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12/14

「偽装婚約」のニュースは、翌朝には社内全域に電撃のように駆け巡った。昨日まで「成金秘書」と陰口を叩いていた社員たちが、私とすれ違うたびに道を開け、深々と頭を下げる。


「立場」が変わった瞬間に手のひらを返す人間たち。彼らが敬っているのは私じゃない。私の指に光る、あの社長が買い与えた「石ころ」の権力だ。


しかし、そんな平穏は昼過ぎに打ち砕かれた。

社長室から、ガシャーンという激しい物音が響いたのだ。

私が駆け込むと、そこにはデスクに突っ伏した九条社長と、床に散らばったコーヒーカップの破片があった。


「社長!? 九条さん!」


顔面蒼白で意識を失っている社長。私はすぐに救急車を手配し、同時に社長が飲んでいたコーヒーをハンカチで拭い、密かにジップロックに収めた。


トラブルが起きた時、真っ先に「証拠」を確保するのは生存本能だ。誰が何を言おうと、現物こそが最後に自分を守る盾になる。


病院へ搬送された社長の診断は、急性毒物中毒。命に別状はないが、意識が戻るまで数日はかかるという。

そして、これを待っていたかのように、一条美玲の父が率いる派閥が動き出した。


「社長が不在の今、経営権の一時委任を求める。……佐藤さん、君のような『婚約者(仮)』に、この巨大企業の舵取りは無理だ。速やかに退席したまえ」


翌日の緊急役員会議。会議室は、ハイエナのような役員たちに占拠されていた。社長が倒れたことを祝うかのような、不吉な熱気が漂っている。


私は、社長から預かっていた「全権委任状」――万が一の時に備えて書かされていたもの――をテーブルに叩きつけた。


「……社長が寝ている間は、私がこの会社の『女王』です。文句がある方は、挙手してください。今すぐその首を飛ばします」


役員たちが失笑する。「派遣上がりの小娘が、何を……」


「……副社長。先ほどから目が泳いでいますね。……社長のコーヒーに毒を盛った実行犯、既に目星はついています。……私が派遣時代、給湯室の隅々まで掃除していたのを知りませんか? あの部屋の隠しカメラの死角、私はすべて把握していますよ」


嘘だ。隠しカメラなんてない。だが、私はあえてハッタリをかました。


「……それと、一条頭取。今回の乗っ取り工作の資金源、海外のペーパーカンパニーを経由していますね? 昨夜、社長の個人PCからアクセスログを解析しました。……1円の狂いもなく、あなたの口座と紐付いています」


「1円の狂いもない」という言葉は、やましい人間には死神の宣告に聞こえる。私はただ、社長の過去の調査資料を、今の状況に当てはめて読み上げているだけだ。


「な……っ、出鱈目を言うな!」


「出鱈目かどうかは、今からこのデータを金融庁に送信してから判断しましょうか。……それとも、今この場で、社長の復帰まで大人しく従いますか?」


私は、震える手でタブレットを掲げた。



実際には、ただの「スーパーの特売情報」のPDFを開いているだけだ。だが、私の「図太い演技」と、これまで数々の不正を暴いてきた「アリの執念」を知る彼らにとって、それは最強の弾劾証拠に見えた。


会議室に、沈黙が落ちる。



一条美玲の父は、忌々しそうに椅子に座り直した。


「……三日だ。三日以内に社長が戻らねば、強制的に解任動議を出す」


「結構です。三日もあれば、アリは城の一つくらい作り替えますから」


会議室を追い出した後、私は一人、社長の椅子に深く腰掛けた。

背中を伝う冷や汗が、シルクのドレスを濡らしている。


「……社長。早く起きてくださいよ。……これ、残業代じゃ足りません。ボーナス3回分、上乗せですからね」




三日間の「アリの親政」。




私は社長のデスクで、一睡もせずに会社の数字と戦い続けた。

そして三日目の朝。背後で扉が開く音がした。


「……佐藤。私の席で、随分と偉そうにふんぞり返っているな」


聞き慣れた、冷たくて心地よい声。

私は振り返り、ボロボロの顔で不敵に笑ってみせた。


「……おはようございます、社長。……おかえりなさい。……1円の狂いもなく、会社を守っておきましたよ」


九条社長は私の元へ歩み寄ると、私の頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。


「……よくやった。……さあ、アリの逆襲の仕上げだ。……一条家を、根こそぎ掃除しに行くぞ」


派遣から秘書へ、そして「女王」へ。


アリの歩みは、ついに巨大な帝国を飲み込もうとしていた。




次回予告:

九条グループと一条家の全面戦争。

美玲が放った最後の一手は、花の「過去」を暴くことだった。


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