第84話:『その指輪、査定額——値がつけられませんわ』
指輪は、質屋にいちばん多く来る品である。
小さくて、金目で、無くても暮らせる。だから、真っ先に外れる。この一年で、私は指輪を四十七——いや、この数はやめておこう。ずいぶん、たくさん拝見した。
……ええ。当店、この品には、慣れておりますのよ。
慣れているつもりでいた。
開帳から、二十日が経った。
二十九点は、ボードワン様の四行を地図にして、警吏が回収した。修道院から三点、南の別邸から十点、町家の棚から『修復中』の木札ごと七点、侯爵家の蔵から九点。蔵の写しと入れ替わって、二十年ぶりに、棚の数が合った。
十八点のうち、当店が買った十点は、国が元利込みで買い上げた。当店が払った額と、同じだけ。質に入っていた五点と、持ち主の棚の三点は、動かさなかった。動かす代わりに、宝物院の書式で『貸出』と書いた。年に一度、更新する。先王妃様が、御自分の香水瓶にお使いになっていたのと同じ書式である。
指物師の水差しは、三重の布のまま、焼け跡に建て直した小屋の棚にある。公開目録に、来歴と一緒に載る。誰でも、銅貨二枚で読める。
……ええ。見られる場所に、置きましたのよ。
帳尻は、テオが三度数えた。国から入った金と、当店から出た金。日当と、馬車代と、鞄の紐の修理代まで。
「……姐さん。銅貨、四枚」
「儲けが、ですの」
「うん」
ぱちん。
「上等ですわ」
蔵の三十七点は、国庫へ入った。メルローズ家が三代かけて集め、継母が二年で売り、祖母が二十年かけて買い戻し、私が一日で売った品々である。公開目録の来歴の欄に、一行、載ることになった。『エルマ・クロッシュ 買い戻し』。当店の蔵は、空のままだ。空になるための蔵である。
モンフォール侯爵は、貴族院の審問を受けておられる。委員長の席は、既にない。沙汰は貴族院が下す。当店の帳面の外だ。修復官は、辞職した。
*
手紙が、一通来た。封蝋に、メルローズ家の紋。私は、封を切って、一行だけ読んだ。
『三十年前の当家の申立、取り下げる。』
署名は、当代の名。私に宛てた言葉は、一つもなかった。それでよい。この一通は、私に宛てたものではない。三十年前に鑑札を失った、一人の金工師に宛てたものだ。
鑑札は、組合長が届けた。今度は、当店ではなく、東の外れの仕事場へ。ジョスラン・ミレー様は、それを受け取って、何も仰らなかったそうだ。組合長が、耳に手を当てて、こう仰った。
「あの男、鑑札を、天秤の皿に載せた」
「……目方を、ですの」
「三十年ぶんの目方だと。……軽かったそうだ」
私は、父の手紙を、質札の綴りに挟んだ。返事は書かない。査定は、まだ終わっていない。当店の査定は、遅い。
同じ週に、ボードワン様が、鍵を受け出しにいらした。
「利息は」
「四行で、頂きましたわ」
私は、鍵を布の真ん中に置いた。刃は、まだ光っている。二十年、一度も差されなかった鍵だ。
「ボードワン様。この鍵、これからお使いになりますの」
「いいえ」
その方は、鍵を懐に納めた。
「次官を辞しました。……書記官に、戻ります」
「まあ」
「公開目録に、来歴の欄ができます。四十七点ぶん、書く者が要ります。二十年書かなかった者が、いちばん、書く量を存じております」
その方は、深く頭を下げた。次官が下町の質屋に頭を下げたのは二度目で、書記官としては、一度目だった。
*
宝物院からも、一通、来ていた。首席鑑定官の席。貴族院宝物委員の席。それから、男爵位。三つ、並んでいた。私は、三つとも、お断りした。その夜、殿下が来られた。
「蔵は、目を持ちませんもの」
殿下は、湯呑みを両手で包んだまま、聞いておられた。
「目は、帳場にございますわ。……殿下。去年の秋にも申し上げましたわね。未亡人が、銅貨五枚の指輪を持って、宝物院の門を叩きますかしら」
「叩かんな」
「ええ。当店の門は、叩きますの」
「……では、私が辞める」
私は、顔を上げた。
「十二年、私の役所が国の宝を外に置いていた。私は総裁だ。責は、私にある」
「殿下」
「辞める。それが」
「それが、見ないための一番早い方法ですわ」
私は、棚から一冊、下ろした。官員録。二十年前の巻。宝物院の頁は、七行しかない。
『総裁 (欠)』
「二十年前の秋、この椅子は空いておりましたのよ。八年、空いておりましたの。……空いた椅子には、責が残りませんわ。だから、誰も数えませんでしたの」
その方は、その一行を、長いこと見ておられた。
「辞めるおつもりなら、一つだけ、条件がございますわ」
「聞こう」
「公開目録に、来歴を載せてくださいまし。四十七点も、三十七点も、王冠も。……年に一度、外の目に見せるのですわ。二十年に一度では、遅すぎますもの」
「……それは、辞めたらできん」
「ええ」
その方は、湯呑みを置かれた。
「分かった。辞めん」
私は、引き出しを開けた。木の箱を一つと、革の手袋を一組。
「お返しいたしますわ」
「……質草だ」
「査定が、終わりましたもの」
私は、二つを帳場に置いた。懐中時計。銀の蓋の裏に、彫り消しの跡。一年前、名を名乗らない黒い外套の男が置いていった品だ。革の手袋。片方は去年の春から、片方は冬から、この引き出しにあった。帳面には、一度も載せなかった。載せれば値をつけねばならなかったからだ。
その方は、手袋を、両手に嵌められた。それから、右手のほうを、また外された。外して、懐に手を入れて、小さな木の箱を、帳場に置かれた。
「客だ」
「いらっしゃいませ」
私は、質札の綴りを引き寄せた。ペンを取った。
「お品物を、拝見いたしますわ」
箱を開けた。
指輪が、一つ。金の輪である。細い。飾りは、無い。正面に石が一つ。爪が四つ。
石は、小さかった。大人の小指の爪の、半分もない。深い青。灯りの下で、ほとんど黒い。
私は片眼鏡を着けた。
一つ目。
金の輪の、継ぎ目である。輪は一本の棒を曲げて、両端を鑞で継ぐ。継ぎ目はたいてい、いちばん下に来る。ここも、そうだった。灯りを近づけた。
何もない。三日月も、月の欠けも、横倒しの線も。
「……殿下」
「うむ」
「これは、ミレー様のお仕事ですわね」
「そうだ」
「署名が、ございませんの」
その方は、少しだけ、間を置かれた。
「言付かっている」
「伺いますわ」
その方は、ご自分の言葉ではない、という言い方で仰った。
「『本物には、要らん』」
私は、片眼鏡を外さなかった。外せなかった、という言い方のほうが正しい。三十年、あの方は写しの継ぎ目に三日月を刻んできた。誰にも見せられない品に、一つだけ、自分の印を入れる。それだけが、三十年、あの方の仕事に残された、その人自身のものだった。本物には、要らない。
……ええ。本物は、見てもらえますもの。
二つ目。
石である。蒼玉。小粒だが、筋も曇りもない。色は、深い。台は、この石のために切ってある。
「殿下。この石は」
「東市だ」
その方は、そう仰った。
「露店で、銀貨二枚。……一年、市を歩いた。贋物でない石を、一つ、自分の目で探した」
「ご自分で」
「あなたに、訊けんだろう」
私は、石を、灯りの下で見た。銀貨二枚。市の値としては、正しい。安いのではない。この石の値は、それだ。それ以上でも、それ以下でもない。
三つ目。
私は、輪を裏返した。内側。何もない。名も、日付も、文字も彫っていない。
「殿下。内側に、何もございませんわ」
「知っている」
「指輪の内には、たいてい、何か彫りますのよ」
「知っている」
その方は、そう仰った。
「あなたが、書け」
私は、ペンを持っていた。持ったまま、しばらく動かなかった。
……ええ。当店は、書く商売だ。一年、この帳場で書き続けてきた。質札、目録、控え、受取証。書いた紙は、歩き出す。書かなかったものは、無かったことになる。
私は、ペンを置いた。
「査定、確定いたしましたわ」
私は、片眼鏡を外した。
「殿下。この指輪の査定額は——」
私は、算盤を引き寄せた。引き寄せて、弾かなかった。
「値が、つけられませんわ」
その方は、動かれなかった。
「当店、値をつけられない物は、二つだけですの」
私は、棚を指した。白い、粗い、下町の焼き物。右の縁が欠けたものと、左の縁が欠けたもの。三十年、月に一度、あの二つで茶が飲まれた。
「一つ目は、祖母の湯呑みですわ。持ち主が、もうおられませんもの。値は、お客様に申し上げるものですのよ」
「二つ目は」
「まだ、当店の帳場にございませんでしたの」
私は、指輪を布の上に置き直した。
「本日、参りましたのよ」
「ヴィオレッタ殿」
「はい」
「私は、王弟だ」
「存じておりますわ」
「あなたは、下町の質屋だ。爵位は受けないと言った」
「ええ」
「ならば、私が降りる」
私は、顔を上げた。
「王籍を離れる。継承の順位は四番目だ。私が抜けても、誰も困らん。……兄には、もう話した。笑っていた」
「総裁の職は」
「残す。宝物院の総裁は、王族の職と決まっている。それを改める。王族でなくとも務まる職にする。貴族院を三度通す。……二年か、三年かかる。二十年ぶんの目録を外の目に見せる仕事もある。辞めるどころではない」
「殿下。当店は、下町の質屋ですのよ。暖簾も、看板も、屋号も、変えませんわ。わたくしの名も」
「知っている」
「三日月堂の、ヴィオレッタですわ」
「知っている」
その方は、湯呑みを取られた。右のほうだ。いつも、右のほうをお取りになる。
「一年、通った」
私は、指輪を、質札の綴りの上に置いた。書式は、埋まらない。名義の欄も、貸付の欄も、期限の欄も。値のつけられない品は、質札が書けない。当店の書式は、値のない品を受け付けない。
……ええ。だから、これは、質草ではない。
私は、右手を出した。
その方が指輪を取られた。嵌めるのに、少し手間取られた。爪の四つが、光を四つに割った。
「ヴィオレッタ殿。内側は、いつ書く」
「……いずれ、書きますわ」
「いずれ?」
「ええ。当店の査定は、遅うございますのよ」
その方は、笑われた。それから、私の手の上の、小さな石を見られた。
「殿下」
「なんだ」
「銀貨二枚と、仰いましたわね」
「ああ」
「正しい値ですわ」
私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「——良い目ですわ」
その方は、しばらく黙って、それから、こう仰った。
「……それは、私の台詞だ」
テオが、階段の上から見ていた。いつからいたのかは、分からない。降りてこなかった。降りずに、そこから言った。
「姐さん」
「なあに」
「明日、店開けんの」
私は、暖簾のほうを見た。朝の光が、細い月の抜き型を通って、土間に落ちている。同じ形の影が、床に一つ。鈴が、鳴るのを待っている。
「ええ」
私は、そう申し上げた。
「明日も、開店ですわ」
ここまでお付き合いくださいまして、ありがとう存じます。
四十七点は、蔵へ。ただし五点と三点と、香水瓶が一つは、持ち主の棚に『貸出』で。
——見られる場所に置きましたのよ。年に一度、目録に載りますの。
儲けは、銅貨四枚でしたわ。蔵は、空のままですの。空になるための蔵ですもの。
書かなかった方は、書記官にお戻りになりましたわ。……いちばん、書く量をご存じですのよ。
三つ、お断りいたしましたの。蔵は、目を持ちませんもの。
空いた椅子には責が残りませんわ。——ですから、お座りのままでいていただきますの。
継ぎ目に、署名がございませんでしたわ。『本物には、要らん』と。
石は、東市の露店で銀貨二枚。一年、市を歩いてお選びになったそうですの。正しい値ですわ。
——良い目、と申し上げましたのよ。一年通って、初めて。
値をつけられない物は、二つだけですの。本日、二つ目が参りましたわ。
次回、第85話『——お品物を、拝見いたしますわ』——
最終話でございます。明日も、開店ですわ。
一年通った方の目に、☆を一つ。……当店の帳面には、載せませんけれど。




