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「王国監察官(ケンソル)エドウィン」  作者: mr.Bones


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第二話 無事という名の功績

第二話です。


今回は戦場ではなく、内政視察の話になります。


王国監察官――ケンソルの仕事は、戦功を記録することだけではありません。貴族が治める領地で、本当に功績と呼べるものが何かを見定めることもまた重要な職務です。


派手な事件や大きな成果だけが、功績なのか。

それとも、何も起こさずに日々を守ることにも価値はあるのか。


そんな話です。

ロムルス王国には、功績をもって爵位を得た貴族家に、三代までの世襲を認める制度がある。

 四代目以降も爵位と領地を継承するには、その三代のうちに、再び爵位に見合う功績を立てねばならない。


 だが、功績はしばしば歪められる。


 小さな山賊討伐は反乱鎮圧となり、徴税を増やしただけの農政は収穫増と報告される。


 そうした偽りの功績を正すため、王国は監察官――ケンソルを置いた。


 戦場では戦功を記録し、領地では帳簿と民の暮らしを調べる。


 その一人、元貴族の監察官エドウィンは、今日もまた、貴族たちの功績を見定める。


     ◇


 王国監察官エドウィンの仕事は、戦場に限られない。


 貴族の功績は、戦場での首級だけで測られるものではないからだ。


 荒地を開き、民を増やす。


 水路を掘り、収穫量を上げる。


 街道を整え、商いを盛んにする。


 飢饉を乗り越え、治安を保つ。


 そうした内政の積み重ねもまた、爵位を保つに値する功績となる。


 ただし、内政の功績は戦功よりも見えにくい。


 敵将の首ならば、首実検をすればよい。


 だが、収穫量が増えたという報告が真実かどうかは、帳簿だけでは分からない。治水事業の成果も、役人が用意した道を馬車で通っただけでは見抜けない。


 だから監察官は、領地へ赴く。


 帳簿を見る。倉を見る。水路を見る。橋を見る。村を見る。そして、領民の顔を見る。


 もっとも、王国中の貴族領を一つずつ丁寧に回っていては、監察官が何人いても足りない。


 そのため内政視察は、地域ごとにまとめて行われるのが常であった。


 今回エドウィンが赴いたのは、王国東部に流れるラウエン川の流域である。


 この地方では、二年前の長雨によって各地で水害が発生した。


 その後、いくつかの貴族家から王宮へ報告が上がっている。


 治水事業により被害を抑えた。


 復興政策により収穫量を回復させた。


 農政改革により納税額を増やした。


 いずれも、功績として認められれば爵位継続審査に関わる。


 エドウィンはその真偽を確かめるため、王都を発った。


     ◇


 ラウエン川流域で、最も派手な報告を上げていたのはヴァルナー子爵であった。


 ヴァルナー子爵領に入ると、街道はよく整えられていた。


 道の両脇には新しい柵があり、橋には真新しい欄干が付けられている。水路の縁は石で固められ、視察の馬車が通る道には、泥ひとつ見当たらなかった。


「ご覧ください、監察官殿」


 ヴァルナー子爵は自ら馬を進め、誇らしげに手を広げた。


 年の頃は四十過ぎ。よく手入れされた顎髭に、鮮やかな外套。声はよく通り、仕草には自信があった。


「二年前の長雨で、この一帯は危機に陥りました。水路は溢れ、畑は水に沈み、民は不安に怯えていた。ですが私は、ただちに復興を命じたのです」


「ただちに、ですか」


「ええ。ただちに」


 子爵は満足げに頷いた。


「堤を築き直し、水路を深く掘り、橋を架け直した。おかげで昨年の収穫は大きく回復し、国庫への納税も滞りなく果たしました。むしろ長雨以前より増えております」


「それは結構」


 エドウィンは短く答え、馬上から水路を眺めた。


 確かに新しい。


 石積みは綺麗で、流れも整っている。橋も堅牢に見えた。


 視察に出された帳簿にも、大規模な復興費用が記されている。工事に使った人夫の数、材木の量、石材の運搬費。どれも整っていた。


「王宮へ提出された報告では、復興事業により収穫量が三割回復したとあります」


「回復ではなく、増加と申し上げたいところですな」


「長雨以前と比べても、ですか」


「無論です」


 ヴァルナー子爵は笑った。


「危機は人を鍛えます。領地も同じです。あの水害があったからこそ、我が領はより強くなった」


 随行していた子爵家の役人たちが、揃って頷いた。


 エドウィンは水路から視線を戻す。


「水害以前の補修記録を見たい」


「もちろん用意しております」


 子爵は即座に答えた。


 だが、ほんのわずかに笑みが薄くなった。


     ◇


 ヴァルナー子爵の館では、夕食前に帳簿が並べられた。


 復興以後の帳簿は見事だった。


 水路工事、橋梁修理、堤防補強、倉庫増築。


 どの項目にも金額と日付があり、証人欄には子爵家の役人や村長の名が記されている。


 一方、水害以前の帳簿は薄かった。


 特に水路と堤の補修費が少ない。


 エドウィンは数年分をめくり、指を止めた。


「この三年間、水路の浚渫費がほとんどない」


「長雨以前は、そこまで大きな問題がありませんでしたからな」


「問題がなかったから、補修しなかったと」


「限られた財をどこに使うかは領主の判断です。不要な工事に民を駆り出すわけにもいきますまい」


 子爵は澄ました顔で言った。


「それに、結果として私は危機を立て直した。復興は成功し、税収も回復した。それが何よりの証拠でしょう」


 エドウィンは帳簿を閉じた。


「明日は、視察路から外れた村も見る」


 室内の空気が、わずかに硬くなった。


 ヴァルナー子爵は笑みを保ったまま言う。


「もちろんです。ただ、そちらの道はぬかるみが多く、馬車では少々不便かと」


「馬で行く」


「それでしたら、案内役を手配いたしましょう」


「村の者に聞く。案内は不要だ」


 子爵の笑みが、今度こそ消えた。


     ◇


 翌朝、エドウィンは視察路を外れた。


 子爵が整えた街道から一本外れると、景色は変わった。


 道は細く、車輪の跡に水が溜まっている。橋の欄干は古く、ところどころ縄で縛られていた。


 水路の石積みは途中で途切れ、そこから先は土の溝である。


 村人たちは、エドウィンが監察官だと知ると、最初は口を閉ざした。


 だが、子爵家の役人を遠ざけ、一人ずつ話を聞くと、ぽつりぽつりと証言が出た。


「堤の傷みは、長雨の前から分かっておりました」


「修理を願い出たのは?」


「三度ほど。ですが、館からは返事がありませんでした」


「水害後の復興費は、子爵家が出したのか」


 村長は困った顔をした。


「一部は。ですが、臨時の徴税もありました」


「税率は」


「普段の三割に加え、復興分として一割」


「合わせて四割か」


「水を被った畑の村では、さらに麦の貸付がありました。借りた分は、来年返せと」


「利子は」


 村長は答えなかった。


 沈黙が答えであった。


 エドウィンは水路沿いを歩いた。


 真新しい石積みは、視察路沿いだけで終わっていた。


 そこから先の水路には泥が溜まり、葦が生えている。


 水害からの復興は、確かに行われていた。


 だが、それは危機を未然に防いだ結果ではない。


 危機が形になってから、目に見える場所を整えたに過ぎない。


 エドウィンは記録簿に短く書き込んだ。


 ――復興功績あり。ただし、予防義務の不履行および領民への過重負担を確認。


     ◇


 次に向かったのは、ヘルムート男爵領である。


 ヴァルナー子爵領と比べると、実に地味な土地だった。


 街道は広くない。


 橋も新しくはない。


 館も大きくはない。


 門に掲げられた紋章は古びており、兵士の鎧も質素だった。


 ヘルムート男爵は老齢の貴族であった。


 白髪は薄く、背は少し曲がっている。だが、礼の所作は丁寧で、声は落ち着いていた。


「遠路、ようこそお越しくださいました。監察官殿」


「視察を始めたい」


「承知しております」


 男爵は傍らに立つ青年へ目を向けた。


「領内の案内は、代官補佐のリュシアンに任せます。水路、倉、橋、村の税帳まで、私より詳しい」


 青年は一歩前へ出た。


 二十代半ばほどだろうか。


 派手な衣服は着ていない。貴族の従者にしては質素で、村役人にしては立ち姿が整っている。


「リュシアンと申します。ヘルムート男爵家の遠縁にあたりますが、現在は代官補佐として領務に携わっております」


「遠縁か」


「はい。血は薄いものです」


 リュシアンは苦笑した。


「ですが、この地で育ちました。案内には不足しないかと」


「では案内してもらおう」


 エドウィンはそう言って、男爵を見た。


「貴殿は同行しないのか」


「私が歩くと、皆が気を遣います」


 ヘルムート男爵は穏やかに答えた。


「監察官殿には、普段の領地を見ていただきたい」


 ヴァルナー子爵とは逆であった。


 あちらは自ら案内し、成果を語り続けた。


 こちらは実務を知る者に任せ、自分は退いた。


 エドウィンは何も言わず、記録簿に一行だけ書いた。


 ――領主、視察案内を代官補佐に委ねる。


     ◇


 ヘルムート男爵領の帳簿は、見栄えがしなかった。


 収穫量は横ばい。


 税収も横ばい。


 新規開拓なし。


 大規模な治水事業なし。


 山賊討伐なし。


 王宮に功績として誇れるような数字は、ほとんどない。


 だが、帳簿をめくるほど、エドウィンは目を細めた。


 水路浚渫費。


 橋梁補修費。


 備蓄倉の入れ替え費。


 井戸修理費。


 衛兵詰所の修繕費。


 どれも小さい。


 だが、毎年必ず記録されている。


「この水路は毎年浚っているのか」


「はい」


 リュシアンは即答した。


「ラウエン川は穏やかに見えますが、春と秋に泥を運びます。二年放置すれば流れが鈍り、三年放置すれば低い畑が水を被ります」


「水害は」


「二年前の長雨で、水位は上がりました」


「被害報告は出ていない」


「堤が持ちましたので」


 リュシアンは当たり前のように言った。


 エドウィンは彼を見た。


「被害が出なかったから、報告しなかったのか」


「はい。被害がないものを、功績として報告する発想がありませんでした」


「なるほど」


 エドウィンは水路の縁に立った。


 石積みは新しくない。苔もついている。


 だが、隙間は埋め直され、流れは澄んでいた。溝の底に泥は少なく、水の動きに淀みがない。


「橋も見ますか」


「見る」


 案内された橋は古かった。


 木材は黒ずみ、欄干には修繕の跡がいくつもある。


 だが、足を乗せても軋まない。


「古いな」


「はい。古いです」


「架け替えないのか」


「まだ使えます。落ちる前に補修すればよいので」


 リュシアンは橋の下を覗き込み、支柱を指差した。


「去年、ここを替えました。上だけ見ると分かりにくいですが、下は新しい材です」


 確かに、支柱の一部だけ色が違った。


「王宮への報告には」


「出していません」


「なぜ」


「橋が落ちたわけではありませんので」


 エドウィンは小さく息を吐いた。


 この領地では、問題が起こる前に手が打たれている。


 だから大きな問題が起きない。


 そして、大きな問題が起きないから、功績として報告されない。


     ◇


 村では、領民たちが普通に話した。


 それがまず、エドウィンには印象的であった。


 ヴァルナー子爵領の村人は、領主の役人が近くにいるだけで口を閉ざした。


 だがヘルムート男爵領では違う。


 村長は税帳を見せ、倉番は備蓄量を答え、水車守は堰板の交換時期を説明した。


「男爵に不満はないのか」


 エドウィンが尋ねると、年老いた村人は困ったように笑った。


「不満ですか。税は取られますし、堤の修理にも出されます。楽ではありませんな」


「では不満はあるのだな」


「まあ、生きていれば不満くらいあります」


 村人は肩をすくめた。


「ただ、飢えたことはありません。凶作の年には倉が開きますし、橋が落ちて市へ行けぬということもない。盗賊が出ればすぐ衛兵が来ます」


「男爵は慕われているのか」


「慕う、というほど大げさなものではありません。いてくだされば安心、というだけで」


 その言葉に、リュシアンの表情がわずかに曇った。


 エドウィンは横目でそれを見る。


 村を出たところで、リュシアンがぽつりと言った。


「この地は、男爵様が治めている限り大丈夫です」


「その言い方では、男爵が死んだ後は大丈夫ではないように聞こえる」


「……申し訳ありません」


「謝る必要はない。事実か」


 リュシアンはしばらく答えなかった。


 川沿いの道を歩きながら、彼は遠くの水車を見た。


「ヘルムート男爵には、お子がいません」


「知っている」


「男爵様は三代目です。爵位を継ぐ者がいなければ、いずれ領地は王国へ返上されます」


「制度上はそうなる」


「次に来る領主が、同じように治めてくださるとは限りません」


 リュシアンの声には、抑えた不安があった。


「この領地は豊かではありません。けれど壊れてもいない。だからこそ、功績を求める方が来れば、何かを変えようとするでしょう。新しい開拓、増税、特産品の奨励、街道の拡張……」


「悪いことばかりではない」


「はい。ですが、急げば壊れます」


 リュシアンは足を止めた。


「水路も、橋も、倉も、人も。少しずつなら変えられる。ですが、功績として見えるほど急に変えようとすれば、必ずどこかに無理が出ます」


「それを男爵に言ったことは」


「あります」


「男爵は何と」


「自分に子がない以上、仕方がないと」


 リュシアンは俯いた。


「自分が死ぬ日までは責任を持って治める。それ以上を望むのは、分を越えていると」


 エドウィンは水車を見た。


 車輪はゆっくりと回っていた。


 何事もないように。


 ただ、止まらぬように。


     ◇


 視察の最終日、エドウィンはヘルムート男爵の館で報告前の確認を行った。


 部屋には男爵、リュシアン、家令、代官が控えている。


 卓上には帳簿が積まれていた。


「結論から言う」


 エドウィンは記録簿を開いた。


「ヘルムート男爵領の統治は、功績として評価に値する」


 部屋が静まり返った。


 最初に反応したのは、リュシアンだった。


「本当ですか」


「嘘を言う理由がない」


 ヘルムート男爵は、困惑したように眉を下げた。


「監察官殿。私は、ただ凡庸に治めただけです」


 その声は静かだった。


「目覚ましい開拓をしたわけでもない。盗賊を討ったわけでもない。飢饉から領民を救った英雄でもない。ただ、父から受け継いだ土地を、壊さぬように守ってきただけです。そのようなものが、本当に功績と呼べるのでしょうか」


「呼べます」


 エドウィンは迷わず答えた。


「王国が監察官を置くのは、貴族を罰するためではありません。功績を、適切に評価するためです」


 ヘルムート男爵は、ゆっくりと顔を上げた。


「大きな問題を起こし、それを立て直した者だけが評価されるなら、貴族たちは問題が大きくなるまで待つようになる。水路は壊れるまで放置され、倉は空になるまで見過ごされ、領民の不満は反乱寸前まで積み上げられるでしょう」


 エドウィンは、窓の外に広がる村を見た。


 煙突から細く煙が上がり、石橋を荷車が渡っている。川沿いの水車は、何事もなかったように回っていた。


「一方で、毎年水路を浚い、橋を直し、備蓄を入れ替え、税を規定以上に取らず、領民が飢える前に手を打った者が『何も起こしていない』という理由で評価されないなら、それは王国にとって損失です」


「損失……ですか」


「ええ」


 エドウィンは頷いた。


「貴殿を評価するのは、ただ善良な領主だからではありません。誠実に治めた者が正当に評価されると示すことが、他の貴族への抑制になるからです」


 ヘルムート男爵は黙っていた。


「功績を喧伝するために危機を育てる者より、危機を危機になる前に潰し続けた者を評価する。その基準を王国が示さねばならない」


 エドウィンは言った。


「そうでなければ、王国中の貴族が、燃えた倉を建て直す功ばかりを求めるようになる。倉を燃やさぬために屋根を直す者が、いなくなる」


 ヘルムート男爵の皺深い手が、膝の上でわずかに震えた。


「私は……そのような大層なことをしてきたつもりはありません」


「つもりの有無は関係ありません。貴殿の領地では、長年、大きな飢えも、大きな反乱も、大きな流出も起きていない。領民は領主の名を聞いて怯えず、家臣は貴殿の死後を憂いている」


 エドウィンは、男爵の傍らに控えるリュシアンへ視線を向けた。


「それは凡庸ではありません。継がせる価値のある統治です」


 リュシアンが息を呑んだ。


 ヘルムート男爵は小さく首を横に振る。


「ですが、私には子がありません」


「ええ」


「私が死ねば、この地は王国へ返上される。それが制度です」


「制度は、領地を荒らすためにあるのではありません」


 エドウィンは言った。


「貴殿が死ねば、この地は王国へ返る。王国へ返れば、次に来る領主を貴殿は選べない」


 その言葉に、部屋の空気が変わった。


 リュシアンだけではない。


 家令も、代官も、顔を強張らせていた。


「新しい領主が、貴殿と同じように水路を浚うとは限らない。橋を落ちる前に直すとも限らない。税を三割で留めるとも限らない。功績を求め、改革の名でこの地を壊す者が来る可能性もある」


「……それは」


「貴族の義務とは、血統を残すことだけではありません。領地と領民の安寧を、次代へ渡すこともまた義務です」


 エドウィンはリュシアンを見た。


「この地を知り、この地の民を知り、この地を壊さぬ者がいるなら、選べるうちに選ぶべきです」


 ヘルムート男爵の視線が、リュシアンへ向いた。


 リュシアンは動揺した。


「私、ですか」


「貴殿はヘルムート男爵家の遠縁だと聞いた」


「血は薄いです。正式な継承権など、ほとんどありません」


「養子に迎えればよい」


「監察官殿」


 ヘルムート男爵が口を開いた。


「リュシアンは確かに遠縁です。幼い頃からこの領地で育ち、代官補佐としてよく働いてくれている。だが、貴族社会は血筋を見ます。家臣上がりに近い遠縁を養子に迎えれば、笑う者もいるでしょう」


「王都の貴族は笑うかもしれません」


 エドウィンは淡々と言った。


「ですが、この地の水路の位置を知っているのは誰です。飢饉の年に、どの村へ先に麦を送るべきか知っているのは誰です。領民が名を聞いて安心するのは、どこの誰です」


 ヘルムート男爵は答えられなかった。


「血が濃いだけの者を迎えれば、家名は整うかもしれない。だが、領地が壊れるなら、それは貴族の務めを果たしたことにはなりません」


 リュシアンは俯いていた。


「私は……領主になる器ではありません」


「そう思うなら、まだ見込みがあります」


 エドウィンは言った。


「自らを器だと疑わぬ者ほど、領地を壊す」


 部屋の隅で、老家令が小さく笑った。


 ヘルムート男爵もまた、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「リュシアン」


 男爵は静かに呼んだ。


「お前は、この地を継ぎたいか」


 リュシアンはすぐには答えなかった。


 窓の外を見た。


 水車が回っている。


 橋を荷車が渡る。


 村の子供たちが、犬を追いかけて走っている。


 何も起きていない日常が、そこにあった。


「継ぎたい、という言葉が正しいのかは分かりません」


 やがてリュシアンは言った。


「ですが、この地が壊れるのは見たくありません」


 ヘルムート男爵は深く息を吐いた。


「それは、私も同じだ」


     ◇


 数日後、ラウエン川流域視察の報告書が王都へ送られた。


 ヴァルナー子爵について、エドウィンはこう記した。


 水害後の復興事業は事実であり、一定の成果も認められる。


 ただし、水害以前より堤と水路の劣化を把握していながら、必要な補修を怠っていた証言がある。


 復興費の一部は領民への臨時徴税と高利の穀物貸付によって賄われており、功績として申告された税収回復には過重負担が含まれる。


 よって、復興功績は限定的に認めるが、爵位継続に足る大功としては不適。


 一方、ヘルムート男爵については、こう記した。


 長年にわたる水路維持、橋梁補修、備蓄管理、適正徴税、治安維持により、二年前の長雨においても大きな飢餓、流民、反乱を発生させなかった。


 大規模な新規事業こそないが、領民の生活基盤を安定させ、王国東部の穀倉地帯を支える統治を継続している。


 これは「問題発生後の復興」ではなく、「問題を大事に至らせぬ統治」である。


 誠実な統治を王国が評価しなければ、貴族たちは危機を未然に潰すより、危機を功績として利用する道を選ぶ。


 よって、ヘルムート男爵の長期安定統治を功績として認定すべきである。


 さらに、遠縁リュシアンを養子として迎え、従来の統治方針を継承するならば、爵位継続審査の対象とする価値がある。


 報告書の最後に、エドウィンは一文を添えた。


 ――何も起きなかったことは、偶然ではない。誰かが起こさせなかった結果である。


     ◇


 王都へ戻る前日、エドウィンはもう一度、ヘルムート男爵領の橋を渡った。


 川は穏やかだった。


 水車は変わらず回っている。


 橋の上では、リュシアンが村長と何かを話していた。


 エドウィンに気づくと、リュシアンは慌てて頭を下げる。


「監察官殿」


「堰板の件か」


「はい。来年替える予定でしたが、今年のうちに替えます。冬を越す前に済ませた方がよいと」


「そうか」


「……地味な仕事ですね」


「地味で結構」


 エドウィンは川面を見た。


「地味な仕事ほど、途切れた時に大きく響く」


 リュシアンはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「覚えておきます」


 エドウィンは馬へ向かって歩き出した。


 背後では、水車が回り続けている。


 誰も歓声を上げない。


 誰も英雄を称えない。


 ただ、水は流れ、橋は落ちず、村人は今日も普段通りに暮らしている。


 それを凡庸と呼ぶ者もいるだろう。


 だがエドウィンは知っている。


 王国を支えているのは、戦場で掲げられる首級だけではない。


 燃えた倉を建て直す者だけでもない。


 燃えぬように屋根を直し続ける者もまた、確かに王国を支えているのだ。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回の話は、ITプロジェクトなどでたまに見かける、


「自分たちで炎上させた案件を、徹夜でなんとかリリースして高評価」

「事前に問題を潰して、何事もなく終わらせた案件は普通評価」


みたいな構図を、異世界の内政視察に置き換えてみました。


派手に立て直した功績と、そもそも問題を起こさないための地味な積み重ね。


どちらをどう評価するかで、組織や国の方向性は変わってしまうのだと思います。


王国監察官エドウィンは、そういう「見えにくい功績」を見定める役として、今後も色々な貴族や領地を見ていく予定です。


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