静かなざわめき
夏期講習が始まって初週の週末。
夕方のアスファルトは、昼の熱を抱えたまま、靴底にまとわりつく。
気づけば、綾乃は歩幅を広げていた。いつものレストランは、もうすぐだ。
駅から少し離れた通りにある、小さなイタリアン。五年前、青葉進学塾に営業で来ていた圭太と初めてゆっくり話した店でもある。
店の窓際に、先に着いていた圭太の姿が見えた。ちょうどノートパソコンを閉じるところで、テーブルにはすでにコーヒーが置かれている。
「お疲れ。もう頼んだの?」
「お疲れ。うん。いつものやつ。なんかあった?」
「なんで?」
「いや、ちょっといつもと違うっていうか」
「うん。まあね」
向かいに座る。ウエイターがやってきて、水を置いた。コーヒーとスパゲティを注文する。
付き合って五年。仕事の愚痴も、好みも癖も、圭太は知っている。
「夏期講習どう?」
「うん。始まったばっかりだから、なかなかね。毎年のことなんだけど」
綾乃は水を一口飲む。
「一昨日ね、読書感想文の指導が統一になったの」
圭太は少しだけ目を上げる。
「統一?」
「うん。これから全クラス、同じフォーマットでやるって」
「へえ。それ、すごいじゃん」
綾乃はグラスの縁を指でなぞる。
「すごい、のかな」
「だってさ、全体で採用ってことだろ? 評価されたってことじゃん」
「私のやり方じゃないんだ…。柏木さんの提案でね」
「ごめんごめん。そうか。てっきり綾乃が前に言ってたやつかと思って」
圭太が申し訳なさそうに頭をかく。
「実はね、ちょっと気になるところがあって」
「え、なに?」
「うん。柏木さんの提案がね、私のと似ててさ」
綾乃は顔を上げる。
「似てるって?」
「うん。内容がね。三つに整理しようっていうの。なんか数とか言い回しも似ててさ」
「ああ。感情を三つに整理するってやつか。一回くらい柏木さんに言ったことあるとか?」
圭太は、軽く笑って言う。
「それはないよ。言ったのは圭太君にだけ。それに、まだ完成してない」
「そうなのか?まあさ、柏木さんも同じ教科だし、やっぱり思いつくことって似てくるんじゃないの?」
綾乃は、頷かなかった。
「柏木さんもけっこう優秀だしな」
「……え?」
「あの人もやっぱり、やり手の親父さんの血を引いてるんだしさ」
確かに美玲の家は中堅の進学塾を経営している。
圭太は水を飲む。
「営業で会うの?」
「まあ、たまに。あそこの塾は俺の担当エリアにあるし。親父さんとも話すよ」
「そうなんだ」
そのとき、テーブルの上でスマホが震えた。
圭太が視線を落とす。
一瞬だけ、画面が目に入った。
<MIREI 今日はありがとう。また、会いたいな>
画面は伏せられたまま、テーブルの上に置かれる。
震えは、すぐに止んだ。
店内のざわめきだけが残った。
「仕事?」
綾乃は聞いた。
「うん。ちょっとな」
それ以上は言わない。綾乃も、それ以上は聞かなかった。
五年という時間は、疑う理由を静かに消していく。
「さっきのさ」
圭太が言う。
「チャンスだと思うよ」
「チャンス?」
「綾乃のやり方だって、通用するってことだろ」
「そうなのかもしれないけど、なんかすっきりしなくって」
「そんなに気にしなくてもいいんじゃない?いいやり方なんだし、似ることだってあるだろ?」
「そうなのかな……」
綾乃はグラスを持つ手を止めた。
注文した料理が運ばれてくる。
会話は、別の話題に移った。




