第85話:『——お品物を、拝見いたしますわ』
帳場は、譲れる。目は、譲れない。
この二つを取り違えると、店は続かない。三十年、祖母がこの帳場でやってきたことの中身は、たぶん、そういうことだった。書いた帳面は残る。見た目は、残らない。だから、帳面を残して、目はその人に持たせておく。
……ええ。ようやく、分かってまいりましたわ。
夏の朝である。あの夜から数えて、一年と少し。暖簾の抜き型を、朝の光が通る。細い月の影が、土間に一つ。
「テオ」
「なに」
「本日は、あなたが出してくださいまし」
その子は、暖簾を手にしたまま、こちらを見た。
「……いつも、姐さんが出すじゃん」
「ええ」
「なんで」
「十三になりましたでしょう」
テオは、しばらく黙って、それから外へ出た。板の鳴る音が、八枚。
午前中に、客が三人。鍋と、外套と、子供の靴。どれも小さな品だ。私が査定して、私が質札を書いた。テオは、脇で見ていた。昼を回った頃、四人目が来た。
からん。
若い母親である。子の手を引いておられた。この方は、当店の古いお客様だ。開店してすぐの頃、鍋を一つ抱えて、暖簾の前に立っておられた方である。
「三日月堂さん。お願いがあって」
「いらっしゃいませ」
私は、帳場から立った。立って——座らなかった。
「テオ」
「え」
「お客様ですわ」
テオは、動かなかった。三つ数えるあいだ、動かなかった。それから、帳場に座った。私が一年と少し、座ってきた場所である。
私は、店の奥へ引いた。この店の帳場は、暗い。祖母が、そうしたのだ。奥へ引けば、客からは見えなくなる。
「……いらっしゃいませ」
テオの声が、少し裏返った。若い母親は、風呂敷を解いて、鍋を出された。銅である。片手鍋。大きくはない。
「これ、いくらになる? ……子が熱を出してね。薬代が、少し足りないの」
「拝見します」
テオが、そう言った。その子は、鍋を両手で持ち上げた。
縁を掴まなかった。底を左手に載せて、右手は添えるだけ。薄い銅の器は、縁を掴むと歪む。
……ええ。覚えていたのだ。
テオは、鍋を灯りから離して、影のほうへ傾けた。
「銅の目方——三百二十匁くらい。……厚いほうだ」
「ええ」
「把手の付け根、鑞が回ってる。ここ、直したとこ」
その子は、指で内側を撫でた。
「底も、直してる。……当て金だ。二枚」
「三度、直したの」
若い母親が、そう仰った。
「あたしの母親のだから。二十年は使ってる」
テオが、顔を上げた。その目が、少し動いた。
私は、奥で、息を止めていた。
そこだ、テオ。そこで、値が変わる。物の値は、目方と、材と、作りと、傷。それだけだ。ここまでは、あなた、正しく計った。けれど、質屋の値は、もう一つある。この品が、戻ってくるかどうか。
「……銀貨、八枚」
テオが、そう言った。若い母親の口が、開いた。
「八枚? ……そんなに? あたし、三枚くらいだと思って」
「三枚じゃない」
テオは、算盤を引き寄せた。私がいつも置いている場所から、少し手前へ。
「三度直して、二十年使ってる鍋は」
ぱちん。
珠が、一つ。
「絶対、受け出しに来る」
……ええ。正しゅうございますわ。
当店の流質は、二割だ。祖母の代から、ずっと二割。八割の客が、受け出しに来る。だから当店は高く貸せる。戻ってくる品は、高く貸せる。戻ってこない品は、安くしか貸せない。テオ、あなたはいま、その理屈を自分で出した。私は、教えていない。脇で、一年、見ていただけだ。
テオは、質札を書いた。名義。品名。受入日。貸付、銀貨八枚。利、月に一分。期限、三月後。備考の欄で、少し止まった。それから、書いた。
『底、当て金二枚。把手、鑞。——三度、直してある』
字は、下手だった。線からはみ出しているし、「質」の字の下が、まだ潰れている。欄は、全部埋まっていた。
「……はい。控えです。なくさないで」
「ありがとうね。……坊や、上手だねえ」
「坊やじゃない」
テオは、そう言った。
「見習いです」
その方が帰られてから、私は帳場に戻った。テオは、まだ座っていた。手が、少し震えている。
「姐さん」
「なあに」
「見てた?」
「ええ」
「八枚、高すぎた?」
「いいえ」
私は、質札の綴りを引き寄せて、その一枚を確かめた。直すところは、一つもなかった。
「テオ」
「なに」
「よくできました」
その子は、しばらく算盤を見ていた。それから、こう言った。
「姐さん。……片眼鏡、貸して」
私は、片眼鏡に手をやった。祖母の形見である。裏蓋に、蔵の鍵が仕込んであった。一年と少し、私はこれを毎日使ってきた。
鎖を、ちり、と鳴らした。
「差し上げませんわ」
「え」
「貸しても、差し上げても、いけませんの」
「……なんで」
私は、それを着けた。
「目は、差し上げられませんもの」
テオが、こちらを見た。
「あなた、ご自分でお持ちですわ」
「……オレ、持ってない」
「いま、お使いになりましたでしょう」
私は、片眼鏡を外した。
「じゃあ、姐さん」
「なあに」
「オレに、何くれんの」
私は、帳場を指した。板の卓。算盤。質札の綴り。天秤と、分銅が二十七。
「これですわ」
*
月に一度、ジョスラン・ミレー様がいらっしゃる。その日は、湯呑みを二つ出す。白い、粗い、下町の焼き物。右の縁が欠けたものと、左の縁が欠けたもの。その方は、いつも左のほうをお取りになる。
先月、その方が包みを一つ持ってこられた。
「焼かせた」
「まあ。何をですの」
「ラトン街の、東の窯だ」
開けると、湯呑みが二つ入っていた。白い、粗い、下町の焼き物である。祖母のものと、同じ窯だ。二つとも、縁が欠けていた。
「……ミレー様」
「なんだ」
「欠けさせて、ございますのね」
「揃いのほうが、落ち着かんだろう」
その方は、そう仰った。
「あんたのと、あの人のだ」
いま、当店の棚には、湯呑みが四つある。二つは、値をつけられない。二つは、新しい。
夕方の帳場で、私は蔵の帳面を繰っていた。祖母の裏台帳は、五冊ある。五冊目の最後の記載は、こう書いてある。
『銀水差し 一 本歌なし 継ぎ目底寄り 横倒しの月あり
三日月堂 帳場にて 金貨八十枚』
備考欄に、二文字。
『本物。』
私は、その頁を閉じた。閉じて、新しい一冊を棚から下ろした。六冊目である。まだ、一行も書いていない。革表紙で、背が固い。私は、一頁目を開いた。
祖母の一冊目の一頁目には、備考欄に、長い一行が書いてある。
『本物を作ったら、うちの帳場へ持っておいで。値は、わたしがつける。』
三十年、その一行が、たった一人の男を待っていた。
……ええ。当店も、書いておきましょうか。三十年後に、誰かが読む。
私は、ペンを取った。
*
からん。
鈴が、鳴った。夕方の客である。店じまいの刻限には、まだ少しある。
私は、顔を上げなかった。帳場には、テオが座っている。黒い外套の裾が、暖簾の下に見えた気がしたけれど、それも、上げなかった。
「いらっしゃいませ」
その声は、もう、裏返らなかった。
私は、六冊目の一頁目に、ペンを下ろした。備考欄に書いた一行は、これである。
『——お品物を、拝見いたしますわ。』
最後までお読みいただきまして、心より御礼申し上げますわ。
第1話で、婚約破棄の会場から下町へ参りましたのが、一年と少し前のことでございます。
あの夜、当店が持っておりましたのは、片眼鏡が一つと、外套が一枚だけでしたのよ。
四十七点は、見られる場所へ戻りました。王冠には、本歌が嵌まりましたわ。
祖母の三十年は、備考欄の二文字になりましたの。
写し師の手は、署名の要らない仕事をいたしましたわ。
当店は、下町の質屋のままでございます。看板も、暖簾も、屋号も、名も、そのままですの。
帳場は、譲れますわ。——目は、譲れませんもの。
湯呑みは、四つになりました。二つは、値をつけられませんの。
長い査定に、最後までお付き合いくださいまして、ありがとう存じます。
遅い店でございましたでしょう。……ええ。当店の査定は、遅うございますのよ。
それでは、暖簾を仕舞う前に、もう一度だけ。
——お品物を、拝見いたしますわ。
——『婚約破棄された公爵令嬢は、下町で質屋を継ぎました』・完——




