第79話:『火は、紙を焼きますわ。——けれど、目は焼けませんのよ』
銀は、燃えない。
木屑の火では、銀は溶けない。煤を被って黒くなるだけだ。翌朝、灰を掻けば、たいてい出てくる。この帳場で扱ったなかで、火事から戻ってきた品は四点あった。四点とも、銀か、鉄か、石だった。
……ええ。ですから、火を放つ方は、銀を狙いませんの。
夜が明けて、私は焼け跡に立っていた。作業場は、半分だけ残っていた。奥の壁と、屋根の梁が三本。手前は、土間まで炭になっている。
指物師は、隣の油問屋のご隠居の家に運ばれていた。眉が焦げただけで、火傷はない。水差しも、無事だ。三重の布は、いちばん外の一枚だけが焦げていた。
「三日月堂」
ジラール警吏長が、炭を靴の先で払っていた。
「見るか」
「拝見いたしますわ」
一つ目。
火元は、入口側だった。
木屑は、奥に積んである。膝まであった山だ。奥から燃えれば、手前は最後に燃える。この作業場は、逆に焼けている。土間の入口が、いちばん深く炭になっていた。
二つ目。
燃え方が、速すぎる。木屑は、燻る。煙を出して、じりじり広がる。火の手が上がるまでに、半刻はかかる。
ボナール氏が火を見つけてから、私が着くまで、四半刻もなかった。そのときには、屋根まで炎が回っていた。私は、土間にしゃがんだ。
炭の下に、円い染みがある。輪の形だ。
「ジラール様。油ですわ」
「ああ」
「一斗、いえ、二斗ほど」
三つ目。
私は、裏の路地へ回った。昨夜、二十人が桶を回した。土は踏み荒らされている。それでも、板塀の際は、誰も歩かない。
際に、足跡が二つあった。私は、指で土をつまんだ。
崩れた。粉になった。指の腹が、赤くなった。
「火付けだ」
ジラール警吏長は、そう仰った。
「三十年ぶりに、この言葉を使った。……下町では、火は事故だ。人が寝煙草で焼くか、竈が跳ねるかだ。火を『付けに来る』者は、下町にはおらん」
「なぜですの」
「焼いても、金にならん」
その方は、帽子を目深にした。
「金になる家には、火をつけん。盗る。金にならん家に火をつけるのは、金以外のものが欲しいときだ」
「ええ」
私は、焼け落ちた奥の壁を見た。その壁に、昨日、何が貼ってあったかを、私は覚えている。
紙が、七枚か八枚。仕事の受け札と、市の売り札だ。あの方は、自分の挽いた木が戻ってきた日の売り札を、二十年、壁に貼っていた。
黒い、四角い跡だけが残っていた。
「ジラール様」
「なんだ」
「火は、紙を焼きますわ」
私は、壁の跡に指を置いた。
「けれど、お品は、銀ですもの。燃えませんの」
「……つまり」
「燃やしたかったのは、お品ではございませんわ」
私は、指を離した。煤が、爪の中まで入った。
「お品と、この街を結んでいる紙ですのよ」
*
その日のうちに、二軒から報せが来た。
乾物屋の女房のところに、夜、人が来たという。裏の戸を叩いて、「三日月堂の使いだ」と名乗った。女房は開けなかった。うちの子が三日月堂の坊主と喧嘩したばかりだから使いなんぞ来るはずがない、と思ったそうだ。
北の修道院にも、来た。門番が断った。私は、帳場に十七枚の質札の綴りを広げた。
私が回った順に並んでいる。乾物屋。修道院。若い夫婦。指物師。
……ええ。
順番どおりですわね。
「テオ」
「なに」
「当店が回った先を、ご存じの方は」
「……乾物屋のおばさんが喋ったって、爺さんが言ってた」
「ええ。けれど、それは、行った先ですわ」
私は、綴りを閉じた。
「これから行く先を、ご存じの方がおいでですのよ」
テオの顔が、変わった。
「回状じゃん」
「ええ」
三百五十二軒に配った回状だ。品名は書かなかった。寸法と、目方と、作りの癖だけ。あれを持っていれば、四十七点の形が分かる。
あれと、返事を突き合わせれば、当店が次にどこへ行くかも分かる。
*
夕方、鈴が鳴った。黒い外套。手が、空。
「焼けたそうだな」
「ええ」
「怪我人は」
「眉が、片方」
その方は、帳場の前に立ったまま、座らなかった。
「ヴィオレッタ殿。十七軒だと聞いた」
「十四軒ですわ。三軒は、済みましたもの」
「十四軒を、あなたはどうやって守る」
「守れませんわ」
私は、正直に申し上げた。
「当店、二人しかおりませんの」
「宝物院の名で、警備を出す」
私は、片眼鏡の鎖に指をかけた。
「殿下」
「言うな。分かっている」
その方は、拳を、帳場の縁に置いた。置いただけだ。叩きはしなかった。
「宝物院が動けば、宝物院が知る。知った蔵は、紙を焼く。……私はその一行のために、何もしていない」
「殿下」
「なんだ」
「何もしないのは、いちばん難しいことですわ」
その方は、答えなかった。私は、湯を沸かした。今日は、飲まれる日だろうと思った。
「殿下。当店、守り手の当てがございますの」
「どこだ」
「そこの土間ですわ」
土間には、爺さんが二十七人いた。
朝から、一人ずつ増えた。誰も、私が呼んでいない。ボナール氏が、区割りの紙を持って立っていた。回状を配ったときと、同じ紙である。
「十四軒だな」
「ボナール様」
「二人ずつだ。夜番は、四つ刻交代。……儂らは、寝るのが早いからな。二番でも三番でも起きとる」
「危のうございますわ」
「お嬢さん」
その方は、帽子を握り潰した。
「儂ら、質屋だぞ」
土間の後ろで、誰かが笑った。
「四十年、夜中に人が戸を叩くのを聞いて暮らしとる。……足音を聞き分けるのは、儂らの商売だ」
殿下が、土間のほうを見ておられた。王弟殿下が、下町の爺さん二十七人を、黙って見ていた。
「……ヴィオレッタ殿」
「はい」
「私は、十四軒に兵を出せる。だが、出せば蔵が知る」
「ええ」
「この方々は、兵ではない」
「ええ」
「そして、蔵は、この方々を知らない」
その方は、少しだけ笑われた。
「良い目だ」
*
夜になって、爺さんたちが散った。ジラール警吏長が、最後まで帳場に残っていた。湯呑みを両手で包んで、飲まずにいる。
「三日月堂」
「はい」
「油を二斗使って、木屑の家に火をつける手口だがな」
「ええ」
「儂は、一度だけ、報告書で読んだことがある」
その方は、湯呑みを置いた。
「王都の火事ではない。管轄外だ。だから、儂は現場を見とらん。ただ、書式が同じでな。『油、二斗ばかり。火元、入口側。焼死者なし』」
私は、動かなかった。
「いつのことですの」
「二十年前だ」
柱時計が、九つ、鳴り始めた。
「場所は」
「クレール市」
銀は、燃えませんの。木屑の火では溶けませんもの。翌朝、灰を掻けば出てまいりますわ。
——ですから、火を放つ方は、銀を狙いませんのよ。
壁に、黒い四角の跡が七つ、残っておりましたわ。仕事の受け札と、市の売り札を貼っていた跡ですの。
燃やしたかったのは、お品ではございませんわ。お品と、この街を結んでいる紙ですのよ。
当店が回った順が、知られておりましたの。……三百五十二軒に配った、あの回状ですわ。
当店が外を数えるために撒いた紙で、あちらも、外を数えておいででしたのね。
十四軒を、当店は守れませんわ。二人しかおりませんもの。
——ですから、二十七人にお願いいたしましたの。四十年、夜中の足音を聞き分けてきた方々に。
次回、第80話『二十年前の火事は、事故ではございませんわ。——註文帳を、焼きに来たのですわ』——
油、二斗ばかり。火元、入口側。焼死者なし。……同じ書式が、二十年前にございましたのよ。




