25.床下の箱
――街外れまで来ると、飛び移れる屋根がなくなった。ラパンは牧場から馬を一頭こっそり借り受け、私を後ろに乗せて街道を駆けた。
「……あった」
ブロックス邸のある街よりも、ずっと静けさの深い小さな村の外れ。私の記憶は頼りないものだったけれど、目の前にあるこの家は、記憶の中のそれとそっくり同じだった。
人の出入りは、もうずっとなかったのだろう。屋根の一部は崩れ落ち、壁や柱の木部は腐食が進んでいる。中の様子も想像に難くない。
「箱があったのは?」
「二階の寝室の床よ」
「正面から入るのは危険だから、リタはここで待っていて」
そう言うとラパンは、明かりの魔法を手にしてゆっくりと宙へ浮かび上がる。二階の割れた窓から中へ入り、程なくして戻ってきた。
「これで合ってる?」
ラパンが脇に抱えていたのは、一抱えほどの四角い箱だった。正面に鍵穴がある。
私はブローチから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。ゆっくりと回すと、カチリと音を立てて開いた。
「なんだか、緊張する……」
ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、蓋を開ける。箱の中にあったのは――一冊の本だった。
「……日記だ」
「お母様の?」
「うん」
変色して黄ばんだ紙に、日付と数行の出来事が記されている。毎日ではなく、一行だけの日もあった。
『リタが誕生日に綺麗な石をプレゼントしてくれた』
『今日はいい天気』
『リタが熱を出した』
ほんの些細な、日常の記録。そこに確かにママが生きていた息遣いを感じて、喉がぎゅっと苦しくなる。
「リタ、大丈夫?」
「うん。ふふ……人の日記を勝手に見るのって、本当は良くないよね。でも、きっと全部覚えるくらい何度も読み返しちゃうと思う」
パラパラとページを捲っていると、やけに乱れた筆跡のページを見つけた。そこに綴られた内容に、思わず息を呑む。
『嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき……愛していると言ったくせに。一緒に生きていくと約束したくせに。最後に顔も見せずに、私を捨てたあの人が憎い。許せない。嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき』
「……ブロックス伯爵のことだろうか」
激しい憎しみを込めて書き殴られたページに、ラパンも顔を歪めた。
「多分……そうだと思う。一度『私のパパはどこにいるの?』って訊いたことがあるんだけど、教えてくれなかったし……その後暫く、精神的に不安定になったことがあったの」
「この封筒は?」
ページの間に、白い封筒が挟まっていた。一度ぐしゃぐしゃに握りつぶし、また開いたような跡がある。封筒の中には、やはりぐしゃぐしゃになった手紙が入っていた。その文字を目で追う。
「……非道い……」
差出人は、父だった。
自分はベルナール子爵の娘を心から愛している。平民との戯れはこれで終わりにする。貴族の名に傷を付けたくないので、以後二度と自分の前に現れるな。約束できるのなら、住む家だけは用意する――そのような内容だった。
「……リタについての記載がないね。もしかして伯爵は、お母様がリタを身籠っていたことをご存知なかった?」
「ママが亡くなる直前、お父様に手紙を出したの。その時初めて知ったみたいだった」
「リタは伯爵と、お母様の話をしたことは?」
「ほとんどないわ。お父様は私の顔も見たがらないし……捨てた遊び相手のことなんて、興味もないんじゃないかな」
ラパンはふっと短く息を吐き、私の頭に手を置いた。
「夜が明ける前に、帰ろう」
「……うん」
手紙を再び日記に挟み込み、私たちは元来た道を辿った。借りた馬も、忘れずに返した。
「ねぇ、ラパン。次はいつ会える?」
ブロックス邸を臨む屋根の上で、私は尋ねた。答えは聞かなくても、わかっていたのだけれど。
「あの事故に関わった悪い人たちは、あれで全部でしょ? もう怪盗なんて、続ける必要ないよね?」
「……まだ、終わっていないよ」
「あ、建設会社だ! でも、あの会社だってもう――」
「私の一件目の犯行はカールズ子爵だと言われているけれど、本当は違う。一件目は、あの建設会社の社長だよ」
ラパンは、白味を帯び始めた遠くの空を見ながら続けた。
「不正を知った私は、匿名で社長に証拠を突き付けた。公表されたくなければ自首しろ、とね。けれど彼は動かなかった。やむを得ず騎士団に同じ証拠を送ったけれど、揉み消されたんだ」
「揉み消された?」
「レスター伯爵の力が動いたんだろうね。騎士団に訴えても変わらないから、私は世論を動かすことにした」
予告状という派手な演出、白装束という派手な衣装。そんな怪盗が盗みに入るとなると、否応なく世間はラパンという存在を認知していく。そしてラパンに興味を持った人々が、被害者たちの共通点を調べ始めた。中でも民間の記者は、いち早く事故の不正を嗅ぎつけたのだった。
「これだけ世間は彼らの不正を知っているのに、まだ彼らに正式な罰は下されていない。どうしてだかわかるかい?」
「確実な証拠が……ないから?」
ラパンは小さく首を横に振る。
「この状況でも尚、真実を握り潰そうとしている奴がいるんだよ。私利私欲のために多くの犠牲を生んだ、そんな奴らを守ろうとする奴がね」
「そんな……」
「リタも孤児院の子供たちに会っただろう。罪のない、あの無垢な笑顔を見ただろう。あの子たちは今も尚、夜になると声を殺して泣いているんだ」
淡々と語るラパンの言葉には、静かな怒りが滲んでいた。
「彼らから盗んだ財産は、いずれあの事故の被害者たちの救済に充てられるようにするつもりだ。そうして彼らに然るべき罰が下された時に、怪盗は廃業するよ」
ラパンは小さく笑みを浮かべて、私に右手を差し出した。
「ありがとう、リタ。短い間だったけれど、とても楽しかった」
「あ……」
この手を握れば、お別れだ。もう二度と会えないかもしれない。
「私……私も、楽しかった。貴方のお陰で、屋根裏部屋にしかなかった私の世界が、こんなにも広がったわ」
朝日が昇ってくる。まだ夜でいて欲しいと願うほどに涙が込み上げてきて、言葉に詰まった。泣き顔で別れるのは嫌だったから、必死に顔を背けて薄くなった月を見上げる。
そんな私を、ラパンは優しく抱きしめた。そして耳元で囁く。
「学年末パーティー、楽しんで。きっと、最低で最高のパーティーになるよ」
「え?」
ラパンは私からそっと離れると、恭しく一礼して見せる。そして片手を挙げ、去っていった。




