42.満月の夜
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「うぅ……頭がくらくらする……」
貧血に似た不快な浮遊感を堪えながら、私は民家の屋根の上で煙突に背中を預け、遠目に見えるカーマイン本邸を見つめた。
孤児院からここまで、【兎の跳躍】でやって来た。町外れからも街道沿いの木や丘を足場にして跳び続けたせいで、体力的にも魔力的にもくたくただ。以前ラパンが、この魔法は魔力の消耗が大きいと言っていた意味がよく分かった。あの時それほど疲弊しなかったのは、ラパンがその大部分を担ってくれていたからだと、今更ながらに気がついた。
動きやすいよう、学校の制服は脱いで、孤児院で借りたズボンに着替えている。
「お屋敷はまだ静かね……」
太陽は少し前に沈み、辺りはすっかり夜の顔になった。ラパンが動き出すとしたら、レオン様が自室に下がったと見せかけて動き出せる時間になる、これからだろう。
今はこれ以上近付けない。動きがあるまで、ここでじっと様子を窺いながら休憩しよう。
エドワードに用意してもらった荷物の中から、チョコチップクッキーを取り出して齧り付いた。甘いものは、魔力の回復を促進するのだとコラン先生は言っていた。
変化が起きたのは、それから小一時間ほど経った頃だった。鋭い警笛のような音が鳴り響いたかと思えば、屋敷を取り囲んで灯っていた魔法の光が、屋敷の一部に向かって慌ただしく動き始めた。
「始まっちゃった……」
震える指先をぎゅっと握りしめて、深呼吸を繰り返す。それから、荷物の底からベージュのマントと飾り気のない仮面を取り出した。孤児院にあった物を借りたので、ラパンのものとはデザインは違う。でもこの際、そんなことはどうでもいい。
私はそれらを身につけると、魔法式を唱えた。
「【彩色の変幻】」
金の髪、マント、仮面……私が纏う全てが、真っ白に染まっていく。
コラン先生の授業と、魔法書を読む自由を得たお陰で、私が使える魔法は随分と増えた。特にラパンが使っていた魔法は、私も使えるようになりたくてたくさん練習したのだ。
「本物より一回り小さいけど、遠目に見ればラパンに見えなくもないよね」
私はふらつく頭を軽く振ると、カーマイン本邸を見据え、満月の浮かぶ夜空へと跳んだ。
屋根から屋根へと跳び移るうち、眼下に魔法の光が集まってきた。
「っ! いたぞ! ラパンだ!」
野太い声が、一斉に私に向けて上がる。
狙いは、一人でも多くの警備を本物から引き離すこと。この中にいるかもしれないユリウス様を引き離せれば一番いいのだが、ゆっくり顔を確かめている余裕はない。
「【氷の矢】!」
「【炎の矢】!」
騎士団が放った氷と炎の矢が、闇夜を切り裂いて私に迫る。宙に身を投げたまま、魔法式を唱えた。
「【光輪の盾】!」
幾重にも重なる光の盾が私の周囲に展開し、矢を残らず弾き落とす。
怖い。屋根に着地した膝が、ガクガクと震えている。それでも、ここで止まるわけにはいかない。彼らと戦うわけじゃない。私はただ、囮になって逃げるだけでいい。
「ラパンはこっちだ! 絶対に逃すな!」
騎士団とカーマイン侯爵の私兵たちが、屋敷の中からも次々と飛び出してきた。十分に引き付けてから、屋根を蹴る。
「逃げるぞ! 追え!」
背後から飛んでくる魔法を躱しながら、私は市街地へと向かった。
屋根を伝い、路地裏を走り、物陰に身を潜め、追っ手を一人、また一人と振り切りながら、屋敷から遠ざけていく。縦横無尽に街を駆け抜けて、最後は魔法を解き、マントと仮面を鞄に押し込んで酒場の客に紛れた。
「……坊や。ここはミルクを飲む場所じゃねぇぞ」
カウンターの向こうで、店主が訝しげに眉を顰める。
「十八だよ、子供じゃない。この店で一番美味しいお酒をちょうだい」
短い髪とズボン姿のせいで少年だと思われたらしいが、好都合だ。釣りはいらないという意味を込めて金貨を一枚置き、カウンターの隅で、名前も知らないお酒のグラスを受け取った。
それと同時に、店の入り口から騎士団が入って来る。
「お楽しみの最中、申し訳ない。怪しい奴は見なかったか?」
店主はちらりと私と金貨に目線を向け、それから首を横に振った。
「もっと具体的に言ってくれなきゃわかんねぇが、少なくとも白ずくめの怪盗なら見てねぇな」
「……邪魔をしたな」
騎士団が出て行くのを見届けてから、一口も飲んでいないグラスを残して、私もそっと裏口から店を抜けた。
これで、大多数の警備は撹乱できたはず。後は、レオン様が無事に仕事を終えて、自室に戻れていればひとまず安心だ。
見知らぬ街を無闇に走り回ったせいで、ここがどこかもわからない。時間が遅いせいもあるが、繁華街からは離れた、人通りのない寂しい通りだった。
一度カーマイン本邸へ様子を見に戻ってみようかと思い、方角を確かめようと辺りを見回した時――頭上を跳ねる影を見た。
「ラパン……!?」
なんでまだ、こんな場所にいるのか。その答えは、彼のすぐ後を追う人影を見て、嫌でも分かった。
「ユリウス様……」
一瞬しか見えなかったけれど、間違いない。私服姿のユリウス様だ。見える範囲に、他の騎士や私兵はいない。
どうしよう。どうしよう、どうしよう……!
打開策など思いつかない。けれど足は勝手に、彼らの後を追って走り出していた。




