デジタルいじめ
弱みを握られた山根さんたちは、表面上は驚くほど静かになった。私とすれ違うたびに、獲物を狙う蛇のような視線を送ってくるが、直接的な罵声はピタリと止まった。
けれど、急に親切になった正社員ほど怖いものはない。昨日まで無視していた人が「佐藤さん、これお裾分け」とクッキーを差し出してきたら、そこには毒か裏がある。私はそのクッキーを、彼女たちが去った後でそっとデスクの奥に隠した。
嫌がらせは「見えない場所」へと移行していた。
夕方、私が今日一日かけて整理した「来期の予算編成データ」を共有サーバーに保存しようとしたその時だ。
「……え?」
画面に表示されたのは、『アクセス権限がありません』という無機質なエラーメッセージ。さらには、私が編集していたファイルそのものが、目の前でゴミ箱へと吸い込まれて消えていった。
ITスキルが中途半端にある正社員が、管理者権限を悪用して派遣のミスを捏造する。ログも残さないような姑息な「デジタルいじめ」だ。明日、このファイルが提出されていなければ、私は「録音で脅す癖に仕事はできない無能」として、正式にクビを切られるだろう。
「あら佐藤さん、どうしたの? そんな青い顔して。……まさか、大事なデータ消しちゃった?」
背後で山根さんが、隠しきれない愉悦を滲ませた笑い声を漏らしている。
時計は20時を回った。オフィスには私一人。消えたデータを一から作り直すには、最低でも一晩はかかる。絶望感でキーボードに突っ伏そうとしたその時、フロアの電気がパチパチと音を立てて半分落ちた。
「……無策だな。敵がデジタルで来るなら、君もデジタルで応戦すべきだった」
暗がりの向こう、社長室から現れたのは、ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた姿の九条社長だった。
今日の彼は、眼鏡を外し、少し疲れたように眉間を指で押さえている。その無防備な姿に、心臓が跳ねた。
「社長……。データが、勝手に消えて……」
「山根の端末から操作されたログは、すでに私の手元にある。……だが、それを指摘するだけでは芸がない。それでは君が『守られただけ』で終わる」
社長は私の椅子の後ろに立ち、背後から覆いかぶさるようにしてキーボードに手を伸ばした。彼の胸板の厚みが背中に伝わり、熱い吐息が耳元をかすめる。
「……見ていろ。消されたデータを復元するのではない。彼女たちが『自分の首を絞めるデータ』に書き換えるんだ」
社長の指先が、目にも止らぬ速さでコードを打ち込んでいく。
「……これでいい。明日、彼女たちがそのファイルを自慢げに開いた瞬間、隠されていた『彼女たち自身の過去の経費水増しデータ』が役員全員に一斉送信されるよう設定した」
「えっ……!? それ、やりすぎじゃ……」
「甘い。アリ。踏み潰される前に牙を剥けと言ったはずだ。……それと、これは借りだ。明日、この件が片付いたら、私の部屋に来い。君にしかできない、もっと汚くて、もっと重要な仕事がある」
社長は、私の首元にかかった髪を指先でふいに払い、冷たく、けれど熱を帯びた瞳で私を見つめた。
「……勝利の美酒は、夜明けと共にやってくる」
翌朝。
意気揚々と出社し、役員会議で私の「ミス」を報告しようとした山根さん。彼女が自信満々にプロジェクターに映し出したのは、予算案ではなく、彼女自身が数年にわたって私的に流用していたタクシー代と飲み代の、あまりに詳細な不正リストだった。
会議室に響き渡る、役員たちの怒号。
真っ青を通り越して土気色になった山根さんは、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。彼女の横を通り過ぎる際、私は耳元でそっと囁いた。
「山根さん、お疲れ様です。……お裾分けのクッキー、美味しかったです」
山根さんは悲鳴に近い声を上げて絶句した。
私はそのまま、銀のペンを回しながら、社長室の重厚な扉を叩いた。
「失礼します。……汚い仕事の依頼を、受けに来ました」
デスクに座る九条社長は、不敵な笑みを浮かべて私を待っていた。
「……佐藤。君に、私の『共犯者』になる権利をやる。……覚悟はできているか」
社長はデスクの下から、一冊の古い帳簿を取り出した。それは、この会社の「裏」を握るための、本当の戦いの始まりだった。
次回予告:
山根たちの背後にいた「真の黒幕」が動き出す。
社長が花に託した極秘任務……それは、副社長が関わる巨額背任の証拠を掴むための「社内スパイ」だった。
「社長……私を信じていいんですか? ただの派遣社員ですよ」
「……今の君は、ただのアリではない。私の右腕だ」
二人の距離が、深夜のオフィスで急速に縮まっていく――。




