第74話:『紋を外すのは、隠すためではございませんわ。——外せる紋を、持っておいでなのですわ』
数の合わない話は、たいてい、数え方が違っている。
人が嘘をつくとき、いちばん先に壊れるのは中身ではなく、数だ。四十三件の委託が三十八件の記録になり、十二口の船券が二十口になる。この帳場で私が見てきた嘘は、全部、数の嘘だった。
……ええ。ですから、当店は、いつも数から入りますの。
「十四台」
テオが、帳場に指を三本立てた。三本の意味は分からない。
「宝物院の馬車、十四台って言ったろ。あの人が」
「ええ。殿下が仰いましたわ。全部に、剣と星の紋が入ると」
「じゃあさ」
テオは、指を四本にした。
「壊れたら、どうすんの」
私は、算盤から手を離した。
「……テオ」
「だって、馬車って壊れるだろ。オレ、荷馬車の車輪が折れんの、去年二回見た」
*
ジラール警吏長は、当店の帳場で、湯呑みを両手で包んでいた。四十年、王都の警吏をやってきた方だ。先ごろ、ジョスラン・ミレーの無罪を検事局に申し立ててくださって以来、月に二度ほど、こうして寄られる。
「役所の馬車を扱える車大工か」
「はい」
「三軒だ。北の門前に二軒、南の橋のたもとに一軒」
その方は、湯呑みを置いた。
「南のは、もう仕事をしとらん。親方が八十を越えた」
「その方に、伺いとうございますわ」
警吏長は、私の顔を見た。
「……三日月堂」
「はい」
「四十年、警吏をやってきて、儂は、質屋の帳場でこんなに物を教えたことがない」
「ええ」
「教えるたびに、儂の役所が、少しずつ恥をかく」
「ジラール様」
「なんだ」
「恥をかくのは、役所ですわ。あなたではございませんの」
その方は、しばらく黙って、それから、帽子を取った。
「南の橋のたもとだ。看板は出とらん。青い扉を探せ」
*
青い扉は、剥げていた。
工房というより、物置だった。天井から車輪が七つ下がっていて、床には輻の束が積んである。奥に、老人が一人。八十を越えているというのは、本当らしい。耳が遠く、目が白い。
「なんだって?」
「馬車を、伺いに参りましたの!」
「馬車は売っとらん!」
「買いには参りませんわ!」
テオが、私の袖を引いた。
「姐さん、これ、書いたほうが早くない?」
……ええ。
賢い子だ。
私は、質札の裏に書いた。『二十年前の秋。王立宝物院の馬車を、一台、解体なさいましたか』老人は、それを二寸の距離まで近づけて読んだ。
読んで、しばらく動かなかった。それから、奥へ這っていって、木の箱を引きずり出してきた。
受取帳である。車大工の帳面だ。仕事を受けた日、注文主、品、代金。それだけが四十年ぶん、書いてある。
「……あんた、どこの質屋だ」
声が、急に近くなった。耳が遠いのではなく、大声で話す癖がついているだけらしい。
「ラトン街の三日月堂ですわ」
「エルマんとこか」
「はい」
「あの婆さんも、この帳面を見にきた」
私の指が、止まった。
「いつのことですの」
「二十年前だ」
帳面の、二十年前の秋の頁を開いていただいた。
一行目。
『宝物院 運搬馬車 一 解体 金貨十二枚』
日付は、九月の末である。四十七点が『破損につき処分』と書かれた日の、四日後だ。
「解体、なさいましたのね」
「解体しとらん」
老人は、節くれだった指で、次の行を指した。
『同 台木・車軸・車輪 組み直し 金貨二十枚』
「車体だけ焼いた。台と、車軸と、車輪は、そのまま組み直した」
「では、この馬車は」
「走っとる」
その方は、当たり前のことのように仰った。
「役所の馬車ってのはな、下がいいんだ。台木が樫の四寸で、車軸が鉄の一本もの。二十年やそこらじゃ、へたらん。……上に載せる箱を替えりゃ、別の馬車になる」
私は、片眼鏡を着けた。目の前にあるのは紙だけだから、着ける必要はない。それでも着けた。着けると、指の震えが止まる。
「箱は、どんなお箱を」
「黒塗りだ」
「紋は」
老人は、笑った。歯が、三本しかなかった。
「紋なんぞ、要らんと言われた」
私は、質札の裏に、もう一つ書いた。
『役所の馬車の紋章は、どのように付けますの』
「板だ」
老人は、壁から一枚、外して見せた。厚さ三分ほどの、樫の板。表に浅い彫りがあって、色が塗ってある。裏に、真鍮の爪が四つ。
「扉の窪みに、これを嵌める。四隅に爪を掛けて、下から鋲を一本。それだけだ」
「なぜ、板ですの」
「役所は、紋が変わる」
その方は、板を膝に置いた。
「大臣が替われば紋が替わる。役所が潰れれば紋が消える。合併すりゃ、また替わる。……そのたびに扉を彫り直しとったら、金がいくらあっても足りん」
「では、外せますのね」
「鋲を一本、抜くだけだ」
私は、その板を、灯りに向けた。
……ええ。
この半年あまり、当店はこの馬車を探してきた。
ソレルの雇い主が乗っていた馬車。怪文書の紙を千五百枚買った馬車。谷の工房へ鏨を二百本届けた馬車。ジョスラン・ミレーの工房の戸に、祖母の名を書いた紙を挟んだ馬車。全部、同じ馬車。
そして私は、それを「紋を隠している馬車」だと思っていた。
違った。
紋を外すのは、隠すためではございませんの。——外せる紋を、お持ちなのですわ。
「テオ」
「なに」
「宝物院の馬車は、十四台ですわ」
「うん」
「二十年前の秋に、一台、『破損につき処分』になっておりますの」
テオが、口を開けた。
「……四十八じゃん」
「ええ」
「四十七点と、馬車で、四十八」
「テオ。数が、また合いませんのよ」
「え」
「ミレー様の手が思い出した四十八点目は、石ですわ。帳面から消えた四十八点目は、馬車ですの」
私は、指を二本立てた。
「別の、四十八ですわ。……同じ年に、二つ」
私は、帳面の頁を、もう一度読んだ。同じ月。同じ役所。同じ言葉。
『破損につき処分』——四十七点。
『破損につき処分』——馬車、一台。
壊れていない。四十七点も、馬車も、一つも壊れていない。壊れたことにして、蔵の外へ出したのだ。品を運ぶ物ごと。
……ええ。
ずいぶん、行き届いている。品を持ち出すのに役所の馬車を使えば、門番が記録を取る。だから、馬車ごと、帳面から消した。
二十年、その馬車は、この王都を走っておりますの。誰の馬車でもない顔をして。最後に、一つだけ伺った。
私は、受取帳の、注文主の欄を指した。役所の仕事なら、そこには役所の名が入るはずだ。「王立宝物院」と。
入っていなかった。個人の名が、一つ、書いてあった。
『J・ボードワン』
老人は、その名を指でなぞった。
「若いのが来たよ」
「若い、と仰いますと」
「二十八か、九か。役人だ。あんな青い顔した役人は、後にも先にも見とらん」
その方は、帳面を閉じた。
「三日、通ってきた。一日目は、解体してくれと言った。二日目は、解体しないでくれと言った」
「……三日目は」
「三日目は、何も言わんかった」
老人は、木の箱に帳面を戻した。
「ただ、金を置いて、こう言った。『この帳面を、捨てないでください』とな」
私は、動かなかった。
「捨てなかったのですわね」
「客が置いてった言葉だ。捨てるかい」
*
帰り道、テオは、ずっと黙っていた。橋を渡って、東市の裏を抜けて、ラトン街の角を曲がるまで、一言も喋らなかった。それから、こう言った。
「姐さん」
「なあに」
「あの人、あの帳面、残してくれって言ったんだろ」
「ええ」
「なんで?」
私は、暖簾に手をかけた。細い月の抜き型が、夕方の風に揺れている。
「テオ。二十年、誰にも言えない人間が、一つだけできることがございますのよ」
「なに」
「証拠を、捨てないことですわ」
役所の馬車の紋は、板でございましたの。鋲を一本抜けば、外れますのよ。
——紋を隠しているのではございませんわ。外せる紋を、お持ちなのですわ。
『破損につき処分』は、四十七点ではございませんでしたの。四十八点ですわ。
最後の一点が、馬車ですのよ。品を運ぶ物ごと、帳面から消しましたのね。
車大工の受取帳も、拝見いたしましたわ。注文主の欄に、役所の名はございませんでしたわ。
——三日通って、一日目は「解体してくれ」、二日目は「解体しないでくれ」。
三日目は、何も仰らなかったそうですのよ。ただ、こう置いていかれましたの。
『この帳面を、捨てないでください』
次回、第75話『ボードワン様。あなたのお名前が、二十年前の受領欄にございますわ』——
二十年、誰にも言えなかった方が、当店の暖簾をくぐりますわ。
ここまで数が合ってきた方は、評価の☆を。四十七に、一つ足しますのよ。




