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ボールペン1本

翌朝、オフィスに入って「おはようございます」と挨拶を投げたが、誰も振り返らない。正社員同士の週末の旅行話が盛り上がりすぎていて、私の声は虚空に消えた。いつものことだ。


自分の島、その端っこにある「借り物のデスク」に座る。私物化が許されないこの机の引き出しは驚くほどスカスカで、置き型の消臭剤ひとつ置くのにも許可がいるんじゃないかと気後れする。


「あ、あの、山根さん。赤ボールペンのインクが切れたので、新しいのを一本いただけますか?」


勇気を出して声をかけると、山根さんは世界一面倒くさそうなため息をついた。


「佐藤さん、うちの経費は無限じゃないのよ? 派遣さんに一本渡すのにも、稟議が必要なんだから。……これ、私の使い古しだけど、まだ書けるはずよ」


渡されたのは、ノック部分が壊れ、持ち主の名前が油性ペンでデカデカと書かれたボロボロのペンだった。備品ひとつ手に入れるのが、どうして国家予算の交渉並みにハードルが高いんだろう。

私がその「山根ペン」で、昨日社長に指摘された単語をメモしていた時だ。

背後に、猛烈な「冷気」を感じた。

振り返るまでもない。廊下全体の室温が5度下がるようなこの感覚は、あの男だ。


「……まだそのゴミのようなペンを使っているのか」


九条社長だった。


今日の彼はダークネイビーのスーツを纏い、眼鏡のブリッジを鋭く光らせている。


「視察だ。無能な個体が、どの程度の速度で社内のリソースを食いつぶしているかを確認しに来た」


彼は私のデスクにある、山根さんから押し付けられた「手書きの伝票」の束を指先で弾いた。


「19世紀の遺物か。いまだに手書きで集計しているとは、この部署の知能指数を疑う。……その束の左隅を見ろ。共通するプロジェクトコードがあるはずだ。VLOOKUPすら使えないなら、今すぐそのボロペンと一緒にシュレッダーへ飛び込め」


(VLOOKUP……? ブイ・ルックアップ……?)


社長が立ち去った後、即座にスマホで検索した。なるほど、これを使えば、山根さんが「一週間かけて手入力してね」とニヤついていた作業が、ものの数分で終わる。正社員が『大変なのよ』と恩着せがましく振ってくる仕事の正体は、だいたいがこうした「化石みたいな非効率」だったりするのだ。

私は血走った目でキーボードを叩き始めた。

定時10分前。完璧に整理されたデータを山根さんのデスクに置く。


「山根さん、例の1週間分の作業、終わりました。お先に失礼します」


「は……? あんた、適当にやったんじゃないでしょうね!?」


山根さんの絶叫を背に、私はカバンを持った。どれだけ仕事が終わっていても、定時ぴったりに帰る時だけは、なぜか犯罪者のような足取りになってしまう。

エレベーターホールで、またしても彼と遭遇した。

社長は専用機を待っていたが、私に気づくと、わずかに顎を引いた。


「……5分早い。だが、あの非効率な束を片付けたようだな」


「社長のヒントのおかげです、アリですから!」


「フン。……少しはマシな顔になった。だが、そのボロペンは捨てろ。見ていて不愉快だ」


そう言って彼が投げ渡してきたのは、見たこともないほど高級そうな、銀色のボールペンだった。


「貸しておくだけだ。利子は……君の『次の成果』で払え」


閉まるエレベーターの隙間から見えた社長の口角が、ほんの数ミリだけ上がった気がして。

私の心臓が、時給3000円分くらいの激しい鼓動を打ち鳴らした。



翌朝、私は九条社長から「貸し出された」銀のボールペンを、宝物のように握りしめて出社した。指に吸い付くような適度な重み。これだけで、昨日の自分より強くなれる気がする。

だが、現実は甘くない。

デスクに着くやいなや、山根さんが「これ、今日中にね」と、分厚い録音データの束とメモを叩きつけた。

「昨日あんなに早く帰れたんだから、体力余ってるわよね? 来週の役員会議に向けた、過去3回分の議事録作成。一言一句、漏らさず起こしておいて」


(……出た。議事録という名の、精神削り作業。)


正社員の皆さんは「発言の要点だけまとめといて」と軽く言うけれど、実際は複数の人間が同時に喋り、誰が何を言ったか判別不能なカオスを整理する地獄の作業だ。しかも、派遣が作った議事録は、後で必ず「こんなこと言ってない」「ニュアンスが違う」と、正社員たちの責任転嫁の道具にされる。

私はイヤホンを耳に突っ込み、銀のボールペンを走らせた。

だが、録音状態は最悪だ。居酒屋での打ち合わせかと思うほど雑音がひどく、肝心の社長の発言が聞こえない。


(……詰んだ。これ、適当に書いたら後で山根さんに何を言われるか……)


時計の針は19時を回っていた。周囲の正社員たちは「お疲れさまでーす」と、飲み会の相談をしながら次々と帰宅していく。


オフィスに静寂が訪れた頃、コツ、コツと硬い靴音が響いた。


「……まだいたのか。残業代を稼ぐために、わざと手を遅くしているのか?」


氷点下の声。九条社長だ。

彼はジャケットを脱ぎ、シャツの袖をわずかに捲り上げている。その露わになった前腕の筋が驚くほど男らしくて、私は思わず息を呑んだ。


「違います! 社長の発言が聞き取れなくて……。これじゃ議事録になりません」


「貸してみろ」


社長は私の隣に立ち、私のイヤホンを片方ひったくるようにして耳に当てた。距離が、近すぎる。彼の纏うシトラスと高級な煙草が混ざったような香りが、私の脳を麻痺させる。


「……32分15秒。私は『現状維持』ではなく『静観』と言った。45分10秒は、コスト削減ではなく『資産の最適化』だ」


社長は淀みなく、自分の発言を訂正していく。驚異的な記憶力だ。


「いいか、アリ。議事録は『発言の記録』ではない。……『未来への証拠』だ。誰が何を言ったかではなく、その発言が次にどんな利益を生むか。それを意識して書け。……それと、そのイヤホンは捨てろ。安物のノイズキャンセリングでは、真実は聞こえない」


彼は自分の耳から外した、最新鋭のワイヤレスイヤホンを私のデスクに置いた。


「これも……貸し出しですか?」


「『投資』だ。君がその議事録で、社員たちの鼻をあかせるならな」


そう言い残して、彼は社長室へと消えていった。

深夜、静まり返ったオフィスで、私は社長のイヤホンを装着した。驚くほどクリアな音声。まるで社長が耳元で囁いているような錯覚に、顔が熱くなる。

私は無心でキーボードを叩いた。ただの記録じゃない、次の会議で誰もが反論できない「完璧な武器」を作るために。


翌朝、提出された議事録を見た山根さんの顔は、見事に引き攣っていた。


「……何これ。要点が完璧にまとまってて、今後の課題までリストアップされてるじゃない。誰に教わったのよ」


「……独学です。派遣は、耳だけは良いので」


私は、胸ポケットの銀のペンに触れながら、少しだけ不敵に笑った。

その様子を、フロアの隅でエレベーターを待つ九条社長が、眼鏡の奥で「合格だ」と言うように見つめていたことに、私はまだ気づいていなかった。




次回予告:

花の有能さに危機感を覚えたお局軍団。彼女たちは、社内最大のイベント「新製品発表会」の受付という、ミスが許されない過酷な現場に花を送り込む。


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