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茶会

一条家の屋敷は、都心の喧騒を忘れさせるほどの静謐に包まれていた。手入れの行き届いた庭園を通り、案内されたのは、重要文化財級の趣がある茶室だった。


「静かな職場です」という求人と、こういう伝統の場は同じ空気がする。


物音一つ立てるだけで『不適合者』の烙印を押される、あの独特のプレッシャー。


九条社長の三歩後ろを歩き、私は一分の隙もない姿勢で敷居を跨いだ。

茶室の主として座る一条美玲は、薄緑色の見事な訪問着を纏い、まるで一輪の芍薬のような美しさで私たちを迎えた。


「ようこそ、蓮さん。……あら、佐藤さんも。リクルートスーツで茶室に上がるなんて、新鮮な驚きですわ」


美玲は扇子で口元を隠し、クスクスと喉を鳴らした。その後ろには、助っ人のように控える氷室たちの姿もある。彼女たちの目は、「ここで恥をかいて消えなさい」と雄弁に語っていた。


「私の秘書の佐藤だ。マナーは仕込んである」


九条社長が短く紹介すると、美玲は目を細めて私を真っ向から見据えた。


「そう……。でも、一条家の茶室には、一条家の作法がありますの。佐藤さん、蓮に恥をかかせたくないでしょう? ならば、あなたが今日のお点前てまえを披露してくださるかしら。……秘書なら、主人の顔を立てるのも仕事でしょう?」


これは、逃げ場のない公開処刑だ。作法を一つ間違えれば、九条社長の「教育不足」として、彼の資質まで疑われることになる。


私は静かに立ち上がり、茶道具の前へと進んだ。


「一条様。……あいにく、一条家の流派は存じ上げませんが、私が以前、派遣先の老舗和菓子屋で学んだ『おもてなし』の所作で務めさせていただきます」


「……ふん、和菓子屋の小娘が。やってみなさい」


美玲が用意したのは、一条家家宝の一つ、見るからに値の張りそうな黒楽茶碗だった。鈍い光を放つその器を、私は慎重に手に取る。……その瞬間、指先に伝わる微かな違和感に、私の思考が加速した。


「良いもの」を毎日見ていると、たまに混じる「偽物」や「欠陥品」に敏感になる。和菓子屋の検品作業で、私は一日に一万個の饅頭を見てきた。一ミリの亀裂、数グラムの重さの違い。それは『命取り』になることを知っている。

私は柄杓ひしゃくを手に取り、お湯を汲もうとした。しかし、その寸前でピタリと動きを止めた。


「……一条様。大変失礼ながら、お尋ねいたします」


「何かしら。手が震えて止まったの?」


美玲の嘲笑に、私は淡々と、しかし茶室全体に響く声で返した。


「この茶碗……高台(底の部分)に、肉眼では判別しづらいほどの微かな亀裂が入っています。……このまま熱湯を注げば、熱膨張で茶碗が割れ、大切なお客様である社長の手に火傷を負わせる恐れがあります。……一条様、この器の『検品』は、どなたがなさったのでしょうか?」


茶室に、凍りつくような沈黙が流れた。美玲の頬が、一瞬で引きつる。


「……なっ、何を失礼なことを! 一条家の家宝に、元派遣の分際でケチをつけるなんて!」


「いえ。ケチをつけているのではありません。……『おもてなし』とは、客人の安全を第一に考えること。……和菓子屋では、一ミリのひび割れも、お客様への裏切りと教わりました。……社長、この茶碗は下げさせていただいてもよろしいでしょうか」



九条社長が、無言で私の手から茶碗を奪い取った。彼は窓からの光に器をかざし、鋭い視線で底を見つめた。


……やがて、社長の口元に冷たい笑みが浮かぶ。


「……佐藤の言う通りだ。美玲、これは危険だ。目に見えないほどのヒビだが、指先で触れればわかる。……君としたことが、道具の管理を怠ったのか? それとも……最初から『こうなる』ことを知っていたのか?」


「そ、それは……! 私は……っ」


美玲が絶句する。実はこれ、美玲が私に「茶碗を割らせて」その過失を責め立てるために用意した、最初から細工のしてあった器だったのだ。しかし、私の「派遣時代の検品スキル」が、その姑息な罠を水際で食い止めた。

私は、カバンから予備として持参していた(これまた和菓子屋時代に予備として買わされた、安価だが清潔な)白練りの茶碗を取り出した。


「お見苦しいところを。……代わりと言っては何ですが、こちらで点てさせていただきます」


私は、迷いのない所作で茶を点てた。それは高尚な流派のものではない。しかし、お湯の温度、粉の量、そして茶筅ちゃせんを振る速度まで、すべてが「飲む相手」の状況に合わせた、徹底した実務的な動作だった。

九条社長が、その茶を一口すする。 


「……悪くない。一条、君の茶は確かに美しい。だが、佐藤の茶には『隙』がない。……私は、実用的な秘書を持って幸運だったよ」


社長の決定的な一言に、美玲は屈辱で震え、氷室たちは自分の膝を見つめて動けなくなった。

茶会が終わり、屋敷を出る際。私は最後尾で美玲とすれ違った。彼女にだけ聞こえる声で、私はそっと告げる。


「……一条さん。158円の大根も、億単位の茶器も、私にとっては同じ『数字』と『状態』でしかありません。……次に罠を仕掛けるなら、もう少し『質』の良い、論理的なものにしてくださいね。……派遣を舐めすぎですよ」


美玲の顔が怒りで歪むのを見届け、私は2900円の靴を鳴らして外へ出た。


車の中で、九条社長はネクタイを少し緩め、愉しげに私を見た。


「……佐藤。お前、あの茶碗のヒビ、本当に一瞬で見抜いたのか?」


「いいえ。……勘ですよ。あの人の性格なら、何か仕掛けてくると思ってましたから。……ヒビがなければ、今頃私が火傷してたでしょうね」


「……食えないアリだな」


社長は私の頭を軽く叩くと、窓の外を眺めて微笑んだ。

私は新しい手帳に、今日の「精神的苦痛手当」の金額をこっそり書き込んだ。


(……見てなさいよ。お嬢様。あんたたちのプライドなんて、私の『泥臭いリアリズム』でいくらでも踏み潰してやるんだから。)



しかし、復讐に燃える美玲の影は、さらなる「社会的な死」を花に与えようと動き出していた。




次回予告:

九条グループを襲う、大規模な顧客情報流出の危機。

犯人は「元派遣の秘書」だと、何者かによって匿名掲示板にリークされる。


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