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婚約破棄された公爵令嬢は、下町で質屋を継ぎました 〜ところでその婚約指輪、贋物ですわよ?〜  作者: 朝比奈ミナ


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第71話:『ポレットさん。その針箱、あなたのものですわ。——ただ、来歴が長うございますの』

 物は、使われている間は、値打ちを訊かれない。


 毎日そこにあって、毎日開けられて、毎日閉じられる。訊かれるのは、手放すときだけだ。だから質屋の帳場には、いつも、二十年ぶん黙っていた物がやってくる。


 ……ええ。本日は、当店のほうから、伺いますわ。


 ポレットさんの部屋は、長屋の二階にある。畳三枚と、仕立て板と、窓が一つ。窓は南に向いていて、朝から昼まで、この部屋は針を使うのにちょうどよく明るい。


「まあ、お嬢さん。こんな朝早くに」


「お仕事の前に、失礼いたしますわ」


「いいんだよ。……あんた、また目が寝てないね」


 この街の女の方は、皆さん、同じところを見る。私は、上がり框に膝をついた。テオが、外の階段で待っている。狭い部屋だから、と自分から言った。


「ポレットさん。針箱を、拝見してもよろしくて?」


 その方の手が、止まった。


「……針箱?」


「ええ」


「こんな古いもの、見たって何にも」


「見たいのですわ」


 仕立て板の脇に、それはあった。銀の小箱。長さ四寸五分。蓋の縁が、二十年ぶん手垢で丸くなっている。


 私は片眼鏡かためがねを着けた。


 一つ目。


 銀の含みが、九割二分。この含みは、市には出ない。


 下町の銀器は、七割か、良くて八割だ。九割二分の銀は、王家御用達の細工師しか使わない。去年の秋、殿下の香水瓶で、私は同じ数字を拝見している。


 二つ目。


 蓋を開けた。中に、格子の仕切りがある。細長い枡が、六つ。ポレットさんは、そこに針を並べている。太い針が二本、中が三本、細いのが四本。糸切り鋏が一つ。


 私は、枡の一つを指で測った。


 ……ええ。


 この寸法は、針の寸法ではない。


 幅、八分。奥、八分。深さ、一寸二分。六つ、同じ大きさ。印判の寸法だ。役所の印を並べて仕舞う箱の、仕切りである。


 三つ目。


 私は、箱を裏返した。底の継ぎ目に灯りを当てて、爪の先で二度、なぞった。


 何もない。


 三日月も、月の欠けも、横倒しの線も。


 何も、ない。


「査定、確定いたしましたわ」


 私は片眼鏡を外した。


「ポレットさん。この針箱は、王立宝物院の印箱ですわ」


 ポレットさんは、しばらく、私の顔を見ていた。それから、笑った。


「お嬢さん。あんた、疲れてるよ」


「ええ、疲れておりますわ。けれど、目は疲れておりませんの」


「これ、うちの人が市で買ってきたんだよ。二十年前」


「ええ」


「銀貨六枚だ。晩の菜が買えないってのに、こんなもん買ってきてさ。あたし、三日、口きかなかった」


 その方の手が、箱の蓋に触れた。


「……三日目に、開けてみたら、仕切りがちょうどよくてね」


「ええ」


「二十年、使ってる」


 私は、算盤を持ってきていなかった。持ってこなかったのだ。この部屋に、算盤の音は要らないと思った。


「ポレットさん。値を、申し上げますわ」


「よしとくれよ」


「金貨、百二十枚ですわ」


 仕立て板の上で、鋏が転がった。


 *


 その方は、しばらく何も言わなかった。それから、両手で顔を覆って、そのまま前に倒れるように、仕立て板に額をつけた。


「……うちの人はさ」


「はい」


「目なんか、なかったよ」


「ええ」


「安かったから買ったんだ。銀貨六枚だから買ったんだ。あの人、いつだってそうだ。安いってだけで、いらないもん買ってきて」


「ポレットさん」


「なんだい」


「二十年前に、金貨百二十枚のお品を、銀貨六枚でお買いになりましたのよ」


 私は、箱の蓋を、そっと閉じた。


「それを、目と申しますの」


 肩が、震えた。私は、そこで黙っていた。この部屋は狭くて、窓が一つで、南に向いている。朝の光が、仕立て板の端まで来ている。


 ……お品物は、正直ですわ。二十年、この箱は、毎朝この光の中で開けられてきた。


 王宮の蔵の、番人四人に見張られている代わりに。落ち着いてから、私は、残りを申し上げた。


 嘘をつかずに申し上げるのが、一番むずかしい。


「ポレットさん。このお品は、二十年前に王宮の蔵から出たものですわ」


「……盗品ってことかい」


「まだ、どこにも、盗まれたとは書いてございませんの。ただ、帳面には『破損につき処分』とございますわ」


「壊れてないよ」


「ええ。壊れておりませんわ」


 その方は、箱を胸に抱えた。仕立て物で四十年生きてきた腕だ。細いが、抱えたものは離さない腕である。


「いずれ、王家が返せと仰いますわ」


「……そうかい」


「そのとき、あなたは盗品を持っていたことになりますの。買った証も、二十年前の市の売り札しかございませんもの」


「じゃあ、持っていきな」


 その方は、箱を突き出した。


「あんたが取り返してくれた指輪も、あんたが取り返してくれたんだ。この箱もあんたが持っていきゃいい。あたしゃ、木の箱でいいよ」


「頂きませんわ」


「なんでだい」


「買いますの」


 *


 私は、懐から金子を出した。金貨百二十枚は、重い。布の袋が二つになった。


「そんな——お嬢さん、そんな大金」


「値段ですわ」


「値段って、あんた」


「ポレットさん」


 私は、袋を仕立て板に置いた。


「当店、形見に値をつけますのよ」


 その方の目が、また濡れた。


「去年の春に、あなたが当店にいらしたとき、当店はまだ、値をつけるのが怖うございましたの。形見に値をつけるのは、酷いことだと思っておりましたわ」


 私は、袋の口を開けた。金貨は、朝の光の中で、ずいぶん白く見えた。


「今は、そう思っておりませんの。……値をつけないのは、逃げですわ」


「逃げ?」


「ええ。値をつけなければ、誰も、その方の目を褒めなくて済みますもの」


 ポレットさんは、金貨を見なかった。箱を見ていた。


「……お嬢さん。中身は、返しとくれ」


「ええ、もちろん」


 *


 針を、一本ずつ移した。私が空の木箱を持ち、その方が針を並べる。太い針が二本、中が三本、細いのが四本。糸切り鋏が一つ。


 二十年、同じ場所に並べてきた並べ方だ。移した先でも、同じ順に並んだ。最後の仕切りに、指が入った。


「……なんか、貼りついてる」


 その方が爪の先で剥がしたのは、小さな紙片だった。日に焼けて、茶色い。私は、それを窓の光に当てた。


 市の売り札である。競売のときに、品に貼る紙だ。


『王都 東市  銀貨六枚』


 その下に、出品者の欄がある。擦れていた。二十年、箱の底で擦れて、名の頭の一字しか残っていない。


『M』


 ……ええ。


 この字には、覚えがある。


 去年の秋、継母の口座は「U夫人」の名で開かれていた。人は、名を隠すときに、頭の一字だけ残す。全部消すと、かえって目立つからだ。


「ポレットさん。この札、お預かりしてもよろしくて?」


「そんな紙切れ、いくらでも」


「いいえ」


 私は、それを胸元の帳面に挟んだ。


「この紙切れが、二十年前に、この箱を市へ出した方の名を、一字だけ、覚えておりますのよ」


 階段を降りると、テオが座り込んで待っていた。


「姐さん。長かった」


「ええ」


「取れた?」


「買いましたわ」


 テオが、立ち上がりかけて、止まった。


「……買った?」


「金貨百二十枚ですわ」


 その顔が、みるみる白くなった。


「ひゃ——百二十!? 姐さん、それ、一点だろ!?」


「ええ。一点ですわ」


「あと、何点あんの」


 私は、路地の先を歩き出した。冬の朝の風が、下町の狭い通りを抜けていく。


「四十六点ですわ」


 テオが、後ろで足を止めた。


「姐さん」


「なあに」


「うち、いくら持ってんの」

蓋の内の仕切りは、針の寸法ではございませんでしたの。印判の寸法ですわ。

——役所の印を仕舞う箱が、二十年、下町の針箱でしたのよ。毎朝、南の窓の光で開けられて。


値をつけないのは、逃げですわ。値をつけなければ、誰も、その方の目を褒めなくて済みますもの。

銀貨六枚で金貨百二十枚のお品を選んだ旦那様に、二十年ぶんの値札を貼ってまいりました。


箱の底に、紙が一枚ございましたの。二十年前の市の売り札ですわ。出品者の名は、頭の一字だけ残っておりましたわ。

……当店、この隠し方に、覚えがございますの。


次回、第72話『当店の蔵は、空にできますのよ。——空にするために、ございますもの』——

一点で金貨百二十枚。あと四十六点。帳場の算盤を、弾きますわ。


旦那様のお目に、☆を一つ。二十年、どなたも褒めなかったお目ですのよ。

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