第78話:『「売らない」と仰るお品にこそ、正しい値打ちがございますわ』
売らない客の前では、算盤を出さない。
算盤を出せば、こちらの用件が「金」だと申し上げたことになる。金の話は、断られたときに逃げ場がない。祖母の裏台帳の備考欄に、たまにこう書いてある。『売らず。よし』——値をつけなかったのではない。売らないことを、良し、と書いてある。
……ええ。本日は、そういうお品ですわ。
「四十年、と仰いましたわね」
「言った」
指物師は、水差しの上に両手を重ねたまま、動かなかった。
「けれど、お求めになったのは、二十年前ですのよね」
「買ったのは二十年前だ」
「では、四十年は」
その方は、水差しをこちらへ半寸だけ押した。
「底を見ろ」
私は片眼鏡を着けた。銀の水差しは、底が広い。据わりをよくするために、銀の中に台を入れる。金属だけで台を作ると重くなりすぎるので、芯に木を入れて、その上から銀を巻く。
台の縁に、一分ほど、木が覗いていた。黒っぽい。四十年ぶん、手垢と油を吸った木の色だ。
私は、灯りを傾けた。轆轤の跡が、ある。
……ええ。
この筋は、右へ流れておりますわ。
轆轤を挽く職人は、たいてい左から右へ刃を送る。右利きだからだ。この木は、逆。右から左へ、刃が抜けている。
「左手でお挽きになりましたのね」
指物師の肩が、動いた。
「……見えるか」
「見えますわ」
「二十六だ」
その方は、指で、自分の左手を握った。
「二十六のときに、挽いた。宮廷工房の下請けだ。銀屋が木の台だけ外に出す。一つ、銅貨四枚だ。俺は、その年、三百挽いた」
「三百」
「そのうちの一つが」
その方は、水差しを見た。
「二十年前、東市の莚の上に、転がっとった」
「銀貨いくらで、お求めになりまして?」
「五枚だ」
老人は、鉋屑の中に座り直した。
「莚に、鍋と一緒に置いてあった。俺は、鍋を見に行ったんだ。……底が見えた」
「ええ」
「二十年、飯を食う金がなくても、これは売らんかった」
私は、片眼鏡を外した。
「査定、確定いたしましたわ」
その方の白い片目が、こちらを向いた。
「金貨、百六十枚ですわ」
鉋屑が、少し、音を立てた。
「……ひゃく」
「ええ。目録の一点目ですわ。四十七点のうちで、いちばん値の張るお品ですの」
私は、水差しを、その方のほうへ押し戻した。半寸ではなく、全部。
「お売りになりませんわね」
指物師は、答えなかった。
「ええ。結構ですの」
「お嬢さん」
「はい」
「値なんぞ、つけんでもよかったろう」
「いいえ」
私は、鞄を閉じた。
「つけますわ。……つけないのは、逃げですもの」
「逃げ?」
「ええ。値をつけなければ、誰も、あなたの二十六のお仕事を、褒めなくて済みますのよ」
その方は、しばらく、水差しを見ていた。それから、両手で持ち上げて、布に置いた。四つに畳んだ布が、二重。
「四つ目は」
「ございますわ」
私は、上がり框から立ち上がった。
「当店、本日、何も伺わなかったことにいたしますの」
「……何も?」
「ええ。ここに水差しがあることを、当店の帳面には書きませんわ。祖母の帳面には、二十年前から書いてございますけれど、あれは、誰にもお見せいたしませんもの」
老人は、口を開けた。
「それじゃ、あんたが」
「ええ。当店が、隠したことになりますわ」
「……いいのか」
「よろしいの」
私は、暖簾——ではなく、油紙の垂れた戸口に手をかけた。
「ただ、一つだけ、お願いがございますの」
「なんだ」
「その布を、三重になさって」
その方が、顔を上げた。
「二重では、湿気が入りますわ。冬の作業場は、木屑が水を吸いますもの。……四十年もったものを、四十一年めで曇らせては、もったいのうございますわ」
*
帰り道、テオは怒っていた。怒り方が、この一年で少し変わった。前は、すぐ喋った。今は、三町ほど黙ってから喋る。
「姐さん」
「なあに」
「なんで引いたの」
「お売りにならなかったからですわ」
「そうじゃなくて」
テオは、鞄を担ぎ直した。中身は、まだ金貨千七百枚ある。
「取り返さなきゃ、姐さんが負けるんだろ」
「ええ」
「じゃあ——」
「テオ」
私は、足を止めなかった。
「負けても、よろしいのですわ」
テオが、後ろで止まった。私は、そのまま二歩、歩いてから、振り向いた。
「当店、取り立て屋ではございませんもの」
「でも」
「あの方が売らないと仰るのは、四十年、あのお品が正しく持たれていた、ということですわ」
私は、質札の綴りを軽く叩いた。
「二十年前に王宮の蔵から出て、莚に転がって、それでも一度も『いくらだ』と訊かれなかったお品ですのよ。……当店の帳面に載るより、よほど、無事ですわ」
テオは、まだ納得しない顔をしていた。この子は、正しい。十二歳の正しさだ。取り返せるものは取り返すべきで、悪いものは悪い。
……ええ。私も、去年の春は、そう思っておりましたのよ。
*
その夜、鈴が鳴った。店じまいの、少しあとだった。
からん、ではなく、がらん、と鳴った。人が、扉に体ごとぶつかった音だ。
「三日月堂!」
ボナール氏だった。帽子を被っていなかった。
「火だ!」
私は、帳場から立った。
「どちらですの」
「二本外れた、指物師んとこだ!」
*
走った。
路地の先が、赤かった。冬の夜の空気は、火をよく通す。木屑の積んだ作業場が燃えると、こういう色になるのだと、私はその夜、初めて知った。
人が、二十人ほど出ていた。桶が回っている。誰かが井戸の縄を引いている。
「爺さんは!」
「出た! 出たぞ!」
指物師は、路地の反対側の壁に、背中をつけて座っていた。顔が、煤だらけだった。眉が、片方焦げている。
その腕の中に、布の包みがあった。
四つに畳んだ布が——三重。
底の木の台に、轆轤の筋がございましたの。右から左へ、刃が抜けておりましたわ。
——二十六のときに、ご自分で挽いた木ですのよ。それが二十年前、東市の莚に転がっておりましたの。
金貨百六十枚と申し上げましたわ。お売りになりませんでしたけれど、値はつけましたの。
値をつけなければ、誰も、あの方の二十六のお仕事を褒めなくて済みますもの。
四つ目を、ご用意いたしましたわ。当店、本日は何も伺わなかったことに。
——お願いを一つだけ。布を、もう一枚お重ねくださいまし、と。
——その夜でございます。
次回、第79話『火は、紙を焼きますわ。——けれど、目は焼けませんのよ』——
燃えたものと、燃えなかったものを、数えに参りますわ。




