偶然という名の追い風
美玲が圭太と綾乃の関係に気づいたのは、ほんの些細なことだった。
青葉進学塾に営業で来ていた圭太のスマホが、打ち合わせの途中で鳴った。
圭太は軽く会釈をして、廊下に出る。
ちょうど授業終わりの美玲とすれ違う。その瞬間、視線はその手元にいった。
——あれ。
見覚えのある色だった。
去年の秋に出た、受注限定のスマホケース。
「彼女からなんですよ。限定品らしくて」
実家の塾で働いていたころ、圭太がそう言って少し照れた顔をしたのを、美玲は覚えていた。
偶然かもしれない。そう思いながら、視線を戻した。
同じように授業から戻った綾乃が、鞄から取り出したスマホも、同じケースで同じ色をしていた。
——青葉にいる彼女。
ああ、そういうことか。
美玲は小さく声を出さずに笑った。
その日は、日が落ちたころから雨が降り始めていた。湿度ばかりが高く、落ち着かない夜だった。授業を終え、美玲は駅への道を急ぐ。
実家の柏木進学会から青葉に来て二か月。
最初は教務だけだったが、六月に入ってようやく補習の枠をもらえた。
あと一か月半で夏期講習だ。
それまでに成果を見せたい。室長に、きちんと任せられると認めさせたい。
青葉に来たばかりのころ、高瀬綾乃の姿を見たときは、さすがに目を疑った。
大学は別だったし、もう会うことはないと思っていたからだ。
だが、現実は違った。
青葉に来ても、結局あの子はいた。
同じ場所に立っているのに、
最初から違う場所にいるみたいな顔で。
歩いている間も、あの顔が頭から離れなかった。
駅前近くのコンビニ前に差し掛かった時、自動ドアが開くと酔った様子の漆原圭太が店から出てきた。
「あれ、漆原さん? どうしたんですか?酔ってます?」
泥酔というわけではないが、それなりに酔っているようだ。漆原はすぐに美玲の声には反応せず、きょろきょろとあたりを見回す。
「漆原さん!私です。柏木美玲」
「ああ、柏木先生。こんばんは。今、帰りですか?」
「ええ、漆原さんは飲んでたんですか?」
「そうなんですよ。同僚と、やけ酒で」
圭太はそう言って、コンビニ脇の花壇の縁石に腰を下ろした。
ネクタイを緩め、額に手を当てる。
「一番仲良かったヤツが、四月から上に行って」
言葉が途中で途切れる。
美玲はその隣に腰を下ろした。
「あ、人事のことですか?」
「ええ。入社も一緒で、ずっと横並びだったヤツなんですけど。エリアマネージャーになって。最初は、肩書が変わっただけだと思ってたんですけどね」
少し笑う。
「でも会議になるとね。前まで俺と同じ席に座ってたのに、今は部長や課長の隣にいる。ああ、差がついたんだなって、目の前で見せられる感じで」
雨が細かくなってきた。
「なんか、気づいたら溜まってたみたいで。同じく上に行けなかったやつと、飲んでたんですよ」
「確かに、それはきついですね」
美玲は鞄からペットボトルを取り出し、一口飲む。
「私、漆原さんの気持ち、わかりますよ」
「ええ? 嘘でしょ。柏木進学会の娘さんがそんなことを?」
美玲は少し笑う。
「ご存じじゃないですか。新卒で入った塾、三年でクビになって。実家に戻っても、なかなか結果が出なくて。挙げ句の果てに、父に『修行してこい』って、二十九にもなって、今さら外に出されたんですよ?」
圭太は苦く笑う。
「それも、きついですね」
美玲は視線を逸らした。
「三十手前で、こんなこと言ってるのもどうかと思うんですけど」
「いや、俺も三十二です。似たようなもんですよ」
「あーあ、なんか私も飲みたくなってきちゃった。漆原さん、もう一軒どうですか?付き合ってくださいよ。女が一人で飲んでたら、変なのに絡まれそうだし」
美玲はわずかに身を乗り出した。
「私、奢りますから」
圭太はどぎまぎしながら、視線を逸らした。
ほんの一瞬、迷う。
「……ああ、少しだけなら」
「やった」
美玲は立ち上がる。
「私の知ってるお店でいいですか?」
美玲につられるように、圭太も立ち上がった。
美玲の知っている店は、駅から少し離れた一角にあった。
カウンターだけのバーで、バーテンダーが静かにグラスを磨いている。
「ここ、叔父がやってる店のひとつなんです」
「へえ。さすがですね。柏木さんのお父さんは学習塾で、弟さんはバーとかカフェとか、レストランもやってるんですよね。前に聞いたことあります」
「そうなんです」
美玲はカウンターに腰を下ろす。
「だから、安心して愚痴、ぶちまけちゃってください」
「はは、そりゃありがたい」
圭太もその隣に腰を下ろすと、店内をぐるりと見回した。
「素敵なお店ですね」
バーテンダーに向かって声をかける。
「ありがとうございます」
バーテンダーは軽く圭太に会釈すると、美玲に視線を向けた。
「美玲さん、いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
美玲は圭太の方へ手のひらを向けた。
「こんばんは、増田さん。こちら、仕事でお世話になっている漆原さんです」
圭太も軽く会釈をする。
「初めまして、増田です。ごゆっくりどうぞ。お飲み物は何にされますか?」
美玲は圭太を見る。
「漆原さん、何になさいます?」
「ハイボールで」
「私も同じで」
増田が氷を落とす音が響く。
圭太は少し暗めの照明を見上げると、ひとつ、溜息をついた。
グラスが二人の前に置かれる。美玲は先にそれを手にとる。
「お疲れ様です」
かすかにグラスが触れ合った。
一口飲むと、美玲が先に話し始めた。
「こうやって漆原さんと二人で飲むのは初めてですね」
「そうですね。確かに初めてですね」
圭太は少し笑って、もう一口飲む。
「でも、本当によかったです。漆原さんが青葉に営業で来ていて。知り合いがいない場所に行くのは、なかなか大変ですし」
「確かに。しかも、柏木先生はご実家の塾を出たくて出たわけじゃないし」
「えー、漆原さん、意外と言いますね」
美玲は小皿に盛られたナッツに手を伸ばした。
「だけど、高島駅前教室には高瀬先生がいたから、少しは心強かったんじゃないですか? 同じ高校だったんですよね?」
「え? なんでそれ知ってるんですか?」
圭太は、慌てたように言葉を探す。
「いや、たまたま青葉で高瀬先生と話す機会があって」
「そうですか」
ほぼ同時に、二人はグラスに口を付けた。
「……漆原さんの彼女って」
美玲は、いったん言葉を切る。
「高瀬さん、ですよね?」
圭太の手が、止まった。




