第73話:『侯爵閣下。——お品物を、拝見いたしますわ』
買う側の人間を見るときは、品物を見る手つきを見る。
欲しい品を前にすると、人は必ず、どこか一箇所を余計に触る。触った場所が、その人の欲の在処だ。三十年、祖母はそれで客を選り分けていたらしい。裏台帳の備考欄に、たまにそう書いてある。『指が縁を撫でた。値切る気なし』
……ええ。当店も、本日は、そのつもりで帳場に座りますわ。
三十七点を、朝から並べた。
布は白。灯りは低く。テオが四度、位置を直した。四度目に、私が「もうよろしゅうございますわ」と申し上げた。昼の鐘が鳴って、少ししてから、鈴が鳴った。
からん。
「——三日月堂に、参りました」
背の高い老人だった。
白い髪を短く刈って、外套は濃い灰。杖を持っておいでだが、体重をかけてはいない。持っているだけだ。持っているだけの杖は、老人を老けさせない。
「ユーグ・ド・モンフォールと申します」
「お待ち申し上げておりましたわ」
「先代のお店に、二度、伺ったことがある」
その方は、店の中を見回した。天井の梁を、少し長く見た。
「……天井が、低いままだ」
「ええ。祖母が、そのままにしておりましたの」
「そうだろうな。低いほうが、品がよく見える」
帳場の前に、座っていただいた。
三十七点は、その方の右手に並んでいる。銀の水盤、燭台、酒器の一揃い、剣の鍔、写本の留め金。メルローズ公爵家が三代かけて集め、継母が二年で売り、祖母が二十年かけて買い戻した品々である。
モンフォール侯爵は、そちらを見なかった。目録だけを、膝の上で開いた。
「三十七点、すべて頂きます。値は、こちらに書かれたとおりで」
「……閣下」
「はい」
「ご覧になりませんの」
その方は、目録から顔を上げた。
「見れば、欲しくなる」
「ええ」
「欲しくなれば、値切る」
それから、少しだけ笑われた。
「私は、値切るのが上手いのでね。上手すぎるので、見ないことにしている」
……まあ。
この方は、自分の欲を、書式で縛っている。私は、算盤を引き寄せなかった。まだ、弾く場面ではない。
「閣下。一点だけ、お手に取っていただけますこと?」
「どれです」
「水盤ですわ」
その方は、杖を膝に立てかけて、両手で水盤を持ち上げた。持ち方が、正しかった。
縁を掴まない。底を左手に載せ、右手は添えるだけ。銀の薄い器は、縁を掴むと必ず歪む。この帳場で、正しく持てた客は三人しかいない。その方は、灯りを避けて、影のほうへ器を傾けた。
「……三代前の細工だ」
「ええ」
「打ち出しは一枚から。継ぎがない。底の紋は、あとから彫ってある。彫った鏨は、王都の物ではない。南の、たぶん港のほうの職人だ。鏨の返しが浅い」
三行だった。
私は、片眼鏡の鎖に指をかけた。
……ええ。この方は、本物ですわ。
「閣下は、鑑定官でいらしたことが」
「一度もない」
その方は、水盤を布の上に戻した。戻し方も、正しかった。
「宝物院に二十二年おりましたが、私は事務方です。数える側でしてね」
「数える側」
「そう。物を見るのは、鑑定官の仕事です。私は、鑑定官が見たものを帳面に書く。……三十年、そうしてきました」
嘘ではない。
けれど、本当でもない。数える側の人間は、三行で鏨の産地を当てたりしない。
「閣下。祖母を、ご存じだそうですわね」
「エルマ・クロッシュ」
その方の目が、少しだけ細くなった。
「二度、負けました」
「一度目は、三十二年前だ」
モンフォール侯爵は、杖の握りを撫でた。
「東市で、私は、ある壺を買おうとしていた。銀貨十二枚だ。安いと思った。……私の後ろから、若い女が来て、店の主人にこう言った。『それ、底に鑞が回っていますよ』」
「祖母ですのね」
「三十八だったかな。まだ、あの店を継いだばかりだった」
その方は、少しだけ笑った。
「私は買わなかった。買わなかったので、私は、その壺が偽物だったかどうかを、今日まで知らない」
「知りたくは、ございませんの」
「知りたくない。……知ってしまうと、あの日の私が、目のある男だったか、ただ怖がっただけの男だったかが、決まってしまう」
私は、その言葉を、帳面には書かなかった。書かなくても、覚えられる種類の言葉だったからだ。
「二度目は」
「二度目は」
その方は、そこで一度、黙られた。
「……申し上げますまい」
「閣下」
「三日月堂さん。負けた話を二つとも喋る老人は、みっともない」
私は、帳場の隅から、小さな布を取った。
開く。
蝋の石が、載っている。台座も、爪もない。丸く、少し扁平で、親指の腹ほど。モンフォール侯爵は、それを見た。
背は、動かなかった。息も、止まらなかった。
「玻璃ですな」
「ええ」
「よくできている。……蝋で、この稜線を出しますか」
その方は、身を乗り出しもせず、手を伸ばしもしなかった。
「三日月堂さん」
「はい」
「これは、誰の手です」
「存じませんわ」
「嘘だ」
上品な声だった。声を荒らげず、抑えもせず、ただ、事実として仰った。
「あなたは、作り手をご存じだ。……この店の帳場には、三十年、月に一度、その方が通っておられたのだから」
私は、答えなかった。答えれば、この方が何を知っているかを、こちらが認めることになる。
「ご心配なく」
その方は、身を引いた。
「私は、告げ口をする歳ではありません」
支払いは、三日後に現金と決まった。金貨三千二百枚。手形でも、為替でもなく、現金で。当店の帳場に、そんな金が入ったことはない。
「閣下。一つ、伺ってもよろしくて?」
「どうぞ」
「なぜ、お買いになりますの」
モンフォール侯爵は、杖を取って、立ち上がられた。
「あなたが、何かを買うためだからです」
私は、動かなかった。
「……ご存じで」
「知りません」
その方は、外套の前を合わせた。
「ただ、質屋が蔵を空にするときは、決まっている。もっと大きな物を買うときだ」
「閣下」
「先代も、一度、蔵を空にしました」
……ええ。
二十年前だ。
三十七点を、一点ずつ買い戻し始めた年である。
「良い目だ、と申し上げておきましょう」
その方は、暖簾に手をかけた。
「三日後に、金を届けます。——それと、三日月堂さん」
「はい」
「私の馬車は、外に停まっております。ご覧になるとよい」
*
通りに出た。
黒塗りの、いい馬車だった。四頭立てで、車輪の輻が細い。扉に、紋章がある。
鷹と、麦の穂。剣と星ではない。モンフォール侯爵家の紋である。私は、御者に尋ねた。
「失礼ですけれど。この紋章の板は、外れますこと?」
初老の御者は、変な顔をした。
「外れませんよ、お嬢さん」
「と、仰いますと」
「彫り込みです。板じゃない。……外れる紋を付けるのは、役所の馬車だけでさあ」
馬車が動き出した。角を曲がるまで、私はそこに立っていた。
……ええ。
紋のない馬車は、この方のものではない。この方は、隠さない。隠さずに、堂々と、こちらへ寄ってくる。
*
夜。
店じまいの刻限に、鈴が鳴った。黒い外套。手が、空。
「侯爵が来たそうだな」
「まあ。お早いこと」
「王都で一番早いのは、下町の噂だ。……宝物院より、三日早い」
私は、湯を沸かした。この方は、茶を出しても飲まない日がある。飲まない日は、長居をなさらない。
「殿下。閣下は、二十年前の秋、宝物院の次官でいらっしゃいましたわ」
「知っている」
「ご存じで」
「昨日、官員録を買った」
……まあ。
私は、湯呑みを置く手を、少し止めた。
「銅貨一枚だ。書肆の主人に、笑われた。『王弟殿下が官員録をお買いになる』と」
「殿下。それは、お調べになったことになりますわ」
「ならん。書肆は、役所ではない」
その方は、湯呑みを取った。今日は、飲まれるらしい。
「ヴィオレッタ殿」
「はい」
「金は、足りるのか」
私は、答えなかった。
「……足りないな」
「殿下。当店、金の話は、お客様としかいたしませんの」
「私は客だ。質草を二つ、預けている」
「二つ目は、まだ帳面に載せておりませんわ」
その方の指が、湯呑みの縁で止まった。
「載せない理由は」
「値を、つけねばなりませんもの」
しばらく、店の中には、外の風の音しかなかった。
「……そうか」
その方は、それだけ仰った。
それだけ仰って、湯呑みを両手で包まれた。下町の焼き物である。右の縁が欠けている。
見れば欲しくなる、欲しくなれば値切る。だから見ない——ご自分の欲を書式で縛っておいでですのね。
それでいて、水盤を三行で言い当てられましたわ。事務方だと仰るのに。
祖母に、二度、負けたそうですのよ。一度目は三十二年前の東市。
二度目は、お話しになりませんでしたわ。……当店、その二度目を、いずれ伺いに参りますの。
お帰りに、ご自分から馬車をご覧なさいと仰いましたの。紋は、彫り込みでしたわ。
外れる紋を付けるのは、役所の馬車だけ。——ええ、そう伺いました。御者から。
次回、第74話『紋を外すのは、隠すためではございませんわ。——外せる紋を、持っておいでなのですわ』——
半年あまり探した馬車が、ようやく、帳面に載りますのよ。
祖母に二度負けた老人が気になった方は、ブックマークを一つ。二度目のお話は、いずれ伺いますわ。




