第75話:『ボードワン様。あなたのお名前が、二十年前の受領欄にございますわ』
雨の日は、客が来ない。
濡れた品は、値が落ちる。だから持ち主は、雨の日を避ける。質屋を始めて分かったことの一つだ。逆に言えば、雨の日に来る客は、品の値を気にしていない。
……ええ。そういうお客様が、当店は、いちばん怖うございますの。
その夜、暖簾はもう下ろしてあった。外は、冬の雨だった。細かくて、冷たくて、音のしない雨だ。
「姐さん。誰か、立ってる」
テオが、雨戸の隙間から言った。
「傘、さしてねえ」
*
ジェラール・ド・ボードワンは、外套の肩を、雨で黒くして立っていた。
馬車はなかった。歩いてきたのだ。宝物院から下町まで、二十七町ある。
「……夜分に」
「お入りになって」
その方は、土間で外套を脱ごうとして、脱ぐ場所がないことに気づいて、そのまま持っていた。テオが、無言でそれを受け取って、竈の脇に掛けた。私は、帳場に灯りを入れた。
「ボードワン様。当店、本日は閉店しておりますの」
「存じております」
「ですから、お茶をお出しいたしますわ」
その方は、椅子に浅く腰かけた。姿勢は、やはり良かった。両手を、膝に置いた。それから、その手を、懐に入れた。
「質入れを、お願いしたい」
帳場の上に、置かれたものがあった。
鍵である。
鉄。長さ四寸ほど。柄に、剣と星の透かし。私は片眼鏡を着けた。
「拝見いたしますわ」
一つ目。
鉄の柄。透かしの意匠は、王立宝物院の紋。役所の鍵は、必ず紋を入れる。持ち出せば、どこの役所の鍵か一目で分かるようにするためだ。
二つ目。
刃の形。三段の段刃で、返しが二つ。これは古い型である。二十年より、もっと古い。
三つ目。
私は、鍵を灯りの真下へ持っていった。刃が、光っていた。
……ええ。
私は、片眼鏡を外した。
「ボードワン様。この鍵は、二十年、一度もお使いになっておりませんわね」
その方の肩が、動いた。
「……なぜ、分かるのです」
「使われた鍵は、曇りますの」
私は、鍵を布の上に置いた。
「錠前の中は、油と、鉄の粉と、埃ですわ。差して、回して、抜く。それを毎日繰り返しますと、刃の角が丸くなって、面が曇りますのよ。……当店の蔵の鍵は、真っ黒でございます」
「…………」
「これは、光っておりますわ。二十年、袋か、箱か、懐の中でだけ、擦れておりますの」
ボードワン次官は、鍵を見ていた。
「持っていて、お開けにならなかった」
「はい」
「なぜ」
その方は、初めて、姿勢を崩した。背が、少しだけ丸くなった。
「開ければ、四十七点、並んでおりますので」
私は、白紙を出した。質札ではない。ただの紙だ。この方が仰ることを、私は書き留めるつもりだった。
「ボードワン様。書いても、よろしくて?」
「……お願いします」
「あなたが仰ったことは、いずれ、どこかで読まれますわ」
「はい」
「それでも、よろしくて?」
その方は、頷いた。
「二十年、誰も、私に訊きませんでした」
その夜、私が書き留めたのは、こういう話である。二十年前。宝物院の蔵は、傷んでいた。
北の蔵は、川に近い。夏の湿気で、木の宝が反る。革が黴びる。銀は硫黄で黒くなり、絵は虫が食う。修繕には金が要る。宝物院は、三年続けて、修繕の予算を削られた。
「削ったのは、私です」
ボードワン次官は、そう仰った。
「書記官でしたので、要求書を書くのは私でした。三年目に、次官から言われました。『今年は出すな。通らん要求を書くのは、役所の恥だ』と」
「モンフォール様ですわね」
「はい」
その方は、湯呑みに手を触れたが、持ち上げなかった。
「四年目の秋に、次官が仰いました。『金がないなら、外で直させればよい』と」
「外で」
「はい。……ただ、宝物院の品は、蔵から出せません。出納には貴族院の承認が要ります。承認を求めれば、なぜ傷んだのかを問われます。問われれば、三年、予算を削った側の恥になる」
私は、ペンを止めなかった。
「ですから、『壊れたこと』にいたしました」
「破損につき処分」
「はい」
「四十七回、お書きになった」
「はい」
「運び出したのは、四日後です」
その方は、そこから先を、ずいぶん平坦な声で仰った。役所の報告書を読み上げるときの声だ。二十年、頭の中でこの報告書を読み続けてきたのだと、私は思った。
「役所の馬車を使えば、門の記録に残ります。ですから、馬車も一台、同じ日に『破損につき処分』にいたしました」
「紋の板を、外して」
「……ご存じでしたか」
「本日、伺ってまいりましたの。南の橋のたもとで」
その方は、目を閉じた。
「あの親方は、まだ」
「ご健在ですわ」
「そうですか」
それだけ仰って、しばらく、目を閉じたままだった。
「品は、クレール市の職人のところへ運びました。腕のいい金工師がいると、次官が」
私の指が、紙の上で止まった。
……ええ。
「その方は、お名前を」
「名乗りませんでした。こちらも、訊きませんでした。……そういう約束でしたので」
「では、その方は、四十七点を直したのですわね」
「はい。半年かかりました」
「そして、同じ半年で」
私は、ペンを置いた。
「四十七点の、写しをお作りになった」
「蔵を空にしておくわけには、参りません」
ボードワン次官は、そう仰った。
「監査は三年に一度です。棚が空いていれば、必ず問われます。ですから、代わりの品を置きました」
「置いた品は、どなたが註文なさいましたの」
「次官です。私は、受け取りました」
「受領欄に、お名前が」
「はい」
私は、その一行を書いた。
『註文——モンフォール/受領——ボードワン』
「半年後、品が直って戻ってまいりました。私は、次官に申し上げました。『元に戻しましょう』と」
「戻りませんでしたのね」
「はい」
その方は、湯呑みを、ようやく持ち上げた。持ち上げて、口をつけずに置いた。
「次官は、こう仰いました。『戻せば、四十七点が二組になる』と」
……ええ。
そうだ。
蔵には、写しが四十七点、並んでいる。本歌を戻せば、九十四点になる。帳面には、四十七点しか載っていない。
「写しを引き揚げれば、よろしいのでは」
「引き揚げれば、監査までに棚が空きます。空いた棚を埋める理由が、また要ります」
「では、写しを『破損につき処分』になさればよろしいわ」
「……三日月堂さん」
その方は、初めて、笑おうとして、失敗した顔をなさった。
「二度目の『破損につき処分』を、誰が信じます」
嘘というのは、そういうものだ。一度目は、紙一枚で済む。二度目は、一度目の紙が邪魔をする。三度目には、もう、動かせる紙がなくなっている。
この帳場は、そういう客を何度も見ている。金貨三枚の借金を、返さずに二年置いた方が、元利合計で二十枚になって、それでも返さずに来る。
嘘の利息は、時間で増えますのね。
「一年、預けておくことになりました」
ボードワン次官は、続けられた。
「二年になりました。五年になりました。……十年になりました」
「その間、四十七点は、どちらに」
「あちこちです」
その方は、指を組んだ。
「次官が、いくつかの家に預けられました。修道院に三点、南の別邸に十点、あとは、私も知りません」
「あなたは、お確かめになりまして?」
その方は、そこで、長く黙られた。雨の音が、少しだけ強くなった。テオが、竈の火を掻き立てる音がした。
「……年に一度、見に行っておりました」
「見に」
「休暇を取りまして。自分の金で。誰にも言わずに」
その方は、膝の上で、指を一本ずつ折った。
「一年目、四十七点。三年目、四十七点。七年目、四十七点」
折った指を、開いた。
「十二年目に、四十四点でした」
私は、ペンを持っていなかった。持っているつもりで、指だけ動かしていた。
「十五年目に、三十八点」
「…………」
「十八年目に、三十二点」
その方は、両手を膝に戻した。
「今年、二十九点です」
「ボードワン様」
「はい」
「お訊きになりまして?」
「何をです」
「減った理由を」
沈黙が、長かった。柱時計が、十を打った。打ち終わるまで、その方は何も仰らなかった。
「……訊きませんでした」
「なぜ」
「訊けば、答えが返ってまいります」
その方は、私を見た。
「答えが返ってきたら、私は、それを書かねばなりません。私は、書記官でしたので」
……ええ。
私は、帳場の算盤を引き寄せた。引き寄せたが、弾かなかった。
「ボードワン様。あなたは二十年、四十七点を数えておいででしたわ」
「はい」
「一行も、お書きになりませんでしたのね」
その方は、頷いた。
「一行も」
「査定、確定いたしましたわ」
私は、鍵を、布の真ん中に置いた。
「金貨、ゼロ枚ですわ」
ボードワン次官の顔が、動かなかった。
「……ええ。存じております」
「ご存じで」
「私が持ってきたのは、鍵ではありません。開けなかった二十年です。……値のつくものではない」
「値は、つきませんわ」
私は、質札を一枚、抜いた。
「けれど、お預かりいたしますの」
その方が、顔を上げた。
「当店、値のつかないお品も、お預かりいたしますのよ」
私は、書式どおりに書いた。名義、品名、受入日。備考の欄で、少し考えた。
『査定額 なし。
受け出しの期限——なし。』
「ボードワン様。値は、受け出しにいらしたときに、つけますわ」
「……私は、受け出せません」
「では、期限をなしにいたしましたの」
私は、控えを切って、その方に差し出した。
「当店の質草は、流れなければ、いつまでもここにございますわ」
その方は、控えを受け取った。受け取った手が、震えていた。二十年、正確な折り目をつけてきた手が、である。
*
「一つだけ、伺ってもよろしくて?」
「はい」
「二十年前、この四十七点が、誰の手で市に流れたのですの」
ボードワン次官は、立ち上がった。外套を取りに、竈の脇へ歩いた。乾ききっていなかった。それでも、袖を通した。
「……分かりません」
「ボードワン様」
「本当に、分かりません。私は、数えただけです」
その方は、暖簾に手をかけた。暖簾は下りている。下りている暖簾を、その方は、手で持ち上げた。
「三日月堂さん。私を、お調べになるのは自由です。私は、逃げも隠れもいたしません」
「ええ」
「ただ、一つだけ」
その方は、振り向いた。
「私を捕まえても、四十七点は戻りません。私は、運んだだけの男です」
雨が、外で音を立てていた。
「運ばせた人と、売った人は、別におります」
本日のご来店、ありがとう存じます。
雨の中を、二十七町、歩いていらっしゃいましたのよ。馬車をお使いにならずに。
質入れなさったのは、鍵ですわ。二十年、一度も差していない鍵。——刃が、光っておりましたの。
修繕の予算を三年削って、四年目に「壊れたこと」にいたしましたのね。
戻せば四十七点が二組になる。写しを引けば棚が空く。二度目の『破損につき処分』は、誰も信じない。
——嘘の利息は、時間で増えますのよ。当店、そういうお客様を、何度も拝見しておりますわ。
年に一度、休暇を取って、ご自分の金で数えにいらしたそうですの。
一年目、四十七点。十二年目、四十四点。十八年目、三十二点。今年、二十九点。
……ええ。数えておいででしたのよ。ただ、一行も、お書きにならなかったの。
書けば、返さねばなりませんもの。
次回、第76話『四十七点の在処は、祖母の帳面に、全部ございましてよ』——
書かなかった方が、お一人。書き続けた方が、お一人。当店の棚に、五冊ございますの。




