第8話:『公爵家のページは、まだ開かないでおきますわ』
裏台帳を見つけてから三日、私は公爵家のページを開いていない。
開けば、続きを読んでしまう。読めば、調べてしまう。調べれば——あの家に、もう一度関わることになる。
勘当された日、私はあの家の査定を「確定」した。確定した査定をほじくり返すのは、二流の目利きのすることだ。
……と、いうのが表向きの理屈で。
「姐さん、また帳場で唸ってる」
「唸ってなど、おりませんわ」
「唸ってたよ。算盤も三回、同じとこで止まってた」
まったく、この弟子の目は、よく利く。
幸い、商いは私を待ってくれない。本日も三日月堂には、下町の暮らしが品物の形をして持ち込まれる。
産着を質入れに来た若い母親には、貸付に粥屋の引換札を一枚添えた。質流れ覚悟で工具を置いていこうとした指物師には、「腕のある方の道具は、流すだけ損ですの」と期限を倍に延ばした。商いとしては甘い。けれど祖母の貸付台帳を読めば読むほど分かる——三日月堂の利益は、利息ではなく信用の複利で出来ているのだ。
午後、油問屋の隠居が、青磁の香炉を持ち込んだ。
「黄金天秤の競売で、三年前に金貨四十枚で競り落とした品でな。倅の店が傾いて、急ぎ金がいる。質草というより……正直、いくらで売れるか、見てほしいんじゃ」
拝見して、三十秒で済んでしまった。
高台の継ぎ目に、横倒しの三日月。
「ご隠居。率直に申し上げますわね。これは写し——贋作ですわ」
「な……っ! そんな、馬鹿な! 由緒書きもある、黄金天秤の保証書も……!」
「その保証書ごと、贋作ですの」
ご隠居は、しばらく香炉を睨んでいた。それから、力なく笑った。
「……四十枚が、紙くずか。はは。わしの目も、焼きが回った」
「いいえ。これは、お目が曇っていたのではありませんわ。曇らせる商売をする者がいたのです」
私は貸付の証文を書き、銀貨の包みと一緒に押し出した。香炉の査定額としてではない。「黄金天秤に金貨四十枚を騙し取られた」という、その記録への貸付として。
「ご隠居。この香炉と保証書、当分の間、当店にお預けくださいまし。利息は結構。その代わり——いつか必要になった日、警吏の前で同じお話をしてくださいな」
「……あんた、あの天秤と、やり合う気か」
「さあ。ただの質屋ですもの、わたくし」
ご隠居は初めて、ほんの少しだけ、商人の顔で笑った。
「エルマさんも、昔、同じ顔で同じことを言いよったわ」
*
閉店後。帳場の灯りの下で、テオがぽつりと切り出した。
「……昼間の三日月の判子、さ。俺、もうひとつ知ってること、ある」
手元の雑巾を、無意味に畳み直しながら。
「俺の前の『元締め』——鴉のジェスパーって爺だ。すりとか、空き巣とか、下町のガキを束ねてる。で、たまに『上玉の仕事』があると、ガキに品物を運ばせるんだ。行き先は決まって、北の堀沿いの蝋燭工房。……表向きは、な」
「中身は、古色づけの工房」
「ああ。彫り粉と膠と煤の匂い。昼間の下見会の爺さんと、同じ匂いだ。それで……運び賃をもらう時、木箱の蓋に焼き印があった。横倒しの月だ。ガキ連中は『欠け月の判』って呼んでた」
つながった。
鴉のジェスパー。北の堀沿いの工房。黄金天秤。そして、三日月の署名。
「テオ。よく話してくださいましたわね」
「……別に。ただ、さ」
テオは雑巾を置き、私を見ずに言った。
「ジェスパーは、執念深い。足抜けしたガキを、何年経ってもほじくり返しに来る。俺がここにいると、いつか店に迷惑が——」
「テオ」
私は算盤を、ぱちり、と一つ弾いた。
「当店の雇用契約に、『過去』という担保は要求しておりませんの。あなたの値打ちは、わたくしが査定済み。——よって、その心配の査定額はゼロですわ」
「…………へん。なんだよそれ」
憎まれ口の語尾が、少し滲んでいた。聞こえなかったことにして差し上げるのが、雇い主の品というものだろう。
その晩、私は蔵の棚から、裏台帳の最新刊をもう一度取り出した。
公爵家のページの、一つ手前で指を止める。
……まだ、開かない。
開くのは、感傷で読むためではなく、武器として使う日と決めた。それまでは。
翌朝。
店先の郵便受けに、組合の封蝋も差出人の名もない、一通の呼び出し状が突っ込まれていた。
『王都質商組合・臨時会合の儀。三日月堂女主人の出席を求む』
差出人の代わりに、紙の右下に、薄い蝋の染み。
——黄金天秤の、徽章の形ですわね、これ。
お読みいただき、ありがとうございます。
ご隠居の香炉、当店の「証拠品棚」一号でございます。
次回、第9話『下町の信用は、金貨では買えませんのよ』——
組合の会合とやらに、お呼ばれしてまいります。
ブックマークと評価(☆☆☆☆☆)は、当店の暖簾への何よりの『出資』ですわ。
利息は次話で、必ずお返しいたします。




