断罪の土曜日
木曜日の午前中、自宅にいた綾乃のスマホが鳴った。
室長の並木からの着信だった。
「はい、高瀬です」
「おはようございます。青葉進学塾の並木です」
「おはようございます」
並木の声は、いつもより硬かった。
「高瀬先生。今回の件、本当に申し訳ありません。
もっとしっかり調べるべきでした。
私の思い込みで、高瀬先生にとても失礼なことを言ってしまいました」
「……本当に申し訳ありません」
綾乃はその謝罪には答えず、並木に問いかけた。
「あの、何かわかったんですか?」
「はい。それで、土曜日の授業前に塾に来ていただけませんか。
塾長にも同席してもらう予定です」
「そうですか。わかりました。ではその時に、私も並木先生にお話があります」
「わかりました。では、よろしくお願いします。
今回は本当に申し訳ありませんでした」
綾乃は電話を切ると、大きく息をついた。
土曜日まで、まだ二日ある。
綾乃はスマホを操作すると、祖父の番号に電話をかけた。
こういう時、いつも話を聞いてくれるのは祖父だった。
「もしもし、おじいちゃん。わたし、綾乃だよ。あのさ……」
祖父との電話は、そのあと二時間続いた。
そして土曜日。
綾乃は一週間ぶりに、青葉進学塾の講師室の前に立っていた。
ドアを開けると、並木と黒田、ほか数名の講師の顔が見えた。
綾乃の姿を見て、うれしそうに手を振る講師もいる。
美玲はまだ来ていないようだ。
不思議なことに、いつもは閉まっている面談室のドアが開けられたままになっていた。
「高瀬先生、来てくださってありがとうございます」
並木は丁寧に綾乃に挨拶する。普段と違う様子に、周りの講師たちは多少とまどいの様子を見せた。
「おはようございまーす」
美玲が、左手で髪を整えながら講師室のドアを開けた。
綾乃の姿に最初は驚いたようだったが、すぐに口元に笑みを浮かべ、いつもの席に鞄を置く。
そして、右手の人差し指にはめていた指輪を外した。
全員がそろったところで、並木が口を開いた。
「おはようございます。皆さん、ミーティングの前に少しお時間をいただけますか。
今週の月曜日から高瀬先生には体調不良ということでお休みしていただいていましたが、その件でお話があります」
美玲はさも関心なさそうに、自分の爪を見ていた。
「実は、この塾で問題が起きていました」
講師たちは顔を見合わせる。
「生徒情報の持ち出しと生徒の保護者との不適切な接触です」
並木は硬い表情のまま続ける。
「そして、その疑いを高瀬先生に向けてしまいました」
講師たちは一斉に綾乃を見た。美玲だけがゆっくりと視線を向けた。
「しかし、それは間違っていました。私の軽率な判断のせいで、高瀬先生に失礼な態度をとってしまいました。本当に申し訳ありません」
並木は深々と頭を下げた。綾乃はその姿をじっと見ている。
「この件について、事実を確認したいと思います」
「生徒情報の持ち出しについてです。そもそもこの事は、私がある先生から聞いたものでした。私はその先生を個人的な理由で、強く信用していました。その方が言うのなら間違いないと思ってしまっていたのです」
講師たちはざわつき始めた。
「それは誰なんですか?」
男性の講師が手を挙げた。
「そうですね……」
「これだけ、騒ぎも大きくなっているんですし、教えてください」
並木はつぶやくように言った。
「柏木先生です」
講師室の視線が一斉に美玲に向いた。
「ええ、いえ、私もそんな噂を聞いたってことを並木先生にお話ししただけです」
美玲は半分笑いながら驚いたような表情で言った。
「その噂は誰から聞いたのですか?」
先ほどの男性講師が今度は美玲に問いかけた。
「それは、さすがに言えません。私もこんなに大事になってしまって申し訳なく思っています」
美玲は気軽な調子でとても謝罪しているようには見えない。
「そうですか。そちらは、また後ほどお聞きします。黒田君、次の問題を」
黒田はパソコンを開いて説明を始める。
「こちらのメールが塾あてに届きました」
近くにいた講師たちが席を立ち、パソコンの画面をのぞき込んだ。
「高瀬先生が、生徒の保護者と個人的に会って謝礼を受け取っている、という内容の写真が塾に送られてきました」
「写真では保護者の顔はぼかされていましたが、調べれば誰なのかは分かりました。
それで、その方に連絡をいれました」
講師室が静まり返る。
美玲の肩がぴくっと動いた。
綾乃は表情を変えずに、その様子を見ていた。
並木は手元のメモを見ながら保護者とのやりとりを説明した。
「私がその保護者の方に電話で確認したところ、高瀬先生が謝礼を求めた事実はなく、封筒もその場で返されたとのことでした」
「また、さらに詳しくお話をうかがったところ、そもそもこの方はある先生に、高瀬先生と会って相談したいことがあるので、連絡したいと話したそうです。そして、その先生にご自分のメールアドレスを託したということでした」
並木は講師室にいる全員の顔を一人ずつ見ていく。
「この中にその先生がいます」
冷房の音が講師室に響く。
「そうですよね?柏木先生」
並木は美玲にするどい視線を送った。
「え?なんか、私が悪いみたいになってますけど。確かにメールアドレスは預かりました。でも、講師は保護者の方と外で会ってはいけないルールもご説明しました。アドレスは高瀬先生にお届けしましたけど」
その時、面談室の方から小さく咳払いが聞こえた。
綾乃ははっきりと美玲を見ながら言う。
「私はそんなメールアドレス、受け取っていません」
「やめてくださいよ、高瀬先生。受け取りましたよね?」
美玲は強い口調だが、半ば笑いながら綾乃に指摘した。
だが、今度は黒田が口をはさんだ。
「そうですね。確かに、柏木先生が高瀬先生にメールアドレスを届けたか、届けていないかの証明はできません。しかし、この保護者の方は、実際に高瀬先生を名乗る人物からメールを受け取っていました。これが、そのメールです」
黒田はパソコンの画面に数通のメールのやりとりを並べて表示した。
美玲が小さく舌打ちした。
「このメールには明らかに高瀬先生が書いたのではないことがわかる一文があります。高瀬先生からメールは消去して欲しいと書いてあったそうですが、保護者の方は万が一のため、残しておいたそうです」
黒田が指したメールの一文を、講師たちが再びパソコンの前に立って確認する。
するとどこからともなくある単語が、最初は小声で、そして、最終的には一人の女性講師が手を挙げた。
「『ら抜き』ですよね?」
他の講師もうんうんと頷いた。
「その通りです。高瀬先生は、ら抜き言葉を使いません。僕も何度も注意されてます」
「そんなの、ただの言葉の癖でしょ?なんにも証拠にならないじゃない」
美玲はいまいましそうに黒田に言う。
「ええ、これは確かな証拠ではないですね。それでは、柏木先生がご希望の『確かな証拠』を出します」
黒田の言葉を聞きながら、綾乃は視線を落とした。
指先に、わずかに力が入る。
黒田はポケットから、ボイスレコーダーを取り出した。
「まずは先入観なしで、皆さんに聞いていただいた方がいいですね」
黒田は再生ボタンを押した。
「あんな人が美玲先生ちの塾で雇われたら、大変だし。マジで役に立てたっぽくてうれしいですわ」
「……それって、柏木先生に頼まれたんですよね?」
「あ、そうっすよ。
美玲先生の実家で雇いたいみたいで、素行調査って感じで」
そのあたりで、美玲が声を上げた。
「そんな音声なんて、今の時代AIでもなんでも、できちゃいますよね?まさか、これが確かな証拠なんですか?」
美玲は肩をすくめながら、指先で机を軽く叩いた。
その口元には、まだ余裕のある笑みが浮かんでいる。
「だそうです。大沢君」
黒田は面談室に向かって声をかけた。面談室で椅子が動く音がした。
「美玲先生、どういうことですか?」
出てきたのは大沢だった。顔色は真っ青で冷や汗をかいているようだ。
「大沢君、何でこんなところに……」
明らかに美玲が焦りの声を出した。
「美玲先生は、俺のこと、頼ってくれたんじゃなかったんですか?俺のこと、信頼してくれてるからメッセージくれたんじゃなかったんですか?俺、美玲先生に喜んでほしくて、役に立ちたくて、それだけだったのに…」
大沢は訴えるような目を美玲に向けた。
「はあ。バカなこと、言わないでよ。誰がそんなこと頼んだっていうの?あなたの思い違いなんじゃないの?私を陥れたいの?」
「俺、今日黒田君に美玲先生の為に、青葉進学塾に来てほしいって言われたとき、美玲先生を助けなきゃ。写真を撮ったことには、ちゃんと意味があるんだって言おうと思ったから来たのに…」
「そもそも、私はそんな頼み事はしていません。並木先生、これ、なんなんですか?」
美玲は並木に訴えた。
「美玲先生…。本当に、俺に写真撮ってくれって言ってませんか?」
「言ってないわよ」
「じゃあ、これ、聞いてください」
大沢は腕につけているスマートウォッチを操作した。
次の瞬間、ややくぐもった女性の声が流れた。
「うちの塾にね、今度声をかけたい先生がいるの」
「でも、その前に少しだけ様子を知りたくて」
「様子、ですか?」
「休日の過ごし方とか。誰と会っているのか、とか」
「ああー、つまり素行調査ってことですか?」
大沢は再生を止めると、息を整えてから口を開いた。
「俺、美玲先生と会う前の日に、新しいスマートウォッチ買ってて……その時、試しに録ってたんです」
誰も動かない。ただ、視線だけが美玲に集まっていく。
「やだなあ、コレだって証拠にはならないでしょ?」
「美玲先生、俺、先生に写真送ってますよ。やり取り全部残ってますから」
「何言ってるの?そんなものないでしょ?」
美玲は身を乗り出し、鋭い視線を大沢に送った。
だが、大沢はすぐに黒田の方を見た。
「黒田君、俺のスマホのスクショ、パソコンでみなさんに」
黒田はうなずくと、あらかじめ保存しておいた画像をパソコンの画面に表示した。
「あー、これは…」
「名前、出てる」
「無理だろ…」
低い声があちこちから漏れ、ざわめきが広がっていく。
美玲は立ち上がった。
「いい加減にしてよ!その画像だって、作れるでしょ!」
上ずった声が、講師室に響いた。
「いい加減にしてほしいのは、美玲先生ですよ……。まだ、自分は関係ないって言うんですか?俺が嘘を言ってるって言うんですか?」
大沢は、悲しそうに美玲に問いかけた。
「やってないし、知らないことよ、それに…」
「美玲、もうやめなさい」
面談室から、低く押さえた声が響いた。
「大沢君にまで迷惑をかけて、まだ言い逃れるつもりか」
その声に、美玲の体が固まり、さっきまでの表情が消えた。
面談室から一人の男性が顔を出した。
美玲の視線が、そちらに向く。
「パパ…」
男性は並木の隣に立ち、頭を下げた。
「……柏木進学会の、会長です」
並木がみなに紹介した。
「美玲、本当のことを言いなさい。もう分かっているはずだ」
「違う……」
美玲は口を開いた。
だが、言葉が続かなかった。
「美玲!」
父の強い呼びかけに、美玲は顔を歪めた。
「だって、みんな高瀬、高瀬って。なんでよ。
別にかわいくもないし、愛想だってないし、目立つわけでもないのに……なんで、あの子なの?」
「何を言っているんだ、お前は」
「パパだって、いつも私にばっかり期待して。
ちゃんとやれって、ちゃんとやれって……!」
「でも、無理なの!私には、無理なの!」
「だったら、使えるものは使うしかないじゃない」
「勉強できる子がいいんでしょう?ちゃんとそう見えるようにしてきたじゃない」
「パパの理想の娘だよ。何が悪いの?」
誰も何も言わない。
「それにさ……みんなだって、嫌いな人くらいいるでしょ?」
「その人が堕ちていくの、見たいって……思わないの?」
美玲の目は、綾乃をとらえた。
「高瀬綾乃。私は、ずっとあんたが嫌いだった!」
「そうやって、黙って……何も言わないで、正しい顔して……」
「ねえ、なんで堕としたはずなのに、無傷で戻ってきてるの?」
綾乃は美玲をじっと見つめた。
「別に無傷なんかじゃないよ。
……でも、信じてくれる人がいる」
「だから、私は平気」
美玲はハッとしたような顔をしたあと、声を上げて笑い始めた。
「そっかあ……信じてくれる人がいるんだ」
それから父に視線を向ける。
「ねえ、パパ、私のこと信じてる?」
「美玲、もうやめなさい」
美玲の父は、綾乃に向き直る。
「高瀬さん、後日改めて謝罪の場を設けさせていただきます。
本日はこれで失礼させていただいてよろしいでしょうか」
「はい」
綾乃が短く答えた。
美玲の父は、まだ何か言いたげな美玲の腕をつかみ、講師室の外へ連れ出した。
並木が美玲の鞄を持ち、そのあとを追う。
扉が閉まる音だけが、講師室に響いた。




