火のない煙
夏期講習も二週目に入ったある日。
前夜、室長の並木から〈少し早めに来てください〉というメールが届いていた。
理由は書かれていない。
「高瀬先生、並木先生が面談室でお待ちです」
いつも明るい事務の倉崎の声が、今日は低い。
「はい」
綾乃は鞄を机に置いて、髪を整えた。
面談室に入ると、並木が苛立ちを隠せない様子で座っていた。
「高瀬先生、先生が生徒の個人情報を外部に持ち出しているという噂が私の耳に届いています」
「……え?」
綾乃の呼吸が一瞬止まる。
「いえ、私はそのようなことはしていません」
並木は持っていたペンを机に置いた。
「しかも、あなたが生徒の個人情報を土産に、ほかの塾に移る計画がある、という話です」
綾乃は眉をわずかに寄せた。
「その話は事実ではありません。一体どこからのお話でしょうか」
「出所についてはこちらで把握しています。まあいいでしょう。きちんと調べればわかることですしね。とりあえず、授業は続けてください。塾長にはそういう噂があるとだけ報告はしておきます」
「承知しました」
綾乃は一礼し、面談室を出た。
廊下の空気が妙に冷たい。
自席に戻り、さきほどのやり取りを思い返した。
誰かが、意図してそんな噂を流したのだろうか。
そこへ、アルバイトの学生、黒田が声をかけてきた。
「先生、顔色悪いですよ」
「え、そうですか。大丈夫ですよ」
綾乃は少し迷ったが黒田に聞いた。
「黒田先生は、私に関する噂を耳にしたことはありますか?」
「ああ、なんとなく知ってますよ。誰が言ったのかもわからないことですけどね。
まあ、別に噂は噂ですからね。どうでもいいですよ」
綾乃はそんな黒田の様子にほっとした。
「どうにも心あたりもないし、なぜ急にそんな話が出てきたのかも理解できなくて」
「どうしたんですかね。先生、どこかで恨まれてたりとか」
黒田がクックと小さく笑いながら綾乃を見た。
黒田のそんな様子になんとなく綾乃の気持ちがほぐれた。
「高瀬先生が実際にやってるわけじゃないし、その証拠もないんですから、気にしなくてもいいんじゃないですか?」
「そうなんですけど、なんだか怖いなという気持ちもあって」
「まあ、当然ですよね。今度何かおかしなことがあったら言ってくださいよ」
「ありがとう。とりあえず、この話はここまでにします」
綾乃は黒田に礼を言うと、授業の準備を始めた。
美玲が出勤してきたのは、その十五分後だった。
「おはようございます」
いつも通りの声。
美玲は、いつもの席に座った。
違うとすれば、綾乃のほうを一度も見ないことだった。
鞄からノートを取り出し、書類を整える。
時折、スマホを確認する。
口元に、かすかな笑みが浮かんだ。




