第28話 スタートライン
窓から差し込む朝日が、ちょうど私の座る位置に届いて少し熱い。
逆にホミには一切光が差し込まず、部屋を涼ませるエアコンのせいで寒そうまである。
お互い位置を変えたいくらいだけど、今は朝食時。
すぐには動けない。
その日の朝ご飯は、別に普段と違ったわけじゃなかった。
いつも通りの白米、キノコ入りのお味噌汁、お漬物、小鉢の野菜、主菜は珍しくウインナー入りのスクランブルエッグ。
理想的な一汁三菜。
ホミの作る料理はどれも美味しくて、こんなに贅沢な生活をしていいのかと不安になる。
でも、今日は違う。
それを食べるのが当たり前で、こうしていることが当たり前に感じられた。
顔を上げて前を向くと、そこではホミが澄ました顔で吸い物椀に口を付けている。
健康的な食事と、適度な運動によって作り上げられた、これ以上ない完璧な唇が吸い物椀から口を外した時にちらりと見えた。
その唇を、ホミはペロリと舌で舐める。
唇に着いた味噌汁をキレイに舐め取るため。
「…ん?どうしたの?」
「いや、なんでも」
私の視線に気が付いたホミが首をかしげる。
それに対し、私は少し気怠そうに素っ気ない返事をした。
……なんでもない、なんてのは嘘だ。
健康そのものの唇に、ちらりと頭を出した舌。
その両方に、今までになく惹かれている。
頭がどうにかなりそうだ。
昨日まで何も感じなかったホミの一挙手一投足、その些細な所作に性的な興奮を覚える。
それを隠そうと必死で、適度に半熟のスクランブルエッグを白米と一緒に流し込む。
「ちょっと!そんな食べ方したらのどに詰まるよ!?」
流石に不自然だったのか、単に危ないからか、ホミに怒られてしまった。
「ごめんごめん……その、すっごくおいしいから」
「…もう」
謝りながら言い訳する。
けれど、それを聞いたホミは顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。
自然と口から飛び出しただけの保身の言葉が、ホミにとっては今世紀最大の告白かのような衝撃だったらしい。
「――っ!」
そんな反応をされたら、私だって恥ずかしい。
心臓が激しく鼓動し、熱い血液が全身を駆け巡る。
顔どこか全身赤くなって、私もホミを見ないように視線を逸らす。
「「………」」
会話は無く、視線も合わせず、黙々と食器を空にしていく。
ただ一緒に朝ご飯を食べることもままならない初々しい距離。
それが、私たちの関係のスタートラインを引いていた。
◆
『……その、すっごくおいしいから』
言葉と光景がループして私の頭を圧迫する。
いつもなら何でもない食器洗いも、もう3回も食器を落としかけて肝を冷やしている。
こんなことになったのはサカイのせいだ。
サカイがあんなことを言うから、私は変に意識してしまう。
あの時のサカイの顔が……何かを隠そうとするような顔が、私には100の意味を持つ照れ隠しに見えて平静でいられなくなった。
「……なんで、こんなことに」
行き場のない感情を、小さな怒りと共に吐き出す。
……いや、行き場がないんじゃない。
私が臆病で、自分の気持ちを打ち明けられなくて、大切な人にだって簡単に“好き”と言えないだけ。
さっきだって、私が変な空気を作ったせいでお互い顔も見られなかった。
普通の人だったら当たり前にできることをできなくて、自分の中でいつまでも抱えてモヤモヤ。
それが行き場のない感情となって………
「あっ――!?」
―――ガシャーーンッッ!!!
繰り返す景色とモヤモヤが集中力を奪い、お皿を一枚落としてしまった。
ただことではない音が家中に響き、奥からドタバタと慌てて走ってくる足音が聞こえ、キッチンへ飛び込んできた。
「大丈夫!?」
サカイが不用心にも裸足でキッチンに踏み込んでくる。
それを見て、一瞬で血の気が引いた。
「そこで止まって!!」
「っ!?」
思わず怒鳴るようにサカイを制止し、ぎょっとさせてしまった。
「割れたお皿の破片がどこまで散ってるかわからないから、そのままキッチンを出て。あと、掃除機持ってきて」
「わ、わかった…!」
サカイに怪我をしてほしくなくて、つい言い方がキツくなってしまった。
慌ててキッチンを出ていくサカイを見ると、胸が痛くなる。
…嫌われてないよね?
そんな心配をしながら手に着いた洗剤の泡を洗い落としてビニール袋を取り出した。
割れた食器の大きな破片を手で拾い、ビニール袋に放り込んでいく。
割ってしまった食器の後始末なんて、これが初めてでもないから指をケガすることもない。
大きな破片を集め終わると、小さな箒とちり取りで手で拾うには面倒な破片を片付けた。
ちり取りの破片をビニール袋に入れ終わったあと、ふと顔をあげてもそこにサカイはいなかった。
掃除機を持ってくるように頼んでからそれなりに時間が経っているはず。
けど、掃除機もなければサカイもいない。
まだ掃除機を見つけられていないのかもしれない。
私はサカイと掃除機を探しにキッチンを出た。
「何回か使い方を教えたはずなんだけどなぁ…」
その時に一緒に掃除機がどこにあるかを教えたはず。
とはいえ、その時以外でサカイがこの家の掃除をすることはない。
この家の家事をするのは私であり、サカイではないから。
だから、サカイが掃除機を見つけられなくたって不思議じゃない。
いつも掃除機を置いている部屋にやってくると、そこにもサカイはおらず首をかしげる。
仕方なく掃除機を持ち上げると、丁度そこにサカイがやってきた。
「あー!そうそう!ここだったね!」
悪びれもせずにそう言ってくる。
その顔は明るく、恥ずかしそうにしながらもどこか嬉しそうだ。
「前に何回か教えたよね?今度こそ覚えてよ」
「は〜い」
全く反省していなさそうだし、怒られたばっかりだというのに笑っている。
……この様子なら、『嫌われたかも』なんて心配するだけ無駄だろう。
掃除機を持って台所に戻ると、電源ケーブルをコンセントに繋いで掃除機をかける。
満遍なくかけていくと、掃除機の管からカチカチという軽いけれど硬いな何かがぶつかる音が聞こえた。
恐らく割れた食器の破片を吸い取ったんだと思う。
やっぱり掃除機をかけてよかった。
けれど、その音が聞こえなかったのかサカイが能天気な質問をする。
「綺麗に見えるけど、本当に破片なんて落ちてるの?」
その質問をされた時、私は一瞬何を言われたのかわからなかった。
食器が割れたらこのくらいするのは当たり前。
聞くまでもないことだ。
だから、なんでそんなことを訊いてくるのか理解できない。
「…家で食器が割れたことないの?」
半分皮肉を込めてそう訊き返す。
するとサカイはその皮肉には全く気付かずに質問に答えた。
「うん。うちに割れる食器は無いし」
「…え?」
サカイの返事は、私にとっては非現実のような答えだった。
食器と言えば割れるもの。
もちろん、この家にだってプラスチックの食器はある。
でも、全てがプラスチック食器の家なんて聞いたことがない。
都会の家は、みんなそうなんだろうか?
「うちはご飯を自分で作ったり、作り置きのご飯を子供だけで食べるのが小さいころから当たり前だったから、『子供だけでも危なくないように』って全部プラスチックなんだ」
「そうなんだ……都会だと、それは普通なの?」
「まさか。まあでも、似たような境遇の人は学年に2,3人いるかな。親と一緒にご飯を食べられないのが普通の家」
「………」
“親と一緒にご飯を食べられないのが普通の家”
おじいちゃんとおばあちゃんを亡くして、1人で暮らすのが当たり前になった私にはそれがどれだけ寂しいかわかる。
サカイはそれが何でもないことかのように言っているけれど……それは同情されるべき悲しい現実。
そんな境遇で生きてきて、悲しくなかったのだろうか?
………いや違う。
悲しかったから、寂しかったから、サカイは家を飛び出したんだ。
そして、うちに来た。
「…サカイは、もう一人でご飯を食べなくて済むね」
「え?何々?急にどうしたの?」
急に話を変えたせいで困惑させてしまった。
掃除機を止め、床に置いてサカイの方へ行く。
そして、その両手を手に取った。
「今日から、ここがサカイの家。私がサカイの家族。でしょ?」
「ホミ…」
親にサカイの心を満たせないのなら、私が満たしてあげよう。
それに、もう私とサカイの関係は家主と居候じゃない。
私たちのスタートラインはここなんだ。
「ねえ、サカイ」
「なに?」
私はサカイの目を真っ直ぐ見つめる。
…人の目を改めて真っ直ぐ見るというのは意外と恥ずかしい。
でも、スタートラインに立ったのなら、走り出すための合図が必要だ。
だから、目を逸らすわけにはいかない。
小さく息を吸い、気を引き締める。
改めてハッキリ言うのは、恥ずかしいから。
その羞恥心を抑え、続く言葉を待つサカイに本音を口にする。
「大好きです。付き合ってください」
私の方からまだ言えていなかった、スタートを宣言する合図。
それを聞いたサカイは目を見開き、一瞬呆気にとられた。
けれどすぐに正気に戻り、ニンマリ笑う。
私が握っている両手のうち、右手を引き抜いて私左手に重ねるように外側から握り返してきた。
「よろこんで」
サカイがその一言を口にすると……お互い続く言葉は無かった。
言葉を発することができるほどのスペースが、私たちには無かったから。
それが、スタートラインから一歩踏み出すための始まりの合図だった。
―――5年後
次回最終話




