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山根さんたちが実質的な解雇処分を下されたあとのオフィスは、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。昨日まであんなに騒がしく私の人格を否定していた「お局三連星」のデスクは、今日からただのガランとした空席だ。

けれど、これで平和が訪れたわけではない。残された正社員たちの視線は、以前よりも鋭く、そして氷のように冷ややかだった。


「正社員は身内、派遣は外様」という鉄の結束。一人のお局を倒しても、組織そのものが「異物」を排除しようとする免疫反応は止まらない。


「あの子、社長に色目を使って山根さんたちを追い出したらしいわよ。次、誰がターゲットにされるかわかったもんじゃないわ」


給湯室から漏れ聞こえる囁き声。私が中に入ると、彼女たちは一瞬で口を閉じ、ゴミを見るような目で私を一瞥して去っていく。

挨拶をしても、返ってくるのはキーボードを叩く無機質な音だけ。必要な連絡事項の共有メールからも、私の名前だけが不自然に外されている。

社員証を首から「専用のロゴ入りストラップ」で下げる彼らに対し、私の胸元で揺れるのは、何度見ても味気ない透明ケースの入館証だ。この紐の色一本が、越えられない国境線に見える。私がいなくなっても、この空席は明日には別の派遣会社から来た誰かで埋まる。その「代替可能性」が、今の私には一番堪えた。

そんな孤独を断ち切るように、私のスマホが震えた。内線ではなく、社長個人からのメッセージ。


『21時、社長室へ。鍵は開けてある』


夜のオフィス。清掃員すら立ち去り、監視カメラの赤いランプだけが脈打つように光る廊下を抜け、私は社長室の扉を押し開けた。

室内はデスクライトの灯りだけで照らされ、九条社長はスツールに深く腰掛け、グラスを傾けていた。琥珀色の液体が、彼の長い指先で揺れている。


「……遅い。アリの足取りにしては、慎重すぎないか」


「……すみません。周囲の目が、以前より厳しくて。派遣社員が深夜に社長室に入るなんて、格好のスキャンダルの餌食ですから。私の契約、今月で切られちゃいますよ?」


私は皮肉を込めて言い返したが、社長はフンと鼻で笑い、デスクに一見すると何の変哲もない物流コストの明細書を広げた。


「副社長が進めている、南アジアの物流ルートだ。……帳簿上は黒字だが、実態は幽霊会社を通した資金洗浄マネーロンダリングの疑いがある。副社長派はこのルートを聖域化し、若手社員を立ち入らせない。……佐藤、副社長の派閥が管理する、地下の旧書庫へ潜り込め。そこに、二重帳簿の現物が隠されているはずだ」


私は息を呑んだ。ただの派遣社員が、会社の存亡に関わる背任行為の片棒を担がされようとしている。


「潜入は深夜。見つかれば、私は君を守れない。君は『勝手に書庫へ忍び込んだ、素行不良の派遣』として即刻解雇、刑事告訴される可能性もある。……それでもやるか?」


社長が立ち上がり、ゆっくりと私の目の前に歩み寄った。

彫刻のように整った顔が、吐息を感じるほどの距離まで降りてくる。冷徹な瞳の奥に、私を試すような、あるいは強く求めているような、鋭い熱が宿っていた。

その視線を真っ向から受け止め、私はわざとらしく首を傾げて、不敵に口角を上げた。


「……これ、完全に契約書にない仕事ですよね、社長?」


「……何?」


「私のジョブディスクリプションに、スパイ活動なんて一文字も書いてありませんでした。それどころか、地下書庫への立ち入り制限区域への侵入なんて、コンプライアンス違反もいいところです。……ということで」


私は一歩踏み込み、彼のネクタイに指をかけた。


「この今の時間、ちゃんと『深夜残業代』出ますよね? 深夜割増に加えて、特殊技能手当、それから命の危険に対する危険手当。もちろん、すべて1分単位の切り上げ計算で。社長のポケットマネーから、今すぐ約束してください」


九条社長は一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。

世界を股にかける若きCEOが、時給数百円の割増を要求する女を前にして、言葉を失っている。

やがて、彼は堪えきれないといった様子で、低く、愉しげに喉を鳴らした。


「……ふ。ははは! 金に汚いアリだな。いいだろう、私の個人資産から『特別報酬』を弾んでやる。君の生涯年収を超える額をな。……その代わり、証拠を掴めなければ、その身一つで返済してもらうぞ」


「結構です。私、利息は高いですよ? ……それじゃ、ひと稼ぎしてきます」


社長が伸ばしかけた手を、私はひらりとかわして扉へ向かった。

手元には、社長から託された銀のペン。そして、録音機能を起動したスマートフォン。

地下書庫の重い扉の向こう側。

そこには、会社の未来と、私の成り上がりを賭けた、最大のスキャンダルが眠っていた。


(……見てなさい、九条蓮。あんたの隣に座るのは、完璧な秘書じゃなくて、この『強欲なアリ』なんだから!)


階段を降りる足音が、静まり返った社内に響く。

背後で、誰かの視線を感じた気がしたが、私は一度も振り返らなかった。



次回予告:

地下書庫に隠された「もう一つの嘘」。


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