政略偽装結婚
氷室と二階堂が去り、静まり返った秘書室。私は今、事実上の「筆頭秘書」として、九条社長のすべてのスケジュールを握っていた。
「……社長。午後の取締役会の資料、修正しておきました。それから、先ほど一条美玲様から15回ほど着信がありましたが、すべて『多忙につき』と処理してよろしいですね?」
デスクでペンを動かしていた九条社長が、ふっと顔を上げた。
「ああ、構わん。……それより佐藤、明日の夜は空けておけ」
「明日の夜ですか? 会食の予定は入っていませんが」
「公的な会食ではない。……私の実家だ。九条家本家による、親族会議という名の『見合い』が行われる」
上司のプライベートな愚痴に付き合わされるのは、信頼の証というより、単なる『残業代の出ない拘束時間』であることが多い。
「……左様ですか。お疲れ様です。私は会社で留守番を……」
「いや、お前も来い。……私の『婚約者』としてだ」
持っていたバインダーを床に落としそうになった。
「……は? 今、なんて?」
「一条美玲との縁談を正式に断るには、代わりの『壁』が必要だ。……親族たちは、私が選んだ相手が『元派遣の秘書』だと知れば、泡を吹いて倒れるだろう。だが、昨日の流出事件を防いだ実績を盾に、私が強引に押し切る。……佐藤、これは業務命令だ」
「……社長。私の職務内容に『替え玉婚約者』なんて項目、一文字もありませんでしたけど。……これ、危険手当として月給3ヶ月分、一括払いでいいですよね?」
「……ふ。交渉成立だ。今すぐ、その2900円の靴を脱げ。……今夜は『鎧』を買いに行くぞ」
翌晩。九条家の本邸。
そこは、一条家の屋敷をさらに威圧的にしたような、歴史の重みが壁一面から染み出しているような場所だった。
私は、社長がブラックカードで買い与えた、深いネイビーのシルクドレスに身を包んでいた。背中が大きく開いたデザインは、慣れない私にはスースーして落ち着かない。
「……佐藤。背筋を伸ばせ。お前は今日、時給1100円のアリじゃない。私の隣に立つ『選ばれた女』だ」
社長が私の腰に手を回し、引き寄せる。その手の熱さに、一瞬心臓が跳ねた。
(……落ち着け、私。これは業務だ。40万の給料とボーナス、そして追加の危険手当のための、高度な演技なんだから。)
重厚な扉が開くと、そこには九条家の長老たちと、そして――怒りに震える一条美玲の姿があった。
「蓮! どういうつもり!? 私との話を白紙にして、こんな……こんな女を連れてくるなんて!」
美玲の声が響く中、九条家の当主である社長の父が、鋭い視線を私に向けた。
「……蓮。説明をしてもらおうか。この娘が、お前の選んだ伴侶だというのか? どこの令嬢だ」
社長は、堂々と私を前に押し出した。
「令嬢ではありません。……私の命を、そしてわが社の危機を救った、世界で唯一無二の秘書です。……父上、私は家柄という名の『飾り』ではなく、実利という名の『武器』を選んだ。……文句はありますか?」
静まり返る広間。美玲が絶叫に近い声を上げた。
「実利!? 笑わせないで! この女はただの派遣、底辺のアリよ! 蓮、あなたは騙されているのよ!」
美玲が私に掴みかかろうとしたその時。私は、社長から渡されていた「偽装の指輪」を、わざとらしく光らせて見せた。
「……一条様。お言葉ですが。……社長が求めているのは、着物を着てお茶を点てるだけの置物ではありません。……社長の背中を守り、泥を被り、1円の狂いもなく未来を計算できるパートナーです。……あなたは、社長の脱ぎ捨てた靴下を洗う覚悟も、裏金のログを暴くガッツも、お持ちではないでしょう?」
「……っ、下品な……!」
「ええ、下品ですよ。私はアリですから。……ですが、泥の中を這いずり回って生き延びてきたアリは、温室の芍薬よりも、ずっとしぶといんです」
当主は、私をじっと見つめ……やがて、短く吐き捨てた。
「……面白い。蓮、好きにするがいい。……ただし、この娘が一度でも失態を犯せば、その時はわかっているな?」
「……承知しています」
嵐のような親族会議が終わり、帰りの車内。
私はどっと疲れが出て、シートに深く沈み込んだ。
「……お疲れ様、佐藤。見事な演技だった」
「……演技じゃありませんよ、半分は本気です。……社長、あの当主様のプレッシャー、心臓に悪すぎます。……手当、月給4ヶ月分に上げてください」
社長は窓の外を見つめながら、ふっと笑った。
「……いいだろう。お前のその『強欲さ』には、いつも救われる」
ふと見ると、社長の手が、私の手に重なっていた。
「……佐藤。指輪、返さなくていいぞ。……当分、その『壁』でいてもらうからな」
(……ちょっと待って。これ、本当に業務命令? それとも……。)
派遣のアリは、ついに「王の婚約者」という、最も危険で高価な鎧を纏うことになった。
次回予告:
偽装婚約が社内に知れ渡り、花への嫌がらせは全社員レベルへと拡大。
そんな中、九条グループの乗っ取りを企む「真の黒幕」が動き出す。




