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挑戦状

秘書室での初日を終え、ようやく自分のデスクに馴染み始めた翌朝。出勤するなり、氷室ひむろから一冊の分厚いバインダーを突きつけられた。


「佐藤さん、今日からあなたには社長の『経費精算』の一次チェックを任せるわ。一条美玲様からのご提案よ。『元派遣のアリなら、細かい数字を拾うのは得意でしょう?』って」


「適材適所」という言葉は、たいてい「面倒で責任の重い仕事を押し付ける」時の枕詞だ。


経費精算。それは秘書室の中でも最も神経を使う業務だ。1円でも計算が合わなければ、それは社長の、ひいては会社の信用問題に直結する。


「承知いたしました。……ただ、これ、随分と溜まっていますね。先月分まで未精算のものがありますが」


「あら、精査に時間がかかっていただけよ。今日中にすべて終わらせて。……もし1円でも不整合があれば、その時点で『能力不足』として、社長に報告させていただきますから」


氷室たちの口元に、かすかな嘲笑が浮かぶ。私は無言でバインダーを開いた。


……なるほど。単なる嫌がらせではない。伝票の並びはバラバラ、日付と金額が一致しない領収書、さらには出所不明のメモ書き。意図的に「ミスを誘う」ためのトラップが随所に仕掛けられていた。


私はインスタントコーヒーを一口啜り、淡々とキーボードを叩き始めた。


「お局」が仕掛ける数字の罠は、だいたいパターンが決まっている。彼女たちは、私が派遣時代に、1円の誤差も許されない銀行窓口の後方支援を3年やっていたことを知らないらしい。


数時間後。黙々と計算を続けていた私の手が、一枚のレシートで止まった。


「……あの、氷室さん。少しよろしいでしょうか」


「何かしら。もうギブアップ?」


私は、そのレシートを彼女のデスクに置いた。


「これ、社長の会食費として計上されていますが……内容が『大根 1本 158円』と『豚小間 200g 320円』になっています。……九条社長は、取引先とスーパーの袋を下げて路上で会食されたのでしょうか?」


秘書室に凍りつくような沈黙が流れた。サブ秘書の二階堂が動揺して書類を落とす。


「……そ、それは何かの間違いよ! 紛れ込んだだけだわ」


「そうですか。他にも、社長の出張旅費に混じって、二階堂さんのご自宅の近くにあるクリーニング店の領収書が3枚ほど見つかりましたが。……これも、偶然の紛れ込みでしょうか?」


「な……っ!」


私は席を立ち、社長室の扉をノックした。背後で氷室が「待ち合わせなさい!」と叫ぶが、止まるつもりはない。


「社長、お忙しいところ失礼します。経費精算の件で、少しご相談が」


九条社長はデスクから顔を上げ、私と、その後ろで青ざめている秘書たちを交互に見た。


「……何だ。1円でも合わなかったか?」


「いえ。計算は完璧に合いました。……ただ、秘書室の皆さんの『生活費』が、社長のポケットマネーから支払われそうになっていたので、修正しておきました。……それと、この『大根のレシート』。せっかくなので、今夜の夕飯にでもお使いになりますか?」


私が淡々とレシートを差し出すと、社長は一瞬、絶句した。そして、堪えきれないといった様子で、低く、愉しげに笑った。


「……ふ。158円の大根か。……氷室、二階堂。説明を聞こうか」


崩れ落ちるエリート秘書たちを横目に、私は自分のデスクに戻り、2900円の靴を履き直した。




その日の午後。秘書室の空気が死蔵している中、またしてもあの香水の匂いが漂ってきた。一条美玲の来訪だ。


「蓮、お疲れ様。……あら、佐藤さん。まだその席に座っていられたのね」


美玲は私を一瞥すると、九条社長のデスクに優雅に腰掛けた。


「蓮、明日の午後、私の実家で茶会を開くの。父も楽しみにしているわ。……もちろん、あなたの『新しい秘書』も連れてきてくれるわよね? 秘書なら、一条家の作法くらい心得ているでしょうし」


明らかに、私を公の場で恥をかかせるための招待だ。氷室たちが、ここぞとばかりに横から口を出す。


「美玲様、それは素敵なご提案ですわ。佐藤さんは『機動力』が自慢のようですから、お茶の席でもさぞかし素早く動けるのでしょうね」


九条社長は私をじっと見つめ、試すように言った。


「……どうする、佐藤。茶の作法など、教えた覚えはないが」


私は美玲を見据え、淡々と答えた。


「一条さん。……あいにく、一条家のような高尚な作法は存じ上げません。ですが、派遣時代に派遣された先が、老舗和菓子屋の受付だったことがありまして。そこで嫌というほど『礼儀』の基礎は叩き込まれました。……社長の顔に泥を塗るような真似はいたしません」


「……ふん。和菓子屋の受付と、一条家の茶室を一緒にしないで。当日、逃げ出さないことね」





美玲が去った後、社長は私を呼び寄せた。


「佐藤。一条の家は、茶道の名家だ。単なるマナーでは通用しないぞ。……本当に大丈夫か?」


「社長。私はアリですよ。一度覚えた道は、死んでも忘れません。……それより、明日の『残業代』、一条家までの移動時間も含めて申請していいですか?」


「……勝手にしろ」



社長は呆れたように笑い、私に一冊の古い茶道の教本を投げ渡した。


(……見てなさいよ。お嬢様。あんたたちが守っている『伝統』という名の壁、派遣で培った『対応力』で、鮮やかに乗り越えてやるんだから。)



今度は「格式」という名の戦場に、私は2900円の靴で踏み込もうとしていた。




次回予告:

一条家の静謐な茶室。美玲が仕掛けた「最高級の茶器」を使った罠。

しかし、花が披露したのは、誰も予想だにしない「意外な点前」だった。


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