火種
店内には静かなジャズが流れている。
圭太のグラスの氷がひとつ、カランと音をたてて沈んだ。
「どうして……そう思うんですか」
美玲はナッツをひとつまみ口に入れる。
「なんとなく、ですよ」
軽い調子で答える。
「漆原さん、前に、青葉に彼女がいるって言ってましたよね」
「ああ、はい」
「それで、誰なのかなってちょっと思っていたんですけど、今日、たまたまスマホケース見て気が付いたんです」
「え、あの今日の昼間のアレですか?」
圭太の声が上ずる。
「はい。廊下で電話されてましたよね?」
「ああ。そんな目立ってました?」
「いいえ。でも、あのスマホケース、ちょっと特殊じゃないですか。前に実家の塾にいらしたとき、彼女からのプレゼントで限定品だっておっしゃってましたよ」
圭太は驚いたように美玲を見た。
「そんなこと覚えていたんですか?」
「なかなか珍しいものでしたし、なにより漆原さんがすごくうれしそうだったんで」
「いや、なんだか気恥ずかしいですね」
美玲は圭太の様子を気にするようでもなく、さらに続けた。
「ただ、それを知ったとき、少し意外で」
「意外?」
「ええ。高瀬さんってすごく真面目で堅実ってイメージがあったから」
「そうですね」
「ですよね。だから、そこが意外で。漆原さんは、枠の中に入りきらない感じがするんですよね。向上心とか、こう、もっとどんどん上を見ていける人なのかなって」
「買いかぶりすぎですよ」
圭太は苦笑する。
「そんなことないです。さっき、出世した同期の方の話をしてくれましたよね」
圭太はグラスの炭酸の泡を見た。
「悔しいって顔に書いてありましたよ。漆原さん、もっと自分を出していっていいはずですし、その力がありますよ」
「でも」
美玲は続ける。
「高瀬さんは、そういう『勢い』みたいなのを望まないほうなのかなって」
「どうですかね」
圭太は曖昧に返す。
「別にいい悪いの話じゃないんです。ただ、一緒にいて、同じ方向を向けるのかなって」
確かに、綾乃との時間はいつも優しくて心が癒される。今まで、それを物足りないと思ったことはなかった。むしろそれが心地よく、何の疑問も持つことはなかった。
「そういうもの……ですかね」
圭太はグラスを傾けながら、水滴を指でぬぐう。
「柏木先生はどうなんです?いつかはご実家に戻られるのでしょう?」
美玲は肩をすくめる。
「どうでしょう。でも、青葉に来たからには、私もちゃんと勝負しなきゃって」
「勝負?」
「ええ。実は高瀬さんとは高校時代、いつもなにかにつけて負けていて。最終的には大学受験でもこっちが負け。だから、今度こそ、自分の力で頑張りたいって」
「二人の勝負に巻き込まれるのはごめんですよ」
「そこは安心してください。大丈夫です」
「でも、漆原さんは本当はこういうの好きでしょ?私も好きなんです。漆原さんが、上を目指すのなら、隣にいる人もそれにふさわしい人がいいと思うんです」
美玲の言葉にはなにか含みがあった。
「いやだな。僕を持ち上げても、なにも出てきませんよ」
圭太は小さく笑いながら、美玲を見た。
「冗談言ったと思ってます?」
美玲はまっすぐに圭太を見た。
「いや、そんなことは…」
圭太は空になったグラスを見下ろす。
「そういうとこですよ。漆原さん」
美玲は一気にグラスの中のものを飲み干した。
「今日はありがとうございました。奢るって言ったの、ちゃんと忘れてませんから」
「いや、でも」
「大丈夫です。もし次があったらその時は漆原さんが奢ってください。これでいいですよね?」
圭太は迷ったが、結局頷いた。
店を出ると、雨はすっかり止んでいた。
駅までの道を二人で歩く。改札の前で、急に美玲が口を開いた。
「漆原さん、ちゃんと上、目指してくださいね。漆原さんはそれができる人です」
「ああ、はい」
「応援してますから」
そう言い終えると、美玲は手を振りながら、改札を通り抜けていった。
圭太はその後姿をただ立ったまま見つめていた。
ポケットの中のスマホが鳴る。
<今日は塾で会えなかったね。残念>
圭太はしばらく画面を見ていた。
<次があるよ。また週末綾乃の部屋に行くから>
<うん。楽しみにしてる。もう寝るね。おやすみ>
圭太は空を見上げた。
別にどうってことはない。たまたま知り合いの女性と一緒に飲んだだけだ。なにもやましいことはない。ただ、いつもと違う熱が圭太の胸の中にあるのを感じる。
自分はどこへ行きたいんだろう。誰と一緒に行きたいんだろう。
圭太はスマホをポケットに入れると、改札に向かった。




