仕組まれた罠
夏期講習三週目は、情報漏洩の嫌疑はかけられたものの、特別変わったことはなく、そのまま一週間が過ぎようとしていた。
綾乃には金曜日だけの出勤前ルーティーンがある。いつもより、一時間半前に家を出て、駅前から少し離れた落ち着けるカフェで、授業準備をしながらコーヒーを飲む。
それがなによりの癒しであり、週末の授業への活力になっていた。
その日も同じように綾乃は「カフェ・ブルーバード」に行く。ドアを開けると、マスターの沢田さんが右手を挙げてあいさつしてくれる。
「こんにちは。いつもの、お願いします」
綾乃はカウンターに向かって声をかけながら、窓際の一番奥の席に向かう。そこが綾乃の定位置だ。幸い、今日も誰も座っていない。
大きな窓がある眺めのいい席で、綾乃にとって、通りがかる車や歩行者を見ながら、いろいろな想像をするのは、一つの息抜きのようなものだった。
今日は、授業で新しいことをしなければならないので、事前にチェックが必要だ。綾乃は自分用に買ってある、テキストとペンを鞄から出す。
そうこうするうちに、綾乃の鼻に優しいコーヒーの香りが漂ってきた。綾乃は酸味のあるコーヒーが好きで、いつもマスターにその時々で選んでおまかせで、淹れてもらっている。
「はい、お待たせ」
マスターはコーヒーを綾乃のテーブルに置くと、にっこりとほほ笑んでから、そのままカウンターの方へ戻っていった。マスターの沢田さんは綾乃の祖父の同級生で、子供の頃から祖父とよく一緒にこの店に来ていた。
だから、彼にとって綾乃は孫のような存在だと言ってくれる、他人の中で一番信頼できる人といっても過言ではない人だ。
綾乃は運ばれてきたコーヒーを、まずは一口飲む。
「はー」
自然に一息つく。それからテキストを開いた。
店に入ってから三十分ほど経った頃だろうか。窓の外に、立ち止まる人影が見えた。だが綾乃は気にせず、テキストを読み続けていた。
少しして、一人の男性がカフェのドアを開けた。綾乃は、なんとなくその男性に目を向ける。見覚えのある人だった。
「あれ、高瀬先生。偶然ですねえ」
男性は笑顔で挨拶しながら、綾乃の席に近づいてきた。
「あ、すみません。どちらの…」
綾乃が恐縮したように答える。
「ああ、そうですね。青葉進学塾でお世話になっている、冴島健斗の父です」
「あ、冴島君の。ああ、以前、お迎えの際にお会いしたことがありましたね。こちらこそ、お世話になっております」
綾乃はあわてて立ち上がると、冴島に挨拶をする。
「先生、少し、お話いいですか?外で個人的に話すのは禁止と伺いましたけど、偶然同じ店に入ったのなら、問題ありませんよね?」
冴島は、どこか落ち着かない様子で周囲を見た。
「ええ、ああ、まあ、そうなんでしょうか」
綾乃は迷いながら答える。
「こちら、よろしいですか?」
「はい」
冴島がカウンターに手を挙げる。
「すみません、コーヒー一つ」
綾乃はテーブルの上のテキストとペンを端に寄せた。
「うちの健斗なんですけど、どうも、中学にあがってから私とあまり話をしたがらなくて。
特にうちは父子家庭なんで、本来ならどちらかの親なら話ができる可能性がありますよね。でも、それがないもんですから」
「中一の頃はほとんど私と話さなかったんです。
それが、中二になって高瀬先生の授業を受けるようになってから、塾が楽しくなったみたいで、家でも話をしてくれるようになったんですよ」
「そうですか。なにがよかったんでしょう。特別なことはなにもしてないんですけど」
綾乃は首を傾げた。
「それが、私もあまりはっきりはわからないんですけど、高瀬先生が健斗が書いた短い文章をほめてくれたみたいで。もちろん、先生からの直しもはいったけれど、それも、健斗の書き方や意見を尊重した直しだったみたいで。それをとてもうれしく思ったみたいです。」
「ああ、なるほど」
「ほかの先生は、やっぱり点数がとれる書き方を健斗に指導するみたいで。でも、そうすると自分の意見じゃなくなる!と、憤っていたことがあったんです」
綾乃は思い当たる節があった。
「確かにそうですね。私は、その辺は選んでもらってるんです。点数をとりたければ、そういう書き方をしてください。自分の意見を強くいれたいなら、それもよし。ただ、それは点数に結びつかないかもしれないよと。」
「面白い考え方ですね。親としたら点数とってくれないと、塾に入れた意味は?って思ってしまいますけど。でも、先生はその意見をいれつつ、いい感じに直してくれるって」
「さすがに、そこで放っておくわけにはいきませんからね」
綾乃はコーヒーカップを手にする。
「健斗が興味をもった先生は、どんな風なお考えを持っているのか、うかがってみたかったんです」
「そういうことでしたか」
そのままそれから、綾乃と冴島は三十分以上話続けた。
「綾乃ちゃん、そろそろ出勤の時間じゃない?」
マスターが話をし続ける綾乃に声をかけた。
「ああ、すみません。もう、そんな時間でしたか。」
冴島は鞄の中を少し探り、封筒を取り出した。
その手つきは、どこか迷っているようだった。
「先生、これを」
「え?なんですか?」
綾乃は思わずその封筒を手に取った。
「いえ、あとでということだったんですけど、
今の方がいいのかなと思いまして」
「何のことですか?」
「ああ。そうですよね。大丈夫です。わかってますから。ええと、『気持ち』です」
冴島は小声で言う。
「はあ」
綾乃は封筒の中をのぞいた。一万円札が見えた。
「え。ちょっと待ってください。こんな、受け取れませんよ」
「あ、そうですよね。やっぱりそうですよね。すみません」
冴島は封筒を綾乃から受け取ると、かばんに急いでしまいこんだ。
「先生、今日はありがとうございました。また、ご相談させていただくことがあるかもしれませんが」
「はい。でもその時は、塾でお話しましょう。」
「そうですね。では、また」
冴島は心なしか来た時よりも、足取りが軽い様子で店を出て行った。
「綾乃ちゃん、大丈夫?」
マスターが心配そうに近づいてきた。
「はい。大丈夫です。それじゃ、マスターそろそろ行きますね。また来週きます」
綾乃はテーブルの上のものを片付けると、会計を終え、塾に向かった。
カフェの外には、大沢の姿があった。大沢はスマホの写真フォルダをチェックしていた。その中には窓際の席に座る綾乃の写真が何枚も保存されている。今日の写真だけではない。
大沢はその中から数枚を選んだ。
窓際の席で向かい合う二人。
笑顔で、顔を寄せ合っているように見える一枚。
封筒を綾乃が手にする瞬間。
その封筒を開けて、中をのぞき込んでいる写真。
「よし、これでOK。美玲先生に送信っと」
そして、まるで何事もなかったかのように、そのまま駅に向かって歩いて行った。




