第69話:『「国のため」と仰る方の帳面ほど、面白いものはございませんわ』
人を調べるのに、その人に会う必要はない。
会えば、相手は姿勢を整える。整えた姿勢は、その人の平時ではない。私が知りたいのは、二十年前の秋に机の前に座っていた二十九歳のほうであって、今朝、当店の帳場で背筋を伸ばしていた四十九歳のほうではないのだ。
……ええ。紙のほうが、正直ですわ。
「マルゴさん」
「おや、朝から」
ラトン街の口入屋の土間は、煙管の匂いがする。マルゴさんは、板の間に胡座をかいたまま、煙管の雁首でこちらを指した。
「あんた、目が寝てないね」
「昨夜、少し帳面を繰っておりましたの」
「エルマもそうだった」
「まあ」
「三日眠らないで、四日目に一日中寝るんだ。孫も同じかい」
私は、包みを板の間に置いた。中身は、当店で焼いた菓子——ではなく、質草棚から出した鍋である。三年前にこの方が質入れして、そのままになっていた鍋だ。
「利息の代わりですわ」
「まだ何も頼まれてないよ」
「これから、頼みますの」
頼んだのは、紙集めだった。
「王都の質屋に、二十年前から今日までに宝物院から届いた通達を、写しでも構いませんから集めてくださいまし」
「通達? あんな紙、みんな捨てるよ」
「捨てない店が、必ずございますわ」
質屋という商売は、紙を捨てられない。捨てて困った経験が、どの店にも一度はある。だから箱に放り込んで、二十年でも取っておく。
「三百五十二軒ですわ。全部でなくて結構ですの。古い店から、十軒ほど」
「日当は」
「銅貨十枚。それと、鍋を一つ」
マルゴさんは、煙管を灰吹きに打ちつけた。かん、と乾いた音がした。
「爺さんども、喜ぶよ。日当の出る仕事なんざ、質庫が潰れてから初めてだ」
*
紙は、三日で集まった。帳場に積むと、私の背丈の三分の一ほどになった。ボナール氏が、両腕で抱えて運んできて、帳場の前で盛大にくしゃみをした。
「埃だ。……儂の店の箱は、二十二年、開けとらん」
「ありがとう存じますわ」
「礼はいらん。日当をもらった」
その方は、帽子を握り潰しながら、それでも帰らなかった。
「……お嬢さん。何を探しとる」
「筆跡ですわ」
「筆跡?」
「ええ。二十年前の秋に、宝物院の出納帳へ『破損につき処分』と四十七回書いた方の、手ですの」
ボナール氏は、しばらく黙っていた。
「儂にも、読めるか」
「読めますわ。字は、読めなくても見えますもの」
やり方は、単純だ。
通達を年で並べる。宝物院から出る文書は、書記官が清書する。清書する人間は、五年か十年で替わる。だから字も替わる。二十年前の束を開くと、そこに一人の字があった。
小さく、右上がり。「の」の結びが必ず閉じきらない。数字の「四」の縦棒が、下で少しはねる。私は、その一枚を灯りに近づけた。
……ええ。
この手だ。去年の秋、宝物院の資料室で、私は同じ字を四十七回、続けて見た。
『破損につき処分』
同じ「四」の、同じはね方。
「テオ」
「なに」
「この束の、署名を読んでくださいまし」
テオが、紙の下の端に顔を近づけた。この一年で、この子は字を覚えた。まだ、読むのに指を使う。
「……おう、りつ、ほう、もつ、いん。……しょ、き……かん」
「その次ですわ」
「ジェ、ラー、ル、ド、ボー……」
テオの指が、止まった。
「姐さん。これ、昨日の人だ」
「ええ」
二十年前、書記官。今、次官。私は、その一枚を綴りに挟んだ。
……ええ。書いた手は、確かに、あの方のものだ。
けれど、書いた人と、書かせた人は、別である。
*
夕方、店を早く閉めた。私は、祖母の棚の一番下から、もう一つの列を引き出した。公開目録の隣にある、さらに薄い冊子。背に年が入っている。
『王国官員録』
これも書肆で売っている。銅貨一枚。役所の名前と、そこに勤める者の名と、役職だけが載っている冊子だ。祖母は、これも三十年ぶん揃えていた。……お祖母様は、いったい何を見張っていたのだろう。
いや。見張っていたのではない。この方は、ただ、数えていたのだ。物の名前と、人の名前を、三十年。
私は二十年前の一冊を開いた。宝物院の頁は、七行しかない。
『総裁 (欠)』
『次官 ユーグ・ド・モンフォール』
『主任鑑定官 (略)』
『書記官 ジェラール・ド・ボードワン』
総裁が空欄だった。
二十年前、王立宝物院の総裁の椅子は、空いていたのだ。前の総裁が退いて、次が決まっていなかった。決まったのは——私は、指で年を数えた。八年後。ルシアン殿下が十五で総裁になられた年である。
つまり、二十年前の秋。あの蔵の一番上には、誰も座っていなかった。
……ええ。
番人のいない蔵だ。次官が、実質の頂だった。
ユーグ・ド・モンフォール。私は、その名を、今年の官員録で引いた。宝物院の頁には、もういない。貴族院の頁にあった。
『宝物委員会 委員長 ユーグ・ド・モンフォール侯爵』
もう一つ、読むものがあった。三年前の、貴族院宝物委員会の議事録。ボードワン次官が「下町の質屋は王都の恥」と申された、あの席の記録だ。
私は、その頁を昨夜のうちに写してある。次官の発言のあとに、委員長の発言が続いていた。
『委員長(モンフォール侯)——次官の言は、いささか性急である。
下町の質屋には、目がある。当院には、目録がある。
目録は物を数えるが、物を見ない。見るのは人であって、紙ではない。当院がこの二十年、一度も帳尻を違えずにきたのは、当院が正確だからではなく、当院が数えるだけで済む場所だからである。
質屋の目を恥と呼ぶ前に、当院が己の目を数えるべきであろう』私は、そこで読むのをやめた。
湯呑みに手を伸ばして、中身が空なのに気づいて、そのまま置いた。……お上手ですこと。
正しゅうございますわ。一行も、間違っておりませんの。三年前、この方は、宝物院には目がないと仰った。役所の頂におられた方が、公の席で、ご自分の役所に目がないと。
それを言える人間は、二通りしかいない。本当に、目のある方。
もしくは——目がないことを、二十年前から知っておいでの方。外で、車輪の音がした。
当店の前で止まる音ではなかった。通り過ぎていく音だ。それでも私は、帳場から立って、暖簾の隙間から通りを見た。荷馬車だった。豆屋の。
……ええ。少し、疲れておりますわ。
帳場に戻ると、卓の端に、革の手袋が片方だけ載っている。三月ほど前に、ある方が置いていかれたものだ。取りに来る、と仰って、それきり。もう片方は、その方の手にある。
私は、それを引き出しに戻した。戻すときに、少しだけ手が止まった。私はまだ、これを質草の帳面に載せていない。
載せれば、値をつけなければならないからだ。
「姐さん」
テオが、店の奥から顔を出した。
「明日、宝物院いくの?」
「参りませんわ」
「じゃあ、どうすんの」
「閲覧を、申し込みますの」
私は、便箋を一枚、引き出した。
「当店ではなく、質商組合の名で。組合には、王国質商法に基づく照会の権がございますのよ。宝物院の出納帳の、公開されている部分だけならば、誰でも見られますわ」
「見せてくれんの?」
「見せねばなりませんの。役所ですもの」
*
返事は、二日で来た。封を切ると、一枚だった。折り目が正確で、印は朱、宛名は組合。
『王立宝物院 資料閲覧室は、当分の間、補修のため閉室いたします。
再開の期日は、追ってお知らせいたします』私は、その一枚を灯りにかざした。
字は、右上がりで小さい。「の」の結びが、閉じきっていない。
お読みいただき、ありがとうございます。
紙は、正直ですのよ。人は姿勢を整えますけれど、二十年前に書いた字は、整え直せませんもの。
——『四』の縦棒が、下で少しはねますの。四十七回、同じように。
二十年前、宝物院の総裁の椅子は、空いておりましたわ。番人のいない蔵ですのね。
そのとき蔵の頂におられた方が、三年後にこう仰いますの。「当院には目がない」と。
……ええ。あの一行は、どこも間違っておりませんのよ。
次回、第70話『閲覧できない帳面は、無いのと同じですわ。——ですから、外を数えますの』——
中が閉まりましたら、外を数えるまでですわ。当店、外なら、三百五十二軒ぶん、ございますのよ。




