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その証明は、言葉の中に  作者: こなれたタオル


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噂の形

 圭太と別れたあと、駅からの道を歩きながら、綾乃は一度も振り返らなかった。

レストランを出てすぐ、背後で圭太の足音が遠ざかっていく。

スマホを耳に当てたまま、足早に改札へ戻っていく。


「送る」という言葉は出なかった。


マンションまでは五分ほどだ。

自動ドアが静かに開く。

エレベーターを待つあいだ、数字がゆっくりと降りてくるのを見上げる。

その単調な動きに、ふと、別の夕方が重なった。


高校時代の図書室。

そして美玲に関する、もうひとつの出来事。



「シドニィ・シェルダン、好きなの?」


それが、北山翔との最初の会話だった。


放課後の図書室は、綾乃の楽園だった。

綾乃は入学してから、授業が終わるとここに来ていた。


読書は、小学生のころからの習慣だ。

高校生になっても、それは変わらない。


高二になったばかりのころ、理系クラスの男子が、毎日のように同じ時間に図書室へ来ていることに、綾乃は気づいた。いつも同じ席で熱心に読んでいる。



 その日、綾乃はいつものように図書室へ向かい、洋書の翻訳コーナーに足を止めた。背後から声がかかる。


「シドニィ・シェルダン、好きなの?」


「え?」


振り返ると、その理系クラスの男子が立っていた。


「あ、僕、二年A組の北山翔。高瀬綾乃さん、で合ってる?」


「うん。そうだけど……なんで?」


翔は、手に持っていた本を少し持ち上げる。


「貸出カード。よく名前が並んでるから」


「あ……もしかして、気づいてた?」


「うん。高瀬さんも?」


綾乃は小さく笑った。


「まあ、なんとなく」


「ほかに、こういう本読んでいる友達いなくてさ、ちょっと話してみたいって思ってて」


「そうなんだ。でも、私、詳しくないよ。ほんとに、ただ読んでるだけだし」


「うん。それでいいよ。僕も、そんな感じだし。」


翔は図書室の奥の自分の席を振り返り、


「ちょっと座らない?」


と小さく言った。


鞄から一冊の本を取り出す。


「これ、読んだことある? 親父が持っててさ。ここの図書室には置いてないみたいなんだけど」


「ううん、見たことないかも」


「よかったら、貸すよ」


「え、でも…」


「大丈夫。高瀬さん、本を大事に扱ってるって知ってるし。それに、またここで会えるし」


「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて。いつまでに返せばいい?」


「次、ここに来るときでいいよ。僕、月曜日と水曜日は塾だから来られないけど」


「そうなんだ。それなら来週の同じ曜日でどう?」


「うん、そうだね」


その日はそこで会話は終わった。

綾乃は本を鞄にしまい、翔は別の本棚へ向かう。


 木曜日は二年生の図書委員の当番日だった。

カウンターに座る田辺真帆は、貸出カードを整理しながら、向かい合う二人に何度も目をやっていた。


北山翔は、二年生のあいだで“隠れイケメン”と呼ばれている。

本人は我関せずといった様子で、放課後になるとこうして図書室にやってくる。

真帆も、翔が来るとつい興味半分で視線を向けてしまう一人だった。


その途中で、ふと気づく。


翔はこれまで何度も、図書室に入ってくる綾乃のほうを見ていた。

だからこそ、今日、彼が声をかけたことに少し驚いた。


 ――まさか、ね。



 エレベーターの扉が開く。

――そう。だいたい、こんなふうに始まる。

綾乃は、ゆっくりと息を吐いた。



 それから、翔とは週に一度ほどのペースで図書室で顔を合わせるようになった。

本を交換し、二、三言だけ小声で言葉を交わす。

感想や物語の話は、図書室を出てから続くことが多かった。

近くの公園のベンチに移動し、作家の癖や結末の解釈について語り合う。

気がつけば、一時間以上が過ぎていることもあった。


はた目には、付き合っているように見えたのかもしれない。

けれど綾乃にとっては、ただ、翔と趣味の話をしているだけだった。

一つだけ、綾乃が思い違いをしていたことがあるとすれば、

翔の視線の強さは、綾乃が考えているそれとは、まったく違うものだったのだ。


真帆は、以前から気になっていたことが、だんだん確信に近づいているのを感じていた。

やはり、翔の目は、本の話をしているときよりも、綾乃の横顔を見ているときのほうが、熱を帯びている。

あれは、もう隠しきれていない。


――やっぱり、そういうことだよね。


真帆はスマホを取り出し、親友の名前を開いた。


<ちょっと聞いて欲しいことある>


短いメッセージを送る。

明日の昼休みが、楽しみになった。


 綾乃と翔の本を通じた友達関係が始まって三ヶ月が過ぎようとしていた。

その日も二人は、いつもの公園のベンチに並んで座り、最近読んだ小説の結末について話していた。


「そうだ。これ、さっき渡そうと思ってたやつ」


翔が鞄から、単語帳を取り出す。


「これ、すごくいいよ。覚えやすいし。僕は兄貴のがあるから、貸す」


「え、いいの?ありがとう。これ、ちょっと興味あったんだよね」


 綾乃が差し出した手に、翔の指先が一瞬触れた。

ほんのわずかな接触で、翔は弾かれたように手を引いた。

単語帳がばさりと音を立て、綾乃の膝の上に落ちる。


「ごめん」


声が、わずかに上ずっている。

綾乃は目を瞬かせた。


 ――あれ?


顔を上げると、翔の頬が、はっきりと赤い。


「あ、あのさ……」


翔はまっすぐ前を見たまま、言葉を探している。


「高瀬さんは……」


「うん、なに?」


綾乃は、ただ素直に、その先を待った。


沈黙が、ほんの数秒。

翔は唇を結び、やがて小さく首を振った。


「……やっぱ、なんでもない」


「そう?」


「うん。あ、その単語帳さ、例文がちょっと変わってて。それが逆に覚えやすいんだ。今、大学行ってる兄貴にもすすめられて」


翔は、いつもの調子に戻ろうとする。

綾乃は単語帳を開きながら、先ほどからの翔の様子に違和感を覚えつつも、何を言えばいいのかわからず、そのまま時は過ぎて行った。


 

 それから、翔とは何度か図書室で顔を合わせた。

だが、以前のように長く話すことはなくなっていった。

やがて、図書室に翔の姿は見えなくなり、本の話もできなくなってしまった。


ある日の昼休み。教室が妙にざわついている。


「ねえ、聞いた?」


隠れイケメンと呼ばれている北山翔と、あの柏木美玲が付き合うらしい。

綾乃は、翔から借りた単語帳をめくりながら、「へえ」と思った。

ただ、最後に会ったときの翔の様子だけが、わずかに引っかかっていた。


噂をしていた女子が、綾乃のほうをちらりと見ると、声のトーンを一段下げた。


「なんかね、美玲が北山くんのこと、ずっと好きだったんだけどさ。高瀬さんが邪魔してたらしいよ」


「えー、なにそれ。どういうこと?」


 綾乃は顔を上げた。


「だって、図書室でずっと一緒にいたらしいよ。図書委員の子が見てるから間違いないよ」


「柏木さんが好きだってわかってて、それやってたってこと?こわーい」


「うん。なんか美玲は高瀬さんに、何度も二人で会うのはやめてほしいって言ってたらしいから」


「うわー、こわっ。なんかそういう風には見えないんだけどなあ」


クスクスと笑い声が聞こえる。

綾乃は単語帳を閉じると、静かに席を立った。

なぜ、こんなことになっているのだろう。

美玲と翔の話をしたのは、スローガンを考えたあの喫茶店で一度だけだ。

あのとき、美玲は特別なことは何も言わなかった。

少なくとも、綾乃はそう思っている。


廊下の向こうから、隣のクラスの女子たちの声が混じる。

その中に、美玲の名前が混じっていた。


綾乃は振り返らなかった。

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