第72話:『当店の蔵は、空にできますのよ。——空にするために、ございますもの』
質屋の蔵は、貯めるための場所ではない。
物が入って、物が出ていく。入るときは持ち主が困っていて、出るときは持ち主が持ち直している。そういう場所だ。中身が一年動かない蔵は、質屋の蔵ではなく、ただの物置である。
……ええ。当店の蔵は、一つだけ、動いておりませんの。
「金貨、二百十四枚」
テオが、帳場の上で最後の一枚を積んだ。積み上がった金貨の柱が、五本。
「あと、銀貨が六十枚と、銅貨が」
「銅貨はよろしいわ」
「よくねえよ。数えたんだから」
私は、算盤を弾いた。現金、金貨二百十四枚。
貸付の残り、四百三十枚。ただし、これは今日戻ってくる金ではない。取り立てれば戻るが、当店は取り立てをしない。
質草棚の中身、見積もりで百七十枚。流れていない品だから、これも売れない。
「姐さん」
「なあに」
「四十六点、いくらすんの」
私は、答えなかった。答えは、もう出ている。
ポレットさんの針箱が金貨百二十枚。あれは小さいほうの品だ。銀水差しは百八十匁ある。写経箱は錠前が二つ。香炉は獅子の摘みつき。平均して、一点、百枚。
四十六点で、四千六百枚。
そして、当店の買い方は「元利込み」だ。二十年、人の家の棚で埃を払われてきた品を、買い叩くわけにはいかない。利息を乗せれば、五千枚を超える。
「テオ」
「なに」
「当店、金貨二百十四枚しかございませんの」
「……うん」
「五千枚、要りますわ」
テオは、金貨の柱を一本、指で倒した。
ちゃら、と音がした。
その日の午後、土間に人が来た。
マルゴさん。ボナール氏。油問屋のご隠居。パン屋のドニさん。指物師。誰も、質草を持っていない。
「お嬢」
ドニさんが、粉だらけの前掛けのまま、帳場の前に立った。
「爺さんどもが、集まってな」
「ええ」
「金を出す、と言っとる」
私は、算盤から手を離した。
「三百五十二軒だ。一軒から金貨一枚ずつでも、三百五十二枚になる」
「ドニ様」
「聞け。俺は五枚出す。ご隠居は五十枚だ。あんた、去年、この街の店を四十軒残したんだ。それくらい——」
「お断りいたしますわ」
土間から、声が消えた。
*
「お嬢さん」
マルゴさんが、煙管を下ろした。
「あんた、意地を張る場面じゃないよ」
「意地ではございませんの」
「じゃあ何だい」
「筋ですわ」
私は、帳場の綴りを引き寄せた。四十八枚の目録である。
「このお品は、王家の蔵から出たものですわ。買い戻す金を、下町から集めましたら、どうなりますこと?」
「……どうなるって」
「王家の宝を、下町が金を出して買い戻した、ということになりますの」
私は、一枚を灯りに向けた。
「そうなりましたら、いずれ誰かが、こう申しますわ。『下町が、王家に貸しを作った』と」
ボナール氏が、帽子を握り潰した。
「貸しくらい、作ってやってもよかろう」
「ええ。作ってもよろしいのですわ」
私は、その一枚を綴りに戻した。
「ただ、その貸しを返せと言い出す方は、ここにおられる皆様ではございませんの。……三十年後の、どなたかですわ」
誰も、何も言わなかった。
「当店、三十年後に貸し倒れになる貸付は、いたしませんのよ」
日が暮れてから、私は蔵へ降りた。三日月堂の蔵は、店の裏から石段を七段。祖母が、そう作った。
一番奥に、扉がある。去年の夏の終わりに、私はこの扉を、祖母の片眼鏡の裏蓋に仕込まれた鍵で開けた。開けたときに、何があったかも、覚えている。
棚に、三十七点。メルローズ公爵家の、本物の家宝である。継母が横流しした「本物」を、祖母が二十年かけて一点ずつ買い戻し、この部屋に並べていた。
そして、卓の上に、手紙が一通。私は、それを、もう一度読んだ。あの日以来である。
『おかえり、ヴィオレッタ。
値打ちのわかるあなたに、全部残します。』二行だけの手紙である。祖母の字は、この頃、もう震えていた。
……お祖母様。私は、灯りを棚のほうへ向けた。三十七点が、順番に光った。
あなたは、「残します」と書いた。……「しまっておけ」とは、お書きになりませんでしたのよ。
*
「姐さん。それ、姐さんの家のもんだろ!」
テオは、石段の上から降りてこなかった。降りずに、そこから怒鳴った。
「それ売ったら、姐さん、何にも残んねえじゃん!」
「テオ」
「だって、ばあさんが姐さんに残したんだろ! オレ、聞いたもん!」
「ええ。祖母が、私に残しましたわ」
私は、棚から一点、取った。銀の水盤である。メルローズ家の紋が、底に彫ってある。
「ですから、私が、どういたしましょうと、私の勝手ですのよ」
テオの息が、上で止まった。
「……ずるい」
「ええ」
「ずるいよ、それ」
「ええ」
私は、水盤を灯りに当てた。あれから、誰の手も触れていない。埃が、指の腹についた。
「テオ。この部屋は、蔵ですの」
「……蔵だろ」
「質屋の蔵ですわ」
私は、埃を払った。
「質屋の蔵は、空になるためにございますのよ。物が入って、物が出ていく。入るときは、持ち主が困っておりますの。出るときは、持ち主が持ち直しておりますわ」
「これ、誰も困ってねえじゃん」
「困っておりますわ」
私は、水盤を布に包んだ。
「四十六人、困っておりますの。二十年、王家の宝を知らずに持っていた方々が」
目録を作った。三十七点。祖母の買い戻し値と、当店の見積もりを並べる。全部売って、金貨三千二百枚ほどだろう。
足りない。四十六点には、まだ二千枚近く足りない。
……ええ。足りないことは、承知しておりますわ。
足りないなりに、始めるしかない。この店の商売は、いつも、そういう始め方だ。問題は、売り方だ。
競売に出せば、足元を見られる。「三日月堂が家宝を売りに出した」と知れれば、値は必ず下がる。困っている売り手は、いつでも買い叩かれる。去年の春、私はそれをガロ商会の土間で見た。
だから、競売には出さない。目録を作って、買いそうな方へ、名指しでお送りする。
こちらから値をつけて、こちらから差し上げる。それが、当店の商売の型だ。
私は、宛名を十一書いた。王都の古物商が四つ。蒐集家が五つ。修道院が一つ。最後の一つで、ペンが止まった。
……ええ。
書いておきましょうか。貴族院宝物委員会の委員長のお宅にも、一通。
目録を出した翌朝、店の前に使いが来た。馬に乗った若い男で、名乗らなかった。木箱でも、封書でもない。小さな布の包みを一つ置いて、帰っていった。
開けると、革の手袋が、片方。右手のほうだ。
私の引き出しには、左手が入っている。三月ほど前から。包みに、紙が一枚。一行だけ書いてある。
『片方では、質草にならぬそうだ』
……まあ。
どなたに、お聞きになったのだろう。私は、二つを揃えて、引き出しに戻した。
揃えても、まだ、帳面には載せない。載せれば、値をつけねばならないからだ。
*
三日目に、返事が一通、来た。封蝋が、深い青だった。
紐は、金の縒りが一本。……この綴りは、拝見したことがございますわ。筆耕屋のジェルヴェ氏の紙に、いつも掛かっていた紐と、同じ色。
私は、封を切った。中身は、二行だった。
『目録、拝見いたしました。
三十七点、すべて、言い値で頂きたく存じます』署名は、一つ。
『ユーグ・ド・モンフォール』
当店の全財産は、金貨二百十四枚でしたわ。四十六点には、五千枚要りますのよ。……算盤が、笑っておりますわね。
下町の皆様が、金を出すと仰いましたの。お断りいたしましたわ。
——三十年後に貸し倒れになる貸付は、当店、いたしませんもの。
祖母は「残します」と書きましたのよ。「しまっておけ」とは、書いておりませんでしたの。
質屋の蔵は、空になるためにございますわ。物が入って、物が出ていく場所ですもの。
そして、目録をお送りした十一通のうち、三日目に一通だけ、お返事が。
封蝋が深い青で、綴じ紐に、金の縒りが一本。
次回、第73話『侯爵閣下。——お品物を、拝見いたしますわ』——
言い値で買う、と仰るお客様ほど、値踏みされておりますのよ。




