
背けていた顔を梓に向けた。
「そうね、勿論淋しいわよ?あなたの言う通り、怖いし、冷たい。他の患者さんとも余り話すこともない。でもそれは些細なことに過ぎないわ。何よりも……」
苦笑いをして椥叉を見る梓。
「椥叉、あなたに会えないのが一番淋しいのよ。」
梓は椥叉の頭に優しく手を置く。細くなり、小刻みに震える手は、娘に母親の衰弱を予感させるのは十分過ぎた。
「お母さんは、私の事嫌いなんじゃないの?だから一緒にいてくれないんじゃないの?」
「そんな訳ないじゃない。私はあなたが大好きよ?でも、私の都合であなたを振り回すわけにはいかない。」
椥叉は思わず目が泳ぐ。
「お母さん……私……お母さんに、酷いこ―」
何かを言おうとした椥叉の唇に梓は人差し指を当てた。
「椥叉、あなたはとてもいい子よ……。私の自慢の娘。愛しているわ。」
梓がそう言うと、椥叉は耐えられず母親に抱き付く。
「ごめんなさい……。嫌いとか言ってごめんなさい……!私もお母さんが好き……!大好き……!」
椥叉は肩を震わせていた。
「いいのよ。私こそあなたの事を分かってあげられなくてごめんね。あーほらほら、泣かないの。私の娘は強くありなさい。」
椥叉の涙を拭ってやり、あの封筒を取り出した。
「……、なに、これ?」
渡された封筒と梓の顔を交互に見る椥叉。
「これはね、私の思いを全部込めたものよ。これを読んで、理解して、実行してごらんなさい。もしあなたがこの意味をちゃんと理解してくれたなら、お母さんがあなたに言うことは何も無いわ。いつか、これの意味を理解したあなたと話がしてみたいわ。」
梓は封筒を持つ椥叉の手を両の手のひらで包み込む。椥叉は鼻水をすすり、強く頷いた。椥叉は封筒から手紙を取り出し、読み始めた。
『椥叉へ。いつも迷惑をかけて本当にごめんなさい。
あなたを助けてあげることも、もう出来ないかもしれません。
だから、私が伝えておくべきことをここに全て書いておきます。
この手紙の内容そのものを私だと思いなさい。
"拾玖"
……』
しばらく睨めっこをして読んでいたが、やはり椥叉が理解するには苦労しそうであった。
「まだ分からなくてもいいわ。けど、これは忘れちゃだめよ。」
そう言って梓は立ち上がり、椥叉の前でしゃがみ込み、
椥叉の頭に手を当て、「頭でちゃんと考えて、」と言い、
椥叉の胸に手を当て、「心でしっかり決めて、」と言い、
椥叉の足に手を当て、「足で前へ進みなさい。」と言った。
「頭で考えて、心で決めて、足で進む。」
椥叉は自分の身体を触りながら繰り返す。
「そう、それでいいわ。」
そう言って梓はしゃがんだまま背を向ける。
「ほら、乗りなさい。」
すると椥叉は飛びつくようにしておんぶをしてもらう。病室に戻るまでの間に、椥叉は疲れたのか眠ってしまった。
「全く、真霜といい椥叉といい、人の背中やら腕で眠りこけちゃってまぁ……。」
ため息をつきつつも、梓はどことなく嬉しそうな表情をしていた。
「梓……少し変わったな…。」
と、夫は心の中で感じていた。
言葉で表すのは難しいが、厳しい事を言っても本当の優しさを、子供でも感じることが出来るような、そんな雰囲気に変わっていた。
「あの、真霜、って子のお陰なのかもな……。」
梓から真霜が泣いて話してくれたことを聞き、そう感じた。
「僕からもありがとうと伝えておいてくれ。」
と、梓に言い残し、梓の夫と眠ったままの椥叉は帰って行った。
梓は二人を見送った後、自分のベッドで寝ている真霜の隣に座っていた。
「ふぁ~。疲れたわね…。ん……ゲホッ!」
席を抑えた手を見て、梓は顔をしかめる。
「また、か……。」
真霜を起こさぬように病室を出たところで、敷島に出くわした。
「梓さん……。大変でしたね……って、うわっ!」
梓を見た敷島が素っ頓狂な声を上げる。
「しーっ!真霜がまだ寝てるのよ!大きな声を出さないで頂戴!」
血が付いた手の人差し指をたてる梓。
「じゃ、じゃあこっちに……。」
「悪いわね、手間を取らせて。」
受付から離れた"特別処置室"のベッドに、点滴をされている梓は横になっていた。
「構いませんよ、仕事も少し余裕が出て来ましたしね。」
「あら?ドジをやって仕事減らされたりでもしたの?」
「た、性質の悪い冗談は勘弁してくださいよ……。」
苦笑いをする敷島。
「あら図星?ビックリ。」
「それより、今日は大変でしたね。」
「知ってたのね……。」
「そりゃ大騒ぎでしたから。」
椥叉の大声、梓の怒号、真霜の泣き声を敷島は思い出していた。受付にいた敷島は今までに聞いたことのない梓の声を聞き、真っ青になって飛んで行った。しかし、着いたときには真霜が泣きながら母親の事を話しており、足が止まってしまった。
「真霜ちゃんがまさかあんなことを言うなんて……。」
点滴の量を確認しながら敷島が言う。
「そうね……。私も本当に驚いた、あの子にも分かるくらい取り乱しちゃって、いい年して泣いたわよ。」
自嘲気味に笑う梓だったが、敷島は笑えていない。
「あの子が、私と椥叉の為にあんなに必死になってくれるなんて思いもしなかったけど、あの子のお陰で、後悔せずに済んだわ。感謝しなきゃね……。」
梓は自分の背中で安らかに眠っていた椥叉の顔を思い出していた。
「梓さん、お気持ちは分かりますけど、無茶はなさらないでください。その……。」
敷島は言いづらそうにして俯く。
「そうね、確かにまさに"寿命が縮む"思いね。」
梓はため息をつく。
「でもね、やるべきことをやらず、残すべきものを残さず手にした命なんて私には何の意味もない。娘や、私たちを助けてくれた真霜の為なら、残りの命が何年だろうと関係ない。どれだけ絶望的だとしても、諦めも、立ち止まりもしないわ。出来ることをやって、あの子たちに残せるものを残すだけ。それが私よ。」
梓の瞳は敷島をまっすぐに見据えていた。
「……分かりました。けど、本当にお願いしますよ。」
冷たい表情で返事をして敷島はドアへと向かい、
「漫画の約束は、守ってもらいますからね。」
と、呟いた。
「え?何ですって?」
「なんでもないです!終わったら呼んで下さいっ!」
敷島は鼻息を荒くして出て行った。
「分かってるわよ……。」
独りになった梓はふっと息を吐く。点滴の薬は、音もなく管の中を伝っていた。




