32.手紙
「……何だと?」
「私はもう子供ではありませんので、これからは一人で生きていけます。もし少しでも温情がおありでしたら、いくらかの支度金をお恵みください。なければ、それでも結構です」
ママの形見と、あの日記さえあれば十分だ。もう、この家に留まる理由はない。
「馬鹿なことを。私の元を離れて、どうやって生きていくつもりだ」
「ママは、貴方の元を離れて立派に生きていました。結果、早くに亡くなりましたけど」
「っ!」
父の顔色が明らかに変わった。これは――怒りだ。
「自業自得だろう! 彼女が……エリザ自身が選んだ道だ!」
「貴方にとってはただの遊び相手だったかもしれませんが、ママは貴方を本当に愛していました! それを貴方が突き放し、捨てたんじゃないですか!」
ママの日記が、頭の中に蘇る。あれから何度も何度も読み返した。私との日常の間に挟まれる、父への激しい憎しみ。そしてどれだけ父を愛していたか、幸せだった日々への追憶――その言葉の数々を思い出し、私の中にママの想いが重なった。
「お腹の中に子供がいたことも伝えられず、あんな冷たい手紙一枚だけ寄越して僻地へ追いやったくせに!」
「……手紙だと?」
「それすらもお忘れですか!? ママは――」
「待ちなさい、リタ! 手紙とは何だ? 私がエリザを僻地へ追いやったとは、どういうことだ!?」
私は父の目を見上げる。先ほど見えた怒りはすっかり消え失せ、狼狽していた。
「……お父様が、ママにあてた手紙です。自分は結婚するから、もう二度と現れるなって……」
「私はそんな手紙を書いた覚えはない!」
父は声を荒げ、自分の髪を掻きむしる。
「逆だ! エリザが私を捨てたんだ! 私は、エリザと二人で逃げる約束をした。しかし決行の日、彼女は約束の場所に現れなかった。代わりに来た女が、エリザの手紙を私に渡したんだ」
「ママの手紙?」
「そうだ。そこには、やはり一緒にはなれないと書いてあった。平民である自分のことは忘れ、領主として生きて欲しいと。もう二度と、私には会いたくないとはっきりと書いてあった! 私はあんなにもエリザを愛していたのに……私を裏切ったのは、彼女の方ではないか!」
訳がわからない。ママの日記と、父の言葉がまるで噛み合っていない。しかし父が嘘をついているようにも見えなかった。
「日記を……ママの日記を、持ってきます」
私は屋根裏部屋へ上がり、今度こそ誰にも見つからないようにと、床板を一枚外した奥に隠しておいたママの形見と日記を持って、書斎に戻った。
「何なんだ、これは……」
手紙に目を通した父は、愕然とした様子で暫く呆然としていた。そして机から適当な書類を一枚取り出すと、それと手紙を私の前に並べて見せる。
「これは私の筆跡ではない。明らかに、別人が書いたものだ」
「そう……ですね……」
一体どういう事だろう。じっと二枚の紙の文字を見比べていた私の前で、父は深い息を吐いた。
「当時、エリザからの手紙は怒りに任せて破り捨ててしまったが……もしかしたら、同じ人物が書いたものかもしれない」
「それって……?」
「……こうなると、心当たりはある。だが、しかし……」
父は眉間に深い皺を寄せ、既にぐしゃぐしゃになった髪を更に掻き乱す。そうしながら、ママの日記に目を通していった。
最初のページに綴られているのは、私が生まれた日のことだ。この喜びを父と一緒に感じたかったと、私への愛情と共に父への恋しさが記されている。
ゆっくりと、ゆっくりと、父はページを捲っていく。やがて、その手がぴたりと止まった。
「エリザは……最期まで、私を恨んでいたか? 憎みながら、死んでいったのか?」
「……いいえ」
私は首を横に振る。ママとの思い出は薄れてしまったけれど、最期だけは鮮明に覚えていた。
「愛していると……最期は私ではなく、貴方の名前を呼んでいました」
だから私は、ブロックス家へ来たのだ。ママが愛した人なら大丈夫だと、そう信じて。なのに父は私を見ようともしなかった。ママのことも、一切訊かなかった。
父は日記を机に置いて、床に両膝をついた。そして額が床につくほど、深く頭を下げる。
「申し訳ない……! 本当に、申し訳ないことをした……!」
父の声は、震えていた。
「お前を初めて見た時、私は引き取ったことを後悔した。お前はあまりにも、エリザにそっくりだったからだ」
「ママに……」
「成長していくにつれ、私はお前の顔を見ることができなくなっていった。彼女の裏切りを未だに許せない激しい怒りと、同時にあの時抱いていた愛しさが蘇ってきて、どうしようもなく……苦しかった……!」
激しい怒りと愛しさ――それはきっと、ママと同じ感情だ。
「これだけは信じてほしい。私が今でも愛しているのは、お前の母……エリザだけだ!」
「じゃあ、お義母様は? どうしてあの人と結婚したんですか?」
「違う! 違うんだ……!」
父は涙で濡れた顔を上げる。
「マクシーネとは、親同士が勝手に決めた婚約関係だった。政略結婚など珍しくもないが、私は長年、受け入れられないと突っぱねていた。私には、エリザがいたからだ」
「でも……」
「取引先の花売りの娘だった。一目で、私は恋に落ちた」
父の目が、私の短い髪の間で光るイヤリングに向けられた。
「そのイヤリングは、私がエリザに贈ったものだ。この指輪も、ブローチも」
「ママは、すごく大事にしていました」
「……ある社交界の夜、私は珍しくひどく酒に酔った。それほど飲んだ覚えもないのに酩酊するほどで、マクシーネが私を屋敷まで連れて帰ったそうだ。その夜に……」
父は言葉を濁したが、察しはついた。
「数ヶ月後に、子供ができたと告げられた。責任を取れと両家に迫られたが、私にはその夜の記憶がない。酩酊していたとは言え、そんなことをするとは思えなかった。だから私は、エリザと逃げることを選んだのだ」
しかしママは、約束の場所に行かなかった――
「世間ではお前は、私が不貞を働いた末に出来た子供だと言われているが、それは違う。マクシーネと結婚したのは、エリザが去った後だ。その時には既に、マクシーネのお腹にはアリアナが、エリザのお腹にはお前が、それぞれ宿っていた」
父の話を信じるのなら、第三者の介入があったとしか思えない。それはきっと、義母との結婚を進めたい誰かだ。
「……時間をくれないか。お前を寮にやるのは、追い出したいからではない。暫くこの家は荒れる。これ以上、お前に辛い思いをさせたくないだけだ」
真相を知らないまま、出て行くわけにはいかない。私は、小さく頷いた。




