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その証明は、言葉の中に  作者: こなれたタオル


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9/14

何も知らない夜

 情報漏洩の嫌疑がかけられた翌日も、綾乃はいつもどおり教室に立っていた。

読書感想文の指導は、もともと綾乃が作ったやり方だ。

当然、綾乃の授業がいちばんわかりやすいと評判だった。


「先生、ここはどうしたらいいですか?」


女子生徒が手を挙げる。


「そうね。もう少し、あなたの気持ちを書いてみてもいいんじゃない?」


「はーい」


生徒たちは、以前より楽しそうに作文を書いている。


机に向かう手が止まらない。

隣の席と小さく相談する声も聞こえる。


綾乃は、その様子を教室の後ろから見ていた。


――この形で、よかったんだ。


胸の奥に、喜びが広がった。


時計を見ると、もう終業の時間だった。


「今書いている続きは宿題です。

書くのが難しかったら、自習室で書いてもいいですよ。

そのときは、質問に来てください」


綾乃は教室を見回した。


「今日はここまでにしましょう」


生徒たちがシャーペンを置く。

すぐに、隣同士で小さなおしゃべりが始まった。


「先生、私、今年の読書感想文、書けそうな気がします」


一人の女子生徒が、席に座ったまま綾乃に声をかけた。


「俺も」


数人の男子生徒が続く。


「毎年、マジでやりたくねえって思ってたけど、なんかいけそうじゃね?」


綾乃は思わず笑った。


「それはよかった。

最後まで書けるように、頑張ってね」


そう言って、教室の後ろのドアを開けた。


 教室を出て、綾乃は講師室に戻った。


「おつかれさまでーす」


黒田がタブレットを触りながら、顔を上げる。


「おつかれさまです」


綾乃は、教材一式を長机の上に置く。事務の倉崎がちらりとこちらを見て、すぐにパソコンに視線を戻した。


「さっきの授業、中二の読書感想文ですよね?」


黒田が声をかけてくる。


「ええ」


「どうでした?」


「思ったより書けてましたね」


「いいですね」


そのとき、講師室のドアが開いた。


「おつかれさまです」


美玲だった。

美玲は綾乃のほうを見ないまま、長机のいつもの位置に教材を置く。

そしてそのまま、室長と面談室へ入っていった。


ドアが静かに閉まる。

綾乃はその様子を一瞬だけ見た。


――何の話だろう。


そう思ったが、深く考えなかった。

次の授業まであまり時間がない。

綾乃は教材を手に取り、講師室を出た。



 その日の授業が終わると、綾乃は圭太にメッセージを送った。

六月の終わり頃から、圭太と過ごす時間が少しずつ短くなっていた。

七月に入ってからは、会っても食事をするくらいで、そのまま別れることが増えている。


圭太の理由はいつも同じだった。


――綾乃が疲れているだろうから。


けれど、去年はそんなことは言わなかった。

だから、少しだけ不思議に思っていた。


スマホが震える。

圭太からの返信だった。


待ち合わせの、いつものバーのドアを開ける。

奥の席には、すでに圭太が座っていた。


店内には、低く音楽が流れている。

カウンターでは、仕事帰りらしい客が二人、ビールを飲んでいた。


「お疲れ」


圭太が笑って手を上げる。


「夏期講習大変なんだろ?なんか疲れた顔してる」


「まあね。書き入れ時ですから」


綾乃も笑って答える。


圭太はグラスを綾乃の前に滑らせた。


「はい」


グラスの中で、氷が小さく音を立てる。


「カシスソーダ?」


「いつものやつね」


「ありがとう」


綾乃がグラスを持ち上げると、圭太もビールのグラスを持ち上げた。

軽くグラスを合わせる。氷が小さく音を立てた。


「その後どう?前に言ってた、作文のやつ」


「ああ。まあ、順調だよ。私がずっと考えていた形だしね」


そう答えながらも、綾乃の胸の奥には、まだモヤモヤしたものが残っていた。

情報漏洩の件を話そうかとも思ったが、やめた。どうせ、軽く流されてしまう。


「へえ。やっぱ、綾乃には高瀬先生が似合うな」


圭太は笑いながらビールを一口飲んだ。


「なんだかんだ言っても、夏期講習もう半分まできただろ?

この前会ったときより、なんか疲れてそうっていうか、やつれてるっていうか。ちゃんと飯食ってるの?」


「うん。その辺は大丈夫。もうすぐお盆休みにも入るし。そこで一息つけるって感じかも」


「そうか。あんまり無理するなよ」


「そうだね。ありがとう。圭太君はどう?この前も出張だって言ってたよね」


「あ、ああ。今年は思っていたより忙しくてさ。ごめんな。あんまり一緒にいてやれなくて」


「別にいいよ。圭太君がちゃんと仕事して、ちゃんと私のこと見てくれているだけで、うれしいし、安心できるんだから」


綾乃は圭太をまっすぐに見つめた。

圭太は一瞬だけ視線をそらし、ビールを飲んだ。


それからしばらく、二人は他愛もない話をした。

綾乃のマンションの隣の人が旅行のお土産をくれたこと。

圭太の同僚が、息子と遊んでいて腕を骨折したこと。


「今日はどうするの?」


「うーん……なんか綾乃の顔見てたらさ、ちゃんと休んでほしいなって思って」


圭太はビールを飲み干した。


「今日は帰るわ。無理させたくないし」


圭太はそう言って、空になったグラスを指で回した。

ポケットのスマホに一瞬だけ視線を落とす。


「うん。そうだね、ありがとう」


綾乃は、圭太とこうして過ごす時間を楽しみに、夏期講習を頑張っていた。

けれど、圭太の言うことももっともだと思う。

そう考えていると、圭太は伝票を手に取り、立ち上がった。


会計を済ませると、店を出た。

ドアを開けると、まだ熱の残る夜の空気が流れ込んでくる。


「送るよ」


通りに出ると、圭太は手を挙げてタクシーを止めた。

今日はマンション前まで送ってくれる。久しぶりかもしれない、と思った。


二人で並んで後部座席に座る。

どちらからともなく、そっと手をつないだ。


綾乃のマンション前に着き、タクシーを見送る。

圭太はそっと綾乃を抱き寄せ、軽くキスをした。


綾乃は少し名残惜しそうに、圭太の腕から離れる。


「気をつけて帰ってね。圭太君の好きなビール買っておくから。また一緒に飲もう」


「ありがとな。綾乃もちゃんと休めよ。それじゃ、おやすみ」


「おやすみ」


圭太は一度だけ手を振り、通りの向こうへ歩いていった。

綾乃はその姿を見届けると、マンションのエントランスに向かった。


圭太は少し離れた場所で立ち止まると、しばらくマンションの入口を見ていた。

自動ドアが閉まる。


その瞬間、圭太はポケットからスマホを取り出す。


<今、終わった>


すぐに返信が届く。


<MIREI わかった。部屋で待ってるね>


圭太はスマホをポケットに戻すと、流れてきたタクシーに手を挙げた。


「桜宮台まで」

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