終わりにする日
講師室の静けさを破ったのは黒田だった。
「高瀬先生、大丈夫ですか?」
「ああ、うん。大丈夫」
他の講師たちも、次々に綾乃に声をかける。綾乃は力が抜けていくのを感じて、椅子に座り込んだ。
「……まさか、柏木先生が」
「信じられませんね……」
講師室の緊張感はまだ抜けきっていない。
しばらくすると並木が戻ってきた。
「みなさん、ご協力ありがとうございました。高瀬先生、大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした」
並木は改めて綾乃に頭を下げた。
「わかりました。謝罪は受け入れます。並木先生のお立場も理解しているつもりですから」
並木はまだ申し訳なさそうに、下を向いている。
「並木先生、ちょっとお話いいですか?」
「ええ、では面談室で。みなさんは、授業準備をお願いします」
「はい」
講師たちは気分を切り替えるように返事をすると、各々の仕事にとりかかった。
「それで、お話というのは」
「私の退職についてです」
「ええ」
並木は思わず立ち上がった。
「もしかして、今回の事でですか?」
「いえ、そういうことではありません。以前から考えていたことなのですが、それが今回のことで少し早まっただけです」
「そう…、ですか。いつごろおやめになる予定ですか?」
「さすがに急に辞めて、こちらの塾にご迷惑をおかけするわけにもいきませんので、今月いっぱい。夏期講習期間はきっちり仕事をします」
並木はすぐには言葉を返せなかった。
「今回は特殊なケースというか、いろいろあるので、一応塾長に相談してみます。今日の高瀬先生の授業が終わるまでには、こちらの対応をお伝えできると思います」
「わかりました」
綾乃は頷くと、面談室を出た。他の講師たちが教室へ向かっていく。綾乃はその姿を見送ると、今日の分のテキストをトントンと整えた。
その日の授業を終えたあと、退職は正式に受理された。
綾乃は建物を出ると一度立ちどまって、青葉進学塾の看板を見上げた。
綾乃は自宅に戻ると、祖父に電話をかけ、そのあと圭太に短いメッセージを送った。
ここ数日、圭太とはまともに連絡を取り合っていない。
違和感は、六月頃からあった。
<圭太君、話したいことがあります>
今日はすぐに既読がついた。
<いいよ。改まってどうしたの?明日、綾乃のマンションでいい?>
<五時半ごろ来て>
<OK>
綾乃はキッチンに行くと、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、そのまま一気に飲み干した。
次の日の夕方五時半。綾乃のマンションに圭太がやってきた。手に持ったビニール袋から、缶ビールやお菓子の袋が見える。
「なんか、綾乃の部屋、久しぶりだな」
圭太は部屋に入ると、さも当然というように、ソファに腰を下ろす。
「圭太君、七月頃から来てなかったよね」
綾乃は圭太の持っていたビニール袋を受け取り、テーブルに置いた。
「お、おう…、そうだっけ?いやー、今年は俺も忙しくてさ。ほんとにゴメン」
圭太はビニール袋からビールを取り出し、迷いなく缶を開けて、一口飲んだ。
「綾乃の分も買ってきたんだ。一緒に飲もうよ、ほら」
圭太は手にもう一缶ビールをもって、綾乃に言った。
綾乃は答えず、圭太に向かい合うように床に座った。
「え、どうしたんだよ。こっち来て一緒に座ればいいじゃん」
圭太がソファの自分の隣をポンポンと叩く。
「今日はね、圭太君に話があって来てもらったから、ここでいい」
「え、なに?なんかマジな話なの?」
圭太は半分笑いながら言った。
しかし、綾乃の顔を見て、その笑いが消えた。
「圭太君、柏木さんと会ってるよね」
「え?」
「七月頃から付き合ってるんだよね」
「おい、何言っているんだよ、そんなことしてないよ」
圭太は慌てて否定する。
「そう。柏木さんが、わざわざ教えてくれたよ。ほら」
綾乃はスマホを手に取ると、その画面を圭太に見せた。
「え、なんだよ、これ。…マジか」
圭太は固まったまま、綾乃のスマホの画面を見ていた。
「私、もうこれ以上、圭太君とは付き合えない」
「えっ」
圭太はようやく綾乃の顔を見た。
「いや、違うんだよ。ちょっと待ってよ」
「いや、だからさ……ちょっと、みれ……柏木さんとは、なんでもないんだよ。誤解だって」
部屋の中に沈黙が広がった。
「圭太君、それはさすがに苦しいよ」
綾乃はゆっくり息を吐いた。
「ごめん、俺…」
「うん。だから、別れよう」
圭太は両手で顔をおおうと、大きく息をついた。
「そうだよな。俺、許されないことした。本当にごめん」
綾乃は圭太から目をそらさなかった。
「今日はもう帰って。ここにある圭太君のものは、まとめておくから」
「ああ、わかった」
圭太はゆっくりと立ち上がった。
「本当に、ごめん」
そう言って、綾乃の部屋を出て行った。
ドアが静かに閉まった。綾乃は鍵をかけると、その場に座り込んだ。
五年分の時間が、一気にのしかかってきた。
これでよかった。綾乃はしばらく、そこから動けなかった。




