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「王国監察官(ケンソル)エドウィン」  作者: mr.Bones


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第一話 泥濘の戦功

 バルドリア大陸の中央に位置するロムルス王国。


 この国において、功績によって爵位を得た家は、三代に限り爵位と領地の世襲を認められる。


四代目へ継がせるには、三代のうちに再び爵位に見合う功績を立てねばならない。


果たせなければ爵位は剥奪され、領地は王国へ返上される。


それは男爵であろうと、伯爵であろうと、侯爵であろうと例外はない。


むしろ、高位貴族ほどその目は厳しい。


財力がある。兵がいる。家臣がいる。人脈がある。王国から権限を預けられている。


それだけのものを持ちながら、三代の間に国へ返すものが何もないならば、その家に貴族である資格はない。


建国王が定めたその制度は、かつて理想と呼ばれた。


貴族が特権に胡座をかかず、権利に見合う義務を果たすための制度。


平民や騎士が功績によって貴族へ上がり、怠惰な貴族が特権を失うための制度。


公正に運用されるならば、それは確かに理想であった。


公正に運用されるならば、だ。


「山賊二十名の討伐を、辺境反乱の鎮圧と報告した子爵がいた」


野営地の天幕の中で、エドウィンは焼いた黒パンを手で割りながら言った。


その向かいに座る若い貴族が、苦笑とも驚きともつかぬ顔をする。


「それはまた……大胆な」


「大胆ではない。雑だ」


 エドウィンは淡々と返した。


「別の伯爵は荒地の開墾を功績として報告した。麦の収穫量が三割増え、王国への納税も増えたと」


「良いことではありませんか」


「農民から四割、ひどい村では五割を徴税していた。国の規定は三割だ。収穫量が増えたのではない。飢える者が増えただけだ」


若い貴族は口を閉ざした。


彼の名はクロイツ男爵。


祖父が戦功をたて男爵位を得た貴族の三代目である。


つまり、後がない。


この戦で功績を立てられなければ、クロイツ家は爵位を失う。領地も失う。祖父の武勲も、父の苦労も、彼の代で終わる。


「だから監察官が必要になった」


エドウィンは言った。


「貴族の報告を、そのまま王宮が信じていた時代は終わった。内政の功績なら領地へ赴き、帳簿と倉庫と村を見て評価する。他国との戦争なら従軍し、誰が何をしたかを記録する」


「王国監察官……ケンソル」


「そうだ」


 クロイツは少し身を乗り出した。


「貴殿は、元は貴族だったと聞きました」


 天幕の空気が、わずかに冷えた。


 エドウィンは黒パンを噛み、何もなかったように飲み込んだ。


「珍しいことではない」


「珍しいでしょう」


 クロイツ男爵は、少しだけ言いにくそうに続けた。


「監察官は、爵位を持つ貴族はなれない。貴族同士では、どうしても癒着が生まれるからです。任じられるのは、王都の上級官吏か、騎士団で副団長格まで昇った者が普通だと聞いています」


「よく調べている」


「私には必要なことです」


 クロイツは苦く笑った。


「功績を立て、推薦を受け、任命試験を通れば、元貴族でも監察官になれる。そういう例外もあるそうですね」


 そこで彼は一度、言葉を切った。


「ですが……任命試験を通るほどの方であれば、本来、爵位を剥奪されるような事態にはならないのではないかと」


 言ってから、クロイツ男爵は自分の失言に気づいたように顔を強張らせた。


「失礼を申しました」


「いや」


 エドウィンは表情を変えなかった。


「その認識は、おおむね正しい」


「……おおむね、ですか」


「世の中には、本人の能力だけではどうにもならないこともある」


 クロイツは返す言葉を失った。


 エドウィンはそれ以上語らない。


 ただ、記録簿に視線を落とした。


「続けろ。貴殿が監察官制度まで調べている理由を聞こう」


 クロイツは笑った。


 だが、その笑みには余裕がなかった。


「祖父が男爵になり、父が継ぎ、私が三代目です。この戦で功績を上げねば、クロイツ家は終わる。男爵家の財では、そう何度も戦に出ることもできません。今回も、来年収穫する麦を担保に、商人から金を借りました」


「そうか」


「そうか、で済ませますか」


「済ませる」


 エドウィンは立ち上がった。


「私は別の場所で食事を取る。男爵はここでゆっくりしてくれ」


「ここで一緒に食べれば良いではありませんか」


「駄目だ」


 エドウィンは即答した。


「男爵。私は監察官だ。功績の評価対象者である貴殿と、私的な交流を深めるわけにはいかない」


「食事を共にするだけで、ですか」


「それだけで十分だ。貴殿が功績を上げた際、親しくしていたから功績を水増しした、という物言いがつく可能性がある」


 クロイツ男爵は少し困ったように笑った。


「監察官殿は、ずいぶん慎重なのですね」


「慎重でなければ務まらない」


 王国監察官――ケンソルは、王都に籍を置く上級役人である。


 その権限と待遇は、大臣の下に置かれる次官級に等しい。


 貴族ではない。だが、ただの役人でもない。


 戦場では貴族たちの功績を記録し、内政では領地へ赴いて収穫量、徴税、治水、治安、人口の増減まで調べ上げる。その報告は王宮の裁定に直結し、ときには爵位と領地の存続さえ左右する。


 だからこそ、監察官は下級役人では務まらない。


 身分が低ければ、貴族に侮られる。


 給金が安ければ、賄賂に転ぶ。


 権威がなければ門前払いされ、待遇が悪ければ金貨袋ひとつで報告書の文面が変わる。


 それでは意味がない。


 王国が監察官に次官級の待遇を与えるのは、贅沢のためではない。貴族の前で膝を折らせないためであり、賄賂を受け取らせないためである。


「私は貴殿の友人ではない」


 エドウィンは言った。


「だが、敵でもない。ただ、貴殿が何を成したかを記録する者だ」


 クロイツ男爵は、しばらく黙っていた。


 焚き火の火が小さく爆ぜる。


「……そこまでしなければ、功績というものは歪むのですか」


「歪む」


 エドウィンは即答した。


「小さな山賊討伐が反乱鎮圧になり、徴税を増やしただけの農政改革が収穫増になる。戦場なら、なおさらだ。誰がどこで何をしたかなど、勝った後にはいくらでも語り直せる」


 クロイツ男爵の指が、木杯の縁を強く押した。


「父も、そうでした」


「何の話だ」


「父は一度、敵国の大将首を上げたことがあります」


 エドウィンは視線だけを向けた。


 クロイツ男爵は、焚き火を見つめたまま続ける。


「本来なら、それで我が家は爵位を保てた。男爵家にとっては十分すぎる功でした。王宮からの報奨金も出たでしょう。借金を返してなお、領地に水路を引けるほどの」


「なら、なぜ今になって貴殿が後がないと言う」


「その首は、マロード子爵のものになりました」


 エドウィンは黙った。


「父は当時、マロード子爵から借金をしていました。出陣の費用です。兵糧、馬、矢、槍、従者の給金。男爵家が一度戦に出るだけで、領地の倉が空になります」


「借金の帳消しと引き換えに、首級を譲ったのか」


「はい」


「父君は了承したのか」


「了承、という形にはなっています」


 クロイツ男爵は笑った。


 だが、それは笑みではなかった。


「近隣貴族のまとめ役である伯爵お気に入りの子爵に求められて、断れる男爵がどれほどいるでしょうか」


 エドウィンは答えなかった。


「首実検の場では、マロード子爵の家臣が証言しました。父の従者は、その戦で死んでいました。残った者たちも、子爵家に逆らえる立場ではなかった」


「証拠は」


「ありません」


「証人は」


「いません」


「ならば、その件について私は何もできない」


 冷たい言葉だった。


 クロイツ男爵の顔が、わずかに強張る。


 だがエドウィンは言葉を変えなかった。


「監察官は同情で報告書を書かない。証拠のない過去を裁くこともできない」


「……分かっています」


「だが」


 エドウィンは記録簿を閉じた。


「今回の戦で貴殿が何をしたかは、私が記録する」


 クロイツ男爵が顔を上げた。


「誰の家格も、誰の借金も、誰の声の大きさも関係ない。貴殿が成したことだけを記す」


 焚き火の光が、クロイツ男爵の顔を赤く照らした。


 彼はしばらく黙っていた。


 やがて、木杯を胸の前で軽く掲げる。


「では、監察官殿」


「何だ」


「私が本当に功を立てた時は、公正に記録していただきたい」


「それが私の職務だ」


 エドウィンはそう言って、記録簿を閉じた。


「私は別の場所で食事を取る。男爵はここでゆっくりしてくれ」


「……ここで一緒に食べれば良いではありませんか」


「駄目だ。さきほども言った通り、私は監察官だ。功績の評価対象者である貴殿と、私的な交流を深めるわけにはいかない」


「徹底しているのですね」


「徹底しなければ、誰かの功績が歪んでしまう」


 クロイツ男爵は、返す言葉を失った。


 エドウィンは天幕の入口へ向かう。


 ただ、出る直前に一度だけ振り返った。


「功績とは、目立つ敵の大将首だけではない」


「え?」


「覚えておけ。勝利に必要だった働きこそが、功績だ」


 その言葉の意味を、クロイツ男爵が本当に理解するのは二日後のことであった。


     ◇


 オルセス子爵領は、ロムルス王国の西境にある。


 小麦と羊毛を産する平凡な領地だが、街道が通り、川が流れ、水車小屋が並ぶ。


 隣国ヴァルグラント公国がそこへ侵攻した。


 オルセス子爵は防衛軍一千を集め、領都近くの砦へ籠もった。


 救援に来たのはオルデイス伯爵を大将とする貴族連合三千五百。


 近隣貴族のまとめ役であるオルデイス伯爵は、子飼いのオルセス子爵領が攻められたと知るや、周辺の貴族へ声をかけた。


 表向きは義による援軍。


 実態は功績を求める貴族たちの群れである。


 他国ならば、隣領の危機に兵を出し渋る貴族も多い。


 だがロムルス王国では違う。


 他人の領地を守る戦ならば、自領を焼かれずに功績を得られる。敵国への侵攻ならば、なお良い。


 貴族たちは義務と欲と家の都合を抱え、オルセス領へ集まった。


「敵は七千五百前後」


 軍議の席で、オルデイス伯爵はそう告げた。


 白髪交じりの髭を整えた、重厚な男であった。


「旗の数、炊煙、行軍幅から見て、その程度だろう。攻撃に出るのは五千。残りは本陣、荷駄、予備だ」


 諸貴族が頷く。


 エドウィンは末席で黙って聞いていた。監察官に作戦指揮権はない。あるのは記録し、評価する権限だけだ。


「砦には二千を残す。残り二千五百で敵本陣を探り、機を見て叩く」


「伯爵閣下」


 そこで声を上げた者がいた。


 マロード子爵である。


 痩せた顔に、よく手入れされた髭。鎧は実用より装飾に重きを置いている。父祖の代からオルデイス伯爵に近い家柄であり、この場でも遠慮がなかった。


「私は本陣急襲部隊に加わりたい」


 オルデイス伯爵は眉を寄せた。


「貴殿は砦の守備に配置している」


「守備など、オルセス子爵とクロイツ男爵で足りましょう。私は騎兵を持っております。敵本陣を突くなら、私の兵が必要です」


「砦を抜かれれば終わりだ」


「抜かれませぬ。敵は多く見積もっても七千五百。砦攻めに来るのは五千程度。二千の守備なら十分です」


 マロード子爵は、ちらりとクロイツを見た。


「それに、男爵家にも功績の機会を与えねばなりません。砦を守り切れば、多少の評価は得られるでしょう」


 多少。


 その言葉に、クロイツの拳が膝の上で固く握られた。


 オルデイス伯爵はしばし沈黙し、やがて言った。


「よかろう。マロード子爵は急襲部隊へ移れ。砦の守備はオルセス子爵、クロイツ男爵を中心とする」


 決定であった。


 エドウィンは羊皮紙に記した。


 ――マロード子爵、当初配置を変更。防衛拠点守備より敵本陣急襲部隊へ。


 マロード子爵は満足げに笑った。


 クロイツ男爵は何も言わなかった。


     ◇


 敵が姿を見せたのは、翌朝である。


 丘の向こうから現れた兵列は、予想より長かった。


 旗は少ない。


 だが、槍の穂先が多すぎた。


「……多い」


 砦の胸壁上で、クロイツ男爵が呟いた。


 エドウィンも同じものを見ていた。


 通常、軍は旗や幟を多く掲げる。己の兵力を大きく見せ、敵の士気を折るためだ。


 だが今回の敵は逆だった。


 旗を減らし、部隊を谷と林に隠し、兵力を少なく見せていた。


「七千五百ではない」


 エドウィンは言った。


「総数は一万を超える」


「では、砦へ来るのは」


「八千前後」


 クロイツの顔色が変わった。


「二千で八千を受けるのですか」


「受けるしかない」


 砦の正面には牧草地が広がっている。


 一見すれば、騎兵も歩兵も通れる広い平地だった。


 だが、オルセス領の者なら知っている。


 そこは川沿いの低地で、春と秋には水が浮く。上流の水車小屋の堰を閉じれば、水は古い水路を伝って草の下へ回る。


 乾いて見える草地の下は、すでに泥だった。


「クロイツ男爵」


 オルセス子爵が胸壁へ駆け上がってきた。青ざめているが、声は震えていない。


「予定通りだ。第一柵を支え、敵が低地へ入ったら堰を切る」


「敵が多すぎます。予定より早く切るべきでは?」


「早く切れば、前列しか沈まぬ。後続は止まり、別の道を探す」


 クロイツは息を飲んだ。


「では、あえて入れるのですか」


「そうだ」


 オルセス子爵は砦の前を見た。


「この地は私の領地だ。敵よりは知っている」


 敵の太鼓が鳴った。


 盾を構えた歩兵が前進を始める。後ろには梯子、破城槌、重装の騎士たち。


 数が多い。


 あまりにも多い。


 第一柵に敵が殺到した。


 矢が降る。石が落ちる。弩が唸る。


 敵の前列が倒れた。だが後続がすぐに穴を埋める。


「押されているぞ!」


「槍を下げるな!」


「油を持ってこい!」


 叫び声が飛び交う。


 第一柵の一部が砕けた。


 敵兵がなだれ込む。


 クロイツは馬を降り、自ら槍を取った。


「男爵! 危険です!」


「ここで下がれば、我が家は終わる!」


 叫びながら、クロイツは敵の盾を槍で押し返した。


 家臣が一人、喉に矢を受けて倒れる。


 別の一人が斧で肩を砕かれる。


 敵の数は減らない。


 砦の前庭へ、敵が入り込み始めた。


「子爵! もう限界です!」


 クロイツが叫ぶ。


 オルセス子爵は唇を噛んだ。


 その時、砦の塔から見張りが声を上げた。


「敵の破城槌、城門前へ!」


 巨大な丸太を吊った車付きの破城槌が、ぬかるみかけた草地を進んでくる。


 その後ろに、敵兵が密集していた。


 オルセス子爵は目を閉じ、一呼吸置いた。


「黒旗を上げろ」


 塔の上に黒い旗が掲げられた。


 遠く上流、水車小屋の方で鐘が一度鳴った。


 次の瞬間、砦前の草地が沈んだ。


 激流ではない。


 だが、水は草の下から湧くように広がり、泥を動かした。


 破城槌の車輪が沈む。


 盾を構えた兵が膝を取られる。


 後続が止まれず前列へぶつかる。


 馬が嘶き、騎士が泥へ落ちた。


「何だこれは!」


「足が抜けん!」


「押すな! 押すな!」


 敵の隊列が崩れた。


 そこへ砦の弩兵が矢を放つ。


 狙う場所は決まっていた。


 橋。浅瀬。泥から這い上がる坂道。


 敵兵は数で勝っている。だが、一度に戦える人数は限られた。


 八千の兵は、泥と水路と柵によって、前に出られる数百へと削られていた。


「今だ! 右柵を閉じろ!」


 クロイツが叫んだ。


 あらかじめ倒してあった柵を、残った兵が縄で引く。


 泥から抜け出そうとした敵の一団が、斜めに閉じた柵に押し込まれた。


「槍!」


 クロイツの命令で、槍兵が一斉に突き出す。


 敵が崩れた。


 だが、守備側も無傷ではない。


 クロイツの家臣は次々に倒れた。


 借金して集めた兵。父の代から仕えた者。幼い頃から顔を知る者。


 それでもクロイツは下がらなかった。


「男爵、後ろへ!」


「下がらん!」


 額から血を流しながら、クロイツは泥に足を取られた敵兵を斬った。


「ここを抜かれれば、すべて終わる!」


     ◇


 同じ頃、敵本陣の背後では火の手が上がっていた。


 索敵に出ていたラングレー卿が、敵総大将の陣を発見したのである。


 旗は少なかった。


 だが、陣幕に描かれた黒狼の紋章。周囲を固める重装騎士の家紋。副官たちの配置。荷駄の位置。伝令の出入り。


 それらを読み解き、ラングレー卿は敵総大将がそこにいると見抜いた。


 彼は少数の手勢で敵の掌握する森を抜け、敵本陣の位置を急襲部隊へ届けた。


 もし途中で見つかれば、全滅していた。


 報告を受けたオルデイス伯爵は、即座に本隊を動かした。


「敵は砦攻めに兵を出し過ぎた。今なら本陣の守りは薄い」


 老伯爵は馬上で剣を抜いた。


「ラングレー卿の命を賭けた報告、無駄にはせぬ。総大将の旗を倒すぞ」


「伯爵閣下、我が騎兵を先陣に!」


 マロード子爵が進み出た。


 彼の目は血走っていた。


 敵本陣を叩く。


 そこで首級を上げれば、砦の守備などより遥かに大きな功となる。


 そう考えていたのは、彼一人ではなかった。


 だが、オルデイス伯爵は短く命じた。


「マロード子爵。貴殿は左翼を崩せ」


「総大将の陣ではなく?」


「左翼の騎士隊を抑えねば、本隊の横腹を食われる。任せた」


 命令であった。


 マロード子爵は一瞬だけ顔を歪めたが、すぐに頭を下げた。


「承知いたしました」


 急襲は成功した。


 敵本陣の守りは薄かった。


 砦攻めに主力を出し過ぎたため、総大将の周囲に残っていたのは近衛騎士と予備兵、そして各部隊の伝令だけだった。


 オルデイス伯爵の本隊は、真正面から本陣へ食い破った。


 ラングレー卿が示した紋章の幕を目印に、騎兵が突っ込む。


 馬が倒れ、槍が折れ、剣が兜を叩く音が森の中に響いた。


 老伯爵自身も馬上から指揮を取り、敵の近衛兵を左右に割った。


「黒狼の陣幕だ! そこを破れ!」


 伯爵本隊の騎士たちが、敵総大将の護衛へ斬り込んだ。


 戦いは短く、激しかった。


 そして、黒狼の大旗が倒れた。


「敵総大将、討ち取ったり!」


 オルデイス伯爵の旗の下で、その声が上がった。


 同じ頃、左翼ではマロード子爵が敵副将とぶつかっていた。


 敵副将は勇猛な男で、重装騎兵を率いてオルデイス本隊の側面を突こうとしていた。


 マロード子爵はこれを迎え撃った。


 乱戦の中、彼の家臣が副将の馬を槍で突き、落馬したところをマロード子爵が剣で仕留めた。


「敵副将、討ち取ったり!」


 マロード子爵は声を張り上げた。


 確かな武功であった。


 敵副将を討ったことで、オルデイス本隊は横腹を突かれずに済んだ。


 だが、総大将の首を上げたのは、あくまでオルデイス伯爵の本隊である。


 マロード子爵はその事実を理解していた。


 理解したうえで、なお思った。


 総大将が第一なら、副将を討った自分は第二。


 少なくとも第三を下回ることはない。


 砦に残って泥まみれになっていた男爵など、比べるまでもない。


 彼はそう信じていた。


     ◇


 砦を攻めていた敵兵の間に、まず煙が見えた。


 次に、後方から騎兵が駆けてきた。


「本陣が落ちた!」


「総大将が討たれた!」


「副将も討死!」


「後ろに敵だ!」


 その声は、泥に足を取られていた前線へ届いた。


 攻めれば勝てると思っていた兵たちの目が、初めて後方へ向いた。


 退路。


 荷駄。


 指揮官。


 そのすべてが不確かになった時、軍は軍でなくなる。


「押すな!」


「戻れ!」


「橋へ行け!」


 敵兵が殺到した橋は、人と馬で詰まった。


 そこへ砦から矢が降る。


 泥から逃げる兵を、クロイツ男爵の槍兵が突く。


 攻勢は崩れ、撤退は潰走へ変わった。


 オルセス子爵領の防衛戦は、ロムルス王国軍の勝利に終わった。


     ◇


 戦功評定は、三日後に行われた。


 場所はオルセス子爵の砦、その大広間。


 壁にはまだ矢傷が残り、床板の隙間には泥が入り込んでいた。


 オルデイス伯爵が上座に座り、諸貴族が並ぶ。


 その横に、監察官エドウィンが立っていた。


 羊皮紙を手にし、淡々と告げる。


「本戦における戦功第一。ラングレー卿」


 広間がざわめいた。


 ラングレー卿は、敵本陣を索敵で発見した貴族である。


 敵将の首を上げたわけではない。


 敵陣を打ち破ったわけでもない。


 だが、エドウィンは続けた。


「敵は旗数を減らし、兵力と本陣位置を偽装していた。ラングレー卿は敵支配地域へ少数で入り込み、紋章、陣幕、護衛配置、伝令の流れから総大将本陣を識別した。彼の報告がなければ、急襲部隊は敵本陣を捉えられなかった」


 ラングレー卿は無言で頭を下げた。


 彼の顔には誇りよりも疲労が濃かった。


「戦功第二。オルデイス伯爵本隊」


 今度は異論が出なかった。


 総大将を討ち取ったのは、オルデイス伯爵の本隊である。


 敵本陣への突入を成功させ、黒狼の大旗を倒した。


 戦場の趨勢を決定づけた功である。


 マロード子爵はそこで小さく息を吐いた。


 第一が索敵。


 第二が総大将。


 ならば第三は自分だ。


 敵副将を討ったのだ。


 防衛拠点に残っていたクロイツ男爵など、泥の中で耐えていただけではないか。


 エドウィンが三枚目の羊皮紙を開く。


「戦功第三。クロイツ男爵」


 その瞬間、マロード子爵の顔から表情が消えた。


 広間がざわつく。


 クロイツ男爵自身も、信じられないという顔でエドウィンを見た。


「待て」


 マロード子爵が立ち上がった。


「聞き間違いか、監察官殿」


「聞き間違いではありません」


「私は敵副将を討った」


「記録しています」


「敵副将だぞ。総大将に次ぐ指揮官だ。私があれを止めねば、伯爵本隊は側面を突かれていた」


「その通りです」


「ならば、なぜ私が第三ではない」


 エドウィンは、マロード子爵をまっすぐ見た。


「貴殿の功は大きい。ですが、第三には届きません」


 広間が静まり返った。


 マロード子爵の頬が引きつる。


「副将首が、男爵の守備働きに劣ると?」


「この戦の敗北条件を考えれば、そうなります」


「敗北条件?」


「防衛拠点であるオルセス子爵の砦が落ちること。あるいはオルセス子爵が討たれるか、人質となること。それが我らの敗北条件でした」


 エドウィンは羊皮紙を一枚めくった。


「敵総数は当初七千五百と見積もられていた。しかし実数は一万一千前後。そのうち八千が砦攻撃に投入された」


 諸貴族の一部が目を伏せた。


 自分たちの見積もり違いだった。


 そしてその誤りの負担を、砦に残った者たちが背負った。


「砦の守備兵は二千。敵攻撃部隊は八千。四倍です」


「だが砦は落ちなかった」


「落ちなかったのではありません」


 エドウィンの声がわずかに強くなった。


「落とさせなかったのです。クロイツ男爵は第一柵が破られた後も前線を支え、敵を低地へ誘い込み、水車堰と泥濘を利用して敵主力の攻撃速度を殺した。右柵を閉じ、泥から這い上がる敵を槍兵で押し返した。急襲部隊が敵本陣を討つまで、防衛拠点を維持した」


「それはオルセス子爵の地の利と策だろう!」


「策を用意したのはオルセス子爵です。その功も記録しています」


 エドウィンは即座に返した。


「しかし、破られかけた前線で兵を立たせ続けたのはクロイツ男爵です。彼の隊は最も損害を受け、なお退かなかった」


「私は敵副将を討った!」


「貴殿が討った副将は、伯爵本隊の側面を脅かす存在でした。重要です。だから貴殿の功は認めます」


「ならば――」


「ですが、敵副将が生きていても、伯爵本隊が退ける可能性はありました」


 エドウィンの言葉に、マロード子爵が黙った。


「しかし砦が落ちれば、その時点で戦略上の敗北です。敵総大将の首を上げたとしても、オルセス子爵が討たれ、領都への門が開かれていれば、我らは勝利を称することができなかった」


 広間には誰も言葉を挟めなかった。


「クロイツ男爵の功は、敵を多く殺したことではありません。敗北条件を潰したことです」


 エドウィンはそこで、少しだけ間を置いた。


「加えて、クロイツ男爵は本来、貴殿も担うはずだった防衛拠点の負担を引き受けました」


「それは……伯爵閣下の許可を得た配置転換だ」


「承知しています。命令違反とは記しておりません」


 エドウィンは淡々と言った。


「ただし、功績評価には記します。マロード子爵は自ら望んで防衛拠点の守備から外れ、敵本陣急襲部隊へ加わった。敵副将を討った功はある。だが、防衛拠点の危機を引き受けたクロイツ男爵の功には及ばない」


 マロード子爵の顔が赤くなった。


 怒りか。


 屈辱か。


 あるいは、その両方か。


「監察官殿。貴殿は男爵に肩入れしているのではないか」


 低い声だった。


 クロイツが顔を上げる。


 だが、エドウィンは動じなかった。


「その疑義を避けるため、私は戦中、クロイツ男爵との私的交流を拒んでいます。食事も同席していません。会話の記録も従者に残させています」


「……」


「それでも不服なら、王都の監察院へ異議を申し立てるとよい。私の記録、各隊の損耗、砦の損傷、オルセス子爵の証言、オルデイス伯爵本隊の行動記録、すべて提出します」


 マロード子爵は歯を食いしばった。


 エドウィンは最後に言った。


「貴殿の功は、確かに戦を助けました。ですが、クロイツ男爵の功は、戦を敗北から救いました」


 沈黙が落ちた。


 その沈黙の中で、クロイツ男爵がゆっくりと立ち上がった。


「監察官殿」


「何か」


「私は……第三の功に値するほど、立派に戦えたとは思っておりません。多くを死なせました。水を切る時も遅れ、柵も破られました」


「完璧な防衛である必要はない」


 エドウィンは答えた。


「必要な時まで持ちこたえた。それが戦功だ」


 クロイツは拳を握った。


 その指が震えていた。


「……ありがたく、拝受いたします」


 彼は深く頭を下げた。


 マロード子爵は最後まで座らなかった。


 その目は、クロイツ男爵ではなく、エドウィンを睨んでいた。


     ◇


 王都への報告を終えたのは、それから二週間後である。


 王宮の監察院に、エドウィンは羊皮紙の束を提出した。


 戦功第一、ラングレー卿。


 戦功第二、マロード子爵。


 戦功第三、クロイツ男爵。


 加えて、クロイツ男爵については爵位維持に足る功績として審査対象に加えるべき、との意見を添えた。


 報告を終え、王宮の回廊を歩いていた時だった。


「おや」


 背後から、柔らかな声がした。


 エドウィンは足を止めた。


 振り返ると、そこには豪奢な外套をまとった男が立っていた。


 年の頃は五十前後。


 銀糸のような髪を後ろへ撫でつけ、穏やかな笑みを浮かべている。


 だが、その目だけは笑っていなかった。


 ドロッセル侯爵。


 かつてエドウィンの父が治めていた領地、その近隣貴族を束ねていた大貴族である。


「貴殿は……ああ、失礼」


 侯爵はわざとらしく言葉を切った。


「ダレッド子爵――いや、元子爵でしたな」


 エドウィンは黙っていた。


 ドロッセル侯爵は歩み寄る。


「今は監察官になられたとか。私も近隣の貴族として、貴方のお父上とは親しくして頂いておりました。ご子息である貴方の身の上は、ずっと心配していたのですよ」


「……」


「いや、立派なものです。爵位を失ってなお、王国に仕える道を選ぶとは。お父上も、さぞお喜びでしょう」


 回廊の窓から、淡い夕陽が差し込んでいた。


 エドウィンはその光の中で、侯爵を見返した。


 胸の奥で、古い傷が開く音がした。


 だが、表情は変えなかった。


「ご心配、痛み入ります。ドロッセル侯爵」


「いえいえ。これからも王国のため、公正な監察を期待しておりますよ。監察官殿」


 侯爵は微笑んだ。


 エドウィンもまた、礼を返した。


 言葉はそれだけだった。


 だが二人の間には、刃を抜くよりも冷たい沈黙があった。


 王国監察官エドウィン。


 元貴族。


 爵位を失った家の子。


 そして、貴族の功績を裁く者。


 彼の戦いは、泥濘の砦で終わったわけではなかった。


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